第10話 親切な人
足を止めた青年はそれを拾うと、視線を左右交互に移しながら持ち主を探した。すぐに私の姿を認識すると、人の良さそうな笑みを浮かべた。形の良い唇の間から覗く白い歯が眩しい。キラキラと輝く粉を振りまきながら近寄ると、拾ったオレンジを差し出した。
「落としましたよ」
色白の肌に金色の髪がよく栄えている。不純物のない泉のような瞳には、鏡のように私の顔を映し出している。まるで本の中に登場する王子様そのものの出で立ちに、自分は夢でも見ているような気さえしてくる。
「これ、あなたのですよね?」
ぼんやりしている私に、青年は首をひねって再度問いかけた。我に返ると、慌てて頷く。
「あ、ありがとうございます。……っと、ちょっと、すみません……」
だが、せっかく拾ってもらっても、両手が塞がっていて受け取ることができない。なんとか片手を空けようと試行錯誤している私を、青年は不思議そうに見つめている。
「入れるもの、持ってないの?」
「──あー……忘れてしまって……」
ジョーが、と心の中で付け加えた。こんな実用性のない小さなバッグを渡すくらいなら、大きい袋や籠に入れてくれたら良かったのに。オシャレは我慢、という言葉があっても、用途を考えなければ困ったことになる。あんな急かし方をされたら、入れ物の事にまで考えが及ばなかった。
「誰か一緒じゃないの?」
貴族の令嬢ともなれば、普通は付き添いを従えるものだ。おそらく、そのことを訊ねているのだろう。私は首を横に振った。青年は少し考える素振りを見せると、両手を差し出した。その意図がわからずに困惑してる私に、微笑みかけた。
「少し時間あるから、近くまで持ってあげる。一人じゃ大変でしょう?」
「でも、さすがに悪いので……」
「遠慮しないで。また落としたら大変だから」
──な、なんていい人なの!?
かつて、男性にこんなにも親切にされたことがあっただろうか。感動で心が震えている。天の助け……いや、むしろ不幸な私を憐れんだ天使が、幸を届けに舞い降りてきてくれたのかと錯覚するほどである。
今まで出会ったどの男性よりも親切で丁寧で、見た目と中身が比例している。こんなにも好感が持てる人はいなかった。こんな人がいるなんて、まだまだ世の中捨てたもんじゃない。
「──じゃ、じゃあ、お願いします。ありがとうございます」
「これくらい、全然」
青年は屈託のない笑みを浮かべて、私が抱える荷物から葡萄酒と果物を持ってくれた。半分は自分で持つつもりだったのに、途端に手のうちが軽くなったことに罪悪感を感じる。
「私、もっと持てますから」
「大丈夫、軽いから」
「でも……」
いいからいいから、と青年は
──落ち着いてるし、なんだかお兄さんって感じ。
どんな人なのか興味が湧いた。が、問題はここからだった。
異性と二人という状況に慣れていない私は、極度の緊張のあまり、厄介な人見知りが発動したのである。
「それにしても、一人でこんなに買い物なんて大変だね。兄弟が多いの?」
「い、いえ、これは頼まれたので……」
「お友達とか?」
「お、お店の手伝いで……」
「──え!? 仕事してるの? てっきり、貴族のお嬢さんなのかと思った」
「間違ってはいないんですけど……」
崖っぷちだけど、と身のうちで付け足す。
貴族の女が仕事をしているのが、よほど珍しいのか、青年は興味深々な目を向けてくる。その目に、私は怖気ずいてしまう。
「ご実家でやっているお店?」
「いえ、知り合いが……」
「親戚とか?」
「いえ……ゆ、友人……?」
「よほど大切なお友達なんだね」
「ええ、まあ……な、成り行きというか……」
「へえ……。 ──すごいね!」
「全然、そんなこと……」
──終わった……!!
せっかく相手が気を遣って色々話しかけてくれているのに、気の利いた返しがひとつもできない。そして、相手は完全に口を閉ざしてしまった。
──せっかくのチャンスを棒に振るなんて……!!
せめて名前くらいは聞いておきたい。しかし、名前を聞いたら、変に思われたりしないだろうか。それに、気があるなんて思われたら、警戒される可能性も……。
──いやいや、たかが名前じゃない!! 名前を聞くくらい、別に変じゃないよね!? こんなにしてもらって、後でお礼しないのも失礼だし……普通よね!? ──うん、全然普通!!
自分を鼓舞し、思い切って声を絞り出した。
「……あ、あの──」
が、その先は続くことはなかった。
前からやってくる人混みの中に、見知った顔を見つけてしまったのだ。
──クロード……!!
もう二度と見ることはないと思っていたのに。クロードは建ち並ぶ店を時折見やりながら、こちらに向かってくる。このままでは真正面から対面することになる。そうなったら当然、相手も私に気が付くだろう。
急に自分が惨めで情けない存在に思えた。
──見つかりたくない。
なんとか誤魔化そうと、隠れるように青年の背後に回り、顔を見せまいと俯いた。
「? ──どうしたの? 大丈夫?」
「な、なんでもないです」
──今は話しかけないで!! 変に目立ったら気付かれる!!
心の中で訴えるが、そんなことは伝わるはずもなく、男は心配そうに私の顔を覗き込む。
それでなくとも青年の存在感は人並み以上なのだ。一緒にいる自分まで影響を受けてしまう。しかもそれは「こんなにすごい王子様の彼女が……え?」という感じで、決して良い意味ではないだろう。
──まるで公開処刑じゃないか!!
ようやく現実に引き戻された。王子様を前にして、つい周りが見えなくなっていた。浮かれている場合ではなかったのだ。できるなら、さっきまでの自分に
私はできるだけ顔を背けるようにして、自分の存在を隠した。
青年越しにクロードとすれ違う。その瞬間、クロードが不思議そうに視線をこちらにへ向けた。が、何事も無かったかのように、そのまま行ってしまった。
──き、気付かれなかったかな……?
もしそうなら一安心なのだが、それはそれで虚しさもあった。
「ねえ、本当に大丈夫?」
「……だ、大丈夫です。もう、ここで──!!」
「えっ、でも……」
「もう、すぐそこですから」
半ば奪い取るようにして荷物を受け取ろうとしたせいで、葡萄酒のボトルが手から滑り落ちた。地面に落下する同時に、瓶は破裂し、飛び散った液体が青年のズボンに赤い染みをつくった。
派手な音に大勢の通行人が注目した。
「──す、すみません!!」
「そんな、気にしないで。そんなに良いものでもないから」
慌てふためく私に男はやんわりと言うが、素人目から見ても、その服は質も仕立ても良い。それなのに気遣ってくれる優しさが、より罪悪感をかき立てる。というのも、頭の中ではもう一つの心配事があったのだ。
さり気なく振り返り、視界の端ぎりぎりで後ろを確認した。クロードが騒ぎを聞きつけてこちらを伺っていたが、状況を知るや否や、興味をなくしたようで歩き去っていった。
──今の私を、私だとは思わなかったのかも……。
元婚約者に気が付かないなんて、なんてひどい奴なのだろう。クロードにとって、既にどうでもいい存在になってしまったのだろうかと、ひどく悲しくなった。そもそも隠れたのは自分なのに、気持ちと行動が矛盾している自分にも腹が立つ。
婚約破棄されたのを哀れまれ、人を苛める嫌な女だと蔑まれ──。なぜ自分ばかりが、こんなに惨めな想いをしなければならないのだろう。
「──怪我はない?」
「……だ、大丈夫です」
はっと我に返っると、青年が心配そうに覗き込んでいる。
親切な人に取り返しのつかないことをしてしまったのに、自分勝手なことを考えてしまっている自分は、それこそ人として終わっている。
──私が一番ひどい奴だ……。
汚してしまったズボンの裾を見る。白地なので染みが目立ってしまっている。自分の失態なのだから、きちんと責任をとらなければならない。
「……弁償させてください。 今手持ちはないけど、帰ったらすぐ用意しますから」
「本当に、大丈夫だから」
「でも……、でも、私の気が済まないんです!! そうじゃないと、一生この十字架を背負って生きていくことになるんです。ちゃんと落とし前をつけないと──」
泣いてしまいそうだ。しかし、今は泣いていい立場ではない。ぎゅっとスカートを握り、涙を堪える。半ベソをかくのをひた隠しにして、せめてもの贖罪を申し出ると、青年は暫くきょとんとしていたが、急に笑いだした。
「
「ふざけてるんじゃないんです!! 本当に、申し訳なくて──!!」
「うんうん。とにかく、これ運んじゃおうよ」
青年はクスクスと笑いながら何度か頷くと、再び歩き出した。まるで小さな子供をあやしているかのようなもの言いだ。
──……ん? なんか子供扱いされてない?
これでも一応長女なのだが……。
洋装店までの残り数十メートル、その短い距離を共にする。
頭の中では、弁償代をなんとかジョセフから借りられないものか、と思考を巡らせ、何度も何度も、土下座のシュミレーションを繰り返すのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます