第9話 おつかい

 真っ直ぐと言われたので、とりあえずそれを信じて歩く。人に道を聞くのは、分かれ道に差し掛かってからでいいだろう。それにしても右も左も分からない人を放り出すなんて、ジョセフの考えていることが分からない。人に道を聞け、なんて簡単に言うが、私は壊滅的な人見知りだし、知らない人に話しかけるのはハードルが高いのだ。社交的なジョセフには、こんな気持ちは理解できないのだろう。まるで子供を崖から突き落とす親獅子のような奴だ。

 そんな不安を抱えているうちに、最初の分岐点にぶち当たった。キョロキョロと辺りを見回して、通行人の様子を伺う。

 思い切って尋ねたのに無視でもされたら、深く傷ついてしまう。そう思うと、怖くてなかなか一歩を踏み出せない。


──とにかく、優しそうな人を探そう。出来れば女の人の方がいいかも。


 しばらく探していると、そこへ中年の夫婦が通りかかった。ある程度年齢を重ねている人ならば、落ち着いて話を聞いてくれそうだし、夫婦一緒ならば最悪無視はされないだろう。


「あ、あの──!!」


 緊張で蚊の鳴くような声になってしまったが、二人は足を止めてくれた。


「どうしたの、お嬢さん?」


──良かった、話を聞いてくれそう。


 煙たがれなかったことに、ほっと胸を撫で下ろすと、要件を伝えた。


「この辺にパン屋さんはありますか?」

「パン屋なら、こっちの道をまっすぐ行って、二つ目の角を右に行けば、美味いところがあるよ」

「そこの奥さんがね、明るくて面白い人なのよ」


 親切に教えてくれた夫婦に礼を言うと、言われた方角を目指す。些細だが、難題をひとつクリア出来たことが素直に嬉しい。


──良い人に当たって良かった……。


 パン屋は看板を確認するまでもなく、すぐにわかった。というのも、そこはかなりの人気店らしく、店の前には人集りが出来ている。


「押すんじゃないよ!! ほら下がんな!! 整理番号で順番に呼ぶから!!」


 前の方で前掛けをした大柄の女が怒鳴っている。夫婦から聞いた、パン屋の奥さんだろうか。面白い人だと言っていたが、声の迫力から察するに怖そうだが……。


「今度押したら、あんたら全員、尻でふっ飛ばすからね!!」


 おかみさんが怒鳴ると、大衆からは笑い声があがった。

 とにかく、整理番号とやらを手に入れなければいつまでたってもパンを購入できないようだ。人混みを掻き分けていきたいが、なかなか割り込めない。

 困っていると、隣にいた中年の男に話しかけられた。


「人気すぎるのも困ったものだよね」


 男につられて笑顔で返すものの、知らない人に、それも異性に話しかけられることが滅多にないせいで頬が引き攣る。これでは失礼だ、と身の内で自分を叱咤するが、上手く表情が作れない。


「初めて? よかったら、整理番号取ってきてあげるよ」

「──えっ? い、いいんですか?」

「女性がこの中に入ってったら、潰されかねないからね」

「あ、ありがとうございます」


 男は笑みで返すと、人混みをかき分けていった。

 しばらくして戻ってきた男は、やれやれと一息つくと、罰が悪そうに眉尻を下げた。


「いやあ、ごめん。今日の分はもう終わりだってさ」

「そうでしたか……。あの、わざわざありがとうございました」


 そんなに人気ならば食べてみたかったが、ほかの店を探すしかない。ガッカリしていると、目の前に整理券を差し出された。驚いて見上げると、男は人の良さそうな笑みを浮かべている。


「あげる。俺はいつも来てるから」

「そんな、悪いです」

「いいよ。せっかく来たんだから、初めてなら食べてみてほしい。俺もかみさんも、もう長いことファンでさ、本当におすすめなんだ」

「で、でも……」

「キミ、ウィルソンさんのお店の子でしょう?」

「え……?」


 なぜわかったのだろうかと、驚いている私に、男は当たり前のように教えてくれた。


「新人さんが買いに来るのは恒例だから」

「そ、そうなんですか?」

「知らなかったの?」


 本当に、全く、何も聞かされていない。強く頷くと、男は可笑しそうに笑いだした。


「ジョー君も人が悪いなあ。──まあ、頑張ってね」


 男は私の手に整理券を握らせると、にこやかに去っていった。


──さすが大人。余裕があるわ。


 〝かみさん〟と言っていたから、既婚者なのだろう。良いな、と思う人は、ほぼ高確率で相手がいるものだ。あんな優しい人と一緒になるのだ、奥さんもきっと素敵な女性なのだろう。

 感動していると、重大なミスに気が付いた。しまった、口を覆った。


「大変!! お礼言えてない!!」


──こんなに良くしてもらったのに、なんて失礼なことを……。


 後悔して項垂れていると、番号が呼ばれた。

 何度も頭を下げながら人混みをかき分けていくと、額に青筋を浮かべたおかみは、私と目が合うなり顔をくしゃりと崩して笑った。一重の目がさらに細くなり、開いているのか閉じているのかわからない。先程までの怒鳴り声から一転、無邪気な笑顔とのギャップが相まって、抱いていた恐怖心は一気に好感へ転じた。まるで田舎のお母さんに会いに戻ってきたかのような安心感を抱いた。

 このたった一瞬で、私はこの人のことを好きになってしまった。こんな心の変化は初めてのことで、自分でも不思議でならない。

 おずおずと整理番号を見せると、おかみは不思議そうに首を傾げた。


「あら、この番号ってノムさんのじゃなかった?」


 ノムさん、とは先程の男性の名前だろう。私は番号をもらったことを簡潔に説明すると、おかみは快活に笑いだした。


「まーた、若い子にちょっかい出して……。お嬢ちゃんは──あ、もしかしてジョーの店のおつかい?」

「はい、そうです。なんでわかったんですか?」

「その服、お店のでしょう? 私にはとんと縁がないけれど、ちょっと変わってて素敵よね。まあ、あんな変わり者が作った服なら他と違っていて当然か」


 そう言って、おかみは可笑しそうに笑った。

 どうやら、ジョセフも常連の一人らしい。


「ちょくちょく買いに来ては「僕は、おかみさんに会いに来てるんだ」なんてほざくもんだから、ほんとクソ気持ち悪いガキだよ」

「──プッ……!!」


 あまりの言われように、思わず吹き出してしまった。言っていることは悪口なのに、その言葉にはなぜか嫌味がなく、爽快感すらある。内容とは真逆の感情を抱かせるなんて、簡単に出来ることじゃない。きっと、おかみとジョセフは、悪口すらも面と向かって言い合えるくらい、親しい間柄なのだろう。その証拠に、豪快に笑っているおかみの表情は、満更でもなさそうだ。


「ババア口説いて、なーにが楽しいんだか……」

──何してんだあいつは。


 人妻嗜好なのか、単なる熟女好きなのか。かなり痛い奴だと再認識した所で、焼きたてのパンを受け取った。ほかほかの温度と小麦の香りに癒される。頭の中はパンを食すことへの欲求でいっぱいになった。


「女の子をパシリにするんじゃないよ!! ──って、あの孔雀ピーコック野郎に伝えておきな」

「い、言えませんよ……!!」


 まるで孔雀のように派手で気取った奴、という酷い悪口にもかかわらず、その言葉には不思議と愛情が滲み出ている気がした。


「あらそう?」


 おかみは、わざとらしくしらばっくれると、別れ際にニコニコしながら人懐っこく手を振った。


「ジョーによろしく。また来てね」

「──はい、ぜひ!!」


 腕に抱えたパンのように心も暖かくなって、パン屋をあとにした。


──話しやすい人だったなあ。ちょっと口は悪いけど面白いし。


 おかみさんみたいに、初対面でも緊張しないで話せるようになったら、どんなにいいだろう。誰とでもすぐに打ち解けられて、きっと人生観も変わる気がする。


 次の目的は果実店だ。そこで葡萄酒とフルーツを購入すれば、おつかいは完了する。

 パン屋から数十メートル離れたところで、とある凡ミスに気付いて足を止めた。


──おかみさんにお店の場所、聞けばよかった。うっかりだわ……。


 浮かれるあまり、つい忘れてしまっていた。振り返ると、人集りが蟻のように小さく見える。またあの中に入っていくのはしんどいし、店が忙しいのに時間をとらせてしまうのは悪い気がする。そうなると、また人に道を聞かなければならない。だが今度は、難なく出来そうな気がしている。優しい人たちと関わったことで、気持ちが前向きになっているのだ。

 とはいえ、声をかける人を慎重に探す。ここで冷たくあしらわれたら、一気に気持ちが沈没してしまう。すっかり染みついた自己防衛本能はそう容易くは解除されない。

 迷っていると、同年代くらいの女の子が通りかかった。眼鏡をかけていて、大人しそうな雰囲気だ。同世代ならば受け入れられやすいだろう。


「あのすみません、この辺に──」

「──急いでるので」


 言い終える前に一言で突き放すと、足早に行ってしまった。その後ろ姿をぽかんとしながら見ていたが、適当にあしらわれたのだと理解が追いつくと、心にざっくりと傷がついた。


──そんな……。話くらい聞いてくれたって……。


 ずーん、と一気に肩が重くなった。


──いやいや、でも本当に急いでたのかも!!


 きっとそうだ、と無理やり思い込み、ギリギリのところで立ち直った。しかし、こうなると次は身構えてしまう。迷っている間にも、何人か目の前を通り過ぎていった。いったん帰ろうかな、という諦めが脳裏をよぎるが、戻ったところでジョセフにもう一度買い出しに行かされる気がする。

 しばらく勇気を出せずにいたが、これではらちがあかない、と通りかかった人に声をかけた。


「あっちの方」


 答えてくれたのは若年の男だった。ざっくりした方角を指さす。


──なるほど、わからない。


「──あっち?」


 詳しい説明を求めたつもりだったのだが、伝わらなかったようで、男は頷くと、行ってしまった。結局道はわからないが、話を聞いてくれただけマシに思える。

 ここからは不運続きだった。人に聞いたとおりに行っても店がなかったり、葡萄酒だけが売り切れだったりと、散々歩き回ったのに全て無駄足をくう羽目になった。気がつくと、焼きたてだったパンもすっかり冷めてしまっていた。


 散々な目にあって、ようやくたどり着いた果実店は、スタート地点の洋装店からは随分と離れている。重い荷物を抱えて戻ることを考えると、気が遠くなった。


──出だしは凄く良かったのにな……。


 トボトボと重い足取りで帰路につく。気分はすっかり落ち込んでいた。

 それにしてもカゴがないと持って歩くのが大変だ。両腕に荷物を抱え、とくにワインだけは落とさないよう気を配る。万が一落としたら悲惨なことになってしまう。しかし、片方に気を取られていると、逆に他の物への注意が疎かになってしまうもので、腕の中からオレンジが転がり落ちてしまった。


「──あっ!!」


 拾うにはいったん荷物を持ち直さなければならない。持っている物を地面に落とさないようにしゃがむのも一苦労なのに、もはや追いかけるなんて不可能に感じる。気が付かなかったことにしようか、と半ば現実逃避しながら逃げていくオレンジを目で追っていくと、一人の歩行者の足元で止まった。

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