第38話 少年時代
店を飛び出して向かったのは、自分の家だ。昨日は勢いで飛び出したくせに、今はまるで殴り込みにでも行くみたいに地を蹴り歩いている。
私をつき動かしているのは、怒りの感情だ。
「お母様!! お母様はいらっしゃいますか!?」
使用人達が驚いているなか、二階の廊下で妹が不安げにこちらを覗いているのが見えた。
部屋に戻るようにと、声をかけようとしたところで、お母様の不機嫌な声に遮られた。
「なんですか、朝から騒々しい」
奥からお母様がやってくる。私の顔を見るなり、表情を曇らせた。既に沸点寸前である。
「ルーシー! 昨夜はどこにいたの? まさか、あの平民の所じゃないでしょうね?」
押し黙る私に、みるみる嫌悪があらわになる。まるで汚物でも見るかのような目を向けると一瞥した。
「──穢らわしい!!」
昔から、お母様の顔が嫌いだった。軽蔑と嫌悪が表情に染み付いた顔。この顔を向けられるたび、私は何も言えなくなった。この目に何度も殺されてきた。
「……こ、婚約解消を申し出たそうですね」
「当然です。あなたがもたもたしているから」
「勝手に決めないで! なぜいつも私抜きで話を進めるの!?」
「世間知らずで、まともに男性と付き合えたこともないあなたに何がわかるというの? あの平民、きっと最初からウチの財産を狙っていたんだわ。出会ってすぐに婚約を結ぶなんて、おかしいと思ったのよ。あなた、騙されているのよ」
そんなのありえない、と首を振る。
「そんなわけないじゃない!! お見合いのお話を持ちかけたのはお母様からでしょう!?」
「ちょうど良いタイミングだっただけのことでしょう」
「そんな人じゃないわ!! 失礼なことを言わないで!!」
「ほら、ごらんなさい。先に体の関係を持つから、情が移って離れなれない」
「そんなんじゃないわ!! 関係だって持ってない!!」
「どうだか。あなた変わったわ。あの男と出会ってから、親の言うことを聞かないし、嘘までついて。まるで反抗期ね」
許せない。胸の奥から湧いて出る、憎しみに近い感情に身震いした。
本当に私の為になることをしてくれたのはジョセフだ。そんな彼を侮辱されたのが許せない。
頬に熱いものが伝う。怒りでも涙が出るのだと、今初めて知った。
「嘘なんか吐いてない!!!!」
「この嘘つき!! そんなに平民になりたいなら出ていきなさい!! うちの財産はびた一文も渡しませんからね!!!!」
捨て台詞を言うと、使用人を呼んで、私をつまみ出すように言いつけた。
戸惑っている使用人を横目に、私は自ら家を出た。
今度こそ、本当に勘当されたのだ。
***
──ジョーはどこへ行ったのだろう。
商店街をトボトボと歩いていると、背後から声をかけかれた。振り返ると、親しみのある笑みを浮かべたパン屋の主人とおかみが立っていた。二人とも大きな小麦粉の袋を両腕で抱えている。
「おかみさん!」
挨拶をすると、普段無口なご主人もにこやかに返してくれた。
「どうしたんだい、そんなに焦って。落し物でもしたのかい?」
「いいえ、ジョーを探しているんです」
「ジョーなら、さっきうちに挨拶にきたよ」
「本当ですか!? 何か言っていませんでしたか? どこかへ行くとか──」
詰め寄る勢いにおされて、おかみは私の倍はある身体を僅かに後ろへ傾けた。
「お世話になったからって挨拶に来たんだよ。外国へいくのが予定よりも早まったってね」
「……ということは、もう出発する気!?」
「詳しい日にちまでは言ってなかったけれど、チケットが手に入らなかったら、知り合いの船に乗せてもらうって言ってたよ」
知り合いの船? 誰のだろう。
ジョセフは知り合いが多いから、思い当たる人物が出てこない。私の知らない人である可能性も高い。
「それにしても、寂しくなるねえ。あんなに人見知りだった坊やが、本当に外国へ行っちゃうなんてねえ」
「人見知り? ジョーが、ですか?」
「ああ、そうだよ。今じゃ想像できないでしょう?」
おかみさんは懐かしむように微笑むと、小麦粉の袋を抱え直した。それを見た主人が、無言で荷物を渡すように促すと、おかみさんは「お願い」と言って重そうな袋を渡した。
そんなに持てるのだろうかと心配するのも束の間、主人は自分とおかみさんの荷物を、軽々と両肩に担ぐと、私に向かって軽く会釈をして行ってしまった。
「すみません、お忙しいのに」
「なあに、大丈夫だよ。あの人もゆっくりしてこいって言ってるし」
え、そうなの? 無言だったけど……。
長年連れ添った夫婦間では通じるものなのだろうか。
「ちょっくら散歩でもしようか」快活に笑って歩き出したおかみさんを慌てて追う。
洋装店が見えなくなった頃、おかみさんが静かに話し始めた。
「昔はね、あの子のお母さんと仲良くさせてもらっていたんだ」
「たしかジョーのお母様はもう……」
おかみさんが頷く。
「もう十五年も経つんだねえ。彼女が亡くなった時、あの子はまだ十歳にも満たなかった。人見知りで、いつもお母さんにくっついて歩いていたくらい」
「ぇえ……、想像つかないな……」
難しい顔で呟くと、おかみさんが「そうだろうさ」と言って笑う。
「顔を合わせる度に「息子になかなか友達が出来ない」って、口癖みたいにこぼしてたよ」
「一人も?」
「ああ。だから知り合いに同じ年頃の息子がいたから、遊んでやってくれって頼んでみたのさ。そしたらなんてことはない。あっという間に仲良くなって、よく遊びに出かけるようになったもんだから、お母さんも泣いて喜んでたよ」
懐かしむように微笑んでいたのも束の間、今度は表情に哀愁が浮かぶ。
「父親の事業が軌道に乗り始めた頃、彼女の病が悪化してねえ、もともと身体が弱かったから。彼女が床に伏せるようになってからは、ほとんどあの子一人で看病していたみたいだけれど……。だから、酷く落ち込んでいたよ。それなのにあの父親は──」
その声色に憤りがあらわれた。
「死に際どころか、葬儀にすら顔を出さなかった」
「そんな、まさか──」
悪い冗談かとおかみさんを見やる。眉尻を下げ、首を横に振るその様子から、事実だと悟った。
だとすると、まだ子供だったジョセフが、たった一人で母親を見送ったのだ。
「妻の死に目より大事な仕事なんてあるのかねえ……。それどころか、それを境にウィルソン家は土地の買収に拍車がかかっていってね。物価以上の値段をふっかけられても、多額の借金までして買ってるって噂だったよ。どうしてそこまでして土地を買わなくちゃいけないのか。ついに父親も狂っちまったんじゃないかって噂する奴もいるくらい、私から見ても当時のウィルソンさんは異様だったよ」
おカミさんは諦めたように肩を落とし、もの寂しげに呟く。二度と取り戻すことは出来ないと、悟っている表情で。
「ご近所でも有名なおしどり夫婦だったんだけどねえ……。まるで人が変わったみたいだった。一体どうしちまったんだか……」
昨夜、ジョセフが言っていたことを思い出す。
『かなり無茶して企業を買収しては土地を買い占めていたから。おかげでウィルソン家は上流階級に格上げされたけど、代わりに色々な人からヘイトを買ってるんだよね』
優しかった父親を変えてしまうほどの、何かがあったのだろうか。
ジョセフは父親を恨んでいる──?
「──もしかして、ジョーとお父様の折り合いが悪いのって、そのせいですか?」
「あそこの親子喧嘩は名物みたいなもんだけど、本当の原因はもっと根深いところにあるんじゃないかねえ……」
おかみさんと別れた後、洋装店に戻ることにした。もしかしたらジョセフが、様子を見に戻ってくるかもしれない。
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