第24話 夫人
「アン、知り合いかい?」
妻の情事を知らないモーリアック公爵が呑気に訊ねると、夫人は平然とした態度で優雅に微笑った。
「ウィルソン家嫡男のジョセフ様よ」
「ああ、君が……。噂はかねがね聞いているよ。ウィルソン家の急成長には目覚しいものがある。階級を上げるなんて並大抵のことではないからね」
公爵は屈託のない笑みを浮かべて手を差しだした。
「かの公爵様からそのように言って頂けるなんて……勿体ないお言葉です」
公爵の手を握ったジョセフは、布施目がちに頭を下げた。自分がした過ちを謝罪しているようにも見えた。
夫人は満足気な笑みを浮かべながら、公爵の肩に手を添えた。
「彼の作るドレスが好きでよくお世話になっていたの。──最近はめっきりだけれど」
事情を知っているせいか、最後の台詞が意味深に聞こえてしまう。
「ご期待に応えられず申し訳ありません。自分の力不足を痛感致します」
「まあ、誤解なさらないで。そんな意味で言ったのではないの。最近は少し忙しかっただけよ」
淡々と応じるジョセフの態度にも動じずに、夫人は「そうだわ!」と無邪気に手をたたいた。
「一曲踊ってくださらない?」
ジョセフが息を飲むのを感じた。
「ね、いいでしょあなた」とせがむ妻に、公爵が快く頷いたので、ジョセフは慌てて言い訳をした。
「──いや……ですが、実はダンスが苦手でして、お恥ずかしいのですが」
「でしたら教えて差し上げますわ」
「ご夫人にご指南頂くなど、申し訳がなくてできません」
「あら、お気になさらないで。主人にもよく教えていますの。慣れたものです」
「ね、あなた」と夫人が微笑む。公爵は照れ笑いを浮かべ「お恥ずかしい……」と小さく言った。
「足を踏んでしまう。それも一度や二度では済みません」
「わたくし、こう見えてもタフですの」
「しかし怪我をさせるわけには……」
「ジョセフくん、私からも頼みたい。妻の我儘を聞き入れてくれないか。私じゃ、とても人前ではダンスの相手は出来ない」
「ご覧のとおり」公爵は冗談っぽく笑ってでっぷりと出た自分のお腹をさすった。夫人がクスクスと上品に笑う。
夫人のペースに負けじと抗い続けたジョセフだったが、ついにトドメが刺された。公爵に頼まれたら誰も断れない。
「……一曲だけ」
「嬉しいわ」
ジョセフはこっそり溜息をつくと、手を差しだした。夫人が満足げに自分の手を重ねる。
とんでもないことになった。ジョセフからはとっくに関係は終わったと聞いていたが、夫人は諦めていないのかもしれない。ハラハラしながらも、二人を見ていることしかできない。
モーリアック公爵は夫人を見送ると、私たちに挨拶をしてから再び人混みの中へと消えていった。
「せっかくですし、僕らも踊りましょうか」
「リンダさん、どうですか?」ローランが軽く誘った。
リンダは苦笑いを浮かべて「しばらく踊ってないから、自信ないなあ」と呟きながらも、ローランの手をとった。
アナと二人きりになったので、夫人のことをそれとなく聞いてみることにした。
「アンリエッタ夫人は顧客様だったの?」
「そうだったんだけど、最近はぱったりいらっしゃらなくなったね。ルーちゃんが入る前の話だよ。まあ、公爵夫人は色々忙しいだろうし」
「そうなんだ……」
やはり現場を目撃されたのがきっかけだろう。
踊りながら、夫人とジョセフがなにかを話している。艶々の唇をジョセフの耳に寄せて、なにかを囁く。その度に二人の体が密着した。
なんだか胃がムカムカしてきて、ほとんど口をつけていないワインを一気に煽った。
「そんなに一気に飲んだら……」驚いたアナが心配するように言ったが、その忠告は右から左へと抜けていった。
「足りない」
「──え、ええ!?」
アナの静止を聞かずに、テーブルに用意されているグラスをどんどん空にしていく。
私には、きっぱり拒絶しろと言ったくせに、自分はそうしないなんて。関係が終わっているのなら、親しげに話す必要もないし、ダンスだって腹痛とか頭痛とか言い訳して断ればいいんだ。まったく、未練がましい!
ムシャクシャして近くにあったデザートを爆食いする。──と、急に酔いが回って胸焼けをおこした。おえっ、と嗚咽をもらす。
「──大丈夫?」
「ごめん、ちょっと……」
「ついていくよ」一人で大丈夫だと断って、慌てて駆け出した。アナが呼び止める声が聞こえたが、足を止める余裕もない。
人をかき分けて進んでいく。途中、ノエルと目が合ったような気がしたが、この人混みの中だ。気の所為だろうと思い、お手洗いを借りに屋敷内へ急いだ。
***
胃のあたりを擦りながら長い廊下を歩く。吐くには至らなかったものの、落ち着くまでは時間がかかりそうだ。
「うう、失敗したなあ……」
私は何をやっているんだろう。公の場で暴飲暴食して気持ち悪くなるなんて、はしたないにも程がある。肩を落として、廊下を曲がろうとした。 その時、奥の方から深刻そうな声が聞こえてきた。
「──マリーお嬢様のご様子は?」
気になって声の方へと向かう。柱の陰に身を隠しながら顔だけ覗かせると、メイド達が心配げな表情で話し込んでいた。
「それが、まだお部屋にこもっていらして……」
「そう……お可哀想に、きっと泣いているんだわ」
「とてもショックでしょうね。旦那様がお二人の交際をお認めになられなかったんだから」
耳を疑った。交際相手とは、きっとクロードのことだ。
──クロードとの交際を認められなかったということは、二人は別れるかもしれないってこと?
とくに同情もしないが、嬉しいという気持ちも湧かない。ただ、胸の奥で、なにか違和感を感じた。
その原因が分かった瞬間、身の内が沸騰するように熱くなった。
──それって、私との関係をもっていた間も、二人は付き合っていたってこと?
冗談じゃない!
壁を掴む手に力が入り、ガリガリと嫌な音をたてた。メイドたちが音に気づいて、こちらに顔を向ける前に身を隠した。
見ると、柱の塗装が剥がれて爪痕がくっきりと刻まれてる。
「や、やばっ……!!」
思わず声をあげてしまった。
しまった、と口を塞いだが、もう遅い。
「──誰かいるの?」
メイドたちの足音が近づいてくる。
咄嗟にその場を逃げ出した。
胃が落ち着かないうちに走ったから、再び気持ち悪さに襲われる。
ちょっとだけ休もう。どこか座れるところがないか見回すと、視線の先には、花壇に囲まれるように白いベンチが設置されている。
ダルい足を無理やり動かしてベンチにたどり着くと、腰掛けて一息つく。
──体調の良い時に座ったら、ロマンチックな気分に浸れただろうに……。
遠くの方から音楽や、男たちの笑い声が聞こえてくる。酒が入っているのか、やけにテンションが高い。それらを聞き流しながら、花壇の花をぼんやり見つめる。
気分の悪さも、しばらく夜風に当たると幾分かマシになった。
「大丈夫」
気づいたら口に出して呟いていた。どっちの意味かは考えないようにした。
また心が掻き乱されるのは嫌だ。
「なあキミ、ルーシー・アラン?」
振り返ると、男が立っていた。たぶん年上だろう。その後ろで仲間たちが意味ありげな笑みを浮かべながらこちらを見ていてる。なんだか嫌な感じだ。
「そうですけど、なんですか?」
「いや、ちょっとね。大したことじゃない」
男はなにか含んだような笑いを浮かべた。男の仲間たちと思わしき集団が、離れたところからこちらに視線を送っては、同じ含み笑いをしている。
突然話しかけてきて名乗りもしないのか、と頭の隅で思った。
「あいつ、どう?」
仲間たちに押されて、若い男が前に出た。たぶん年下だろう。照れが混じったはにかみ笑いを浮かべては「やめてくださいよー」と、悪ふざけをする先輩たちに言っている。台詞とは裏腹に、満更でもなさげな表情に嫌悪感が湧き上がる。
震える手で拳を握った。相手のペースにのまれたら負けだと思った。
「……どうって?」
「可愛い後輩なんだけど、経験がなくてね。でも顔は悪くないだろ?」
「あの、仰っている意味が……」
「だから色々教えてやってよ」
ドクン、と身体の中で響いた。
きっとこの男たちは、私がクロードと関係を持ったことを知っているんだ、と思った。しかもその男に捨てられたばかりだから〝簡単〟だと思われている。
自分のリアルな市場価値を突きつけられ、衝撃のあまり思考が働かなくなった。
「……向こうで、友達が待ってるので」
こんなところから早く立ち去りたかった。しかし、進行方向を男が遮り、行く手を阻まれる。
「なら友達も一緒でいいよ」
「──は?」
「いや待てよ。──友達って、一緒にいた中流の? 悪いけど、中流に関わったところで、そっちが得をするだけだろ?」
理解するまでに時間がかかった。
仲間たちのほうから微かな笑い声が聞こえて、ようやく思考が追いついた。
とんでもない侮辱だ。全身が炎に包まれたかのように熱を帯びる。
「彼女は、あなた方なんかには勿体ない」
必死に怒りを抑えながらも言い返すと、今度は「ひゅー」と冷やかすような声があがり、男は満更でもない笑みを浮かべた。まるで子猫に噛み付かれた程度の反応に、強く唇を噛む。
こちらの不快感なんてお構いなしで、むしろそれを楽しんでいるように見える男たちに、恐ろしさを感じた。
「どうせ一人も二人も変わらないだろ。それに上手くいけばアイツが貰ってくれるって。──なあ?」
後輩はタジタジになりながら「いやそれは、まあ……」と、こちらをチラッと見た。
まあ、だって? 常識ある男を装っているつもりなのか知らないが、そんな上辺だけの言葉を鵜呑みにするわけがない。先輩のお節介にあやかろうとしているのが見え見えだ。
──冗談じゃない。
なぜこんな目にあわなければならないのだろう。あの時のことが過ちだったとしても、私は真剣にクロードに気持ちを寄せていた。それなのに、なぜそれを第三者にまで踏みにじられなければならないのか。
抑えきれない程の悔しさが込み上げる。何も知らない奴が、都合の良いように解釈して楽しんでいる。他人の不幸に味を占めるような奴らの餌にはされたくない。
『──ほら、姿勢』
頭の中であいつの声がした。握りしめている手に力が入る。胸の奥に熱いものを感じた。
怯んだら余計惨めになるような気がした。
──そうだ胸を張れ。どうせ嫌われているのなら、とことん悪役になってやろう。
背筋を伸ばし、顎をあげる。
相手を真っ直ぐに見据える。
絶対に目を逸らしたりするものか。
ゆっくり立ち上がると、男と顔が近づいた。
「駆け引きも知らない拗らせ童貞じゃ、相手にならないわ」
小馬鹿にしたように吐き捨てると、男たちはしん、と口を閉ざした。突然の豹変ぶりに言葉が出てこないようだった。
「今夜のお相手なら、下町をずーっと下った先の小屋に沢山いるから困らないでしょうよ」
そこがなんの建物かは、わざわざ言わずとも誰もが知っている。──養豚場だ。
呆気にとられていると男たちの間を素通りして、その場を離れようとした時、男に腕を強く掴まれた。思わず痛みに顔を歪める。
「んのクソアマ──!!」
男が手を振りあげた。
咄嗟に目を瞑る。
──殴られる!!
が、衝撃は来なかった。恐る恐る目をあけると、目の前にクロードの姿があった。男の手首を掴んでいる。
男が、まずい、という顔をしている。
「ここで騒ぎを起こしたら、上層部にも話がいくぞ」
クロードの手の甲に血管が浮かんだ。男は小さく歯を食いしばると、私の手を離した。掴まれていた部分が赤くなっている。
おそらく軍の関係者なのだろう。力も強いわけだ。
「萎えるわー」男は冷めたように捨て台詞を吐くと、仲間たちと共に去っていった。
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