第41話 レオ

 早足で来たせいで乱れた髪をあえて手ぐしで整え、手渡された古着のワンピースに袖を通した。ジョセフから化粧を落とすように言われ、しばらく抵抗したが、落とさないと連れていかないと言うので、決死の思いで羞恥心を押し殺してすっぴんになる。

 そうして鏡に映った私は、とても令嬢とは言い難い出で立ちで、思わず「おお」と感心してしまった。しかし、ジョセフはまだ不満だったようで、終いには「顔に泥でも塗ろうぜ」と言い出したので、それだけは全力で拒否した。

 宿を出る前に、ジョセフから三つの約束をさせられた。


 一、上流階級であることを悟られないこと。

 二、他人と目を合わせないこと。

 三、絶対に側を離れないこと。


 さすがに警戒しすぎではないか、と喉まで出かかったが、ジョセフの眼があまりにも真剣だった為、その台詞はのみ込んだ。

 工業地帯の側には娼館街もあるらしく、治安があまり良くない。女子であれば、夜はとくに気を付けなければならないらしい。

 平民に変装して下町を見て回るなんて経験はそうそうない。それに人探しなんて、まるで探偵みたいだ。内心ワクワクしていた手前、気を引き締めた。

 とはいえ、レオさんが住んでいるされる地区まで、とくに危険なことも無くスムーズに辿り着いたので拍子抜けだ。

 ここに来るまでに、酔っ払いや複数人でたむろしている男達を見かけたので、いつ絡まれてもおかしくはないと危惧していたのだが、変装が幸をそうしたのかもしれない。

 男性が一緒とはいえ、多勢に無勢。もし普段の格好でうろつこうものならば、ジョセフ諸共身ぐるみを剥がされていてもおかしくはなかっただろう。


「それにしても、よく女物の服を持ってたわね」


 ジョセフに借りたスカートの裾を摘んで広げてみる。見たところかなり古いものだ。


「母さんのだよ。捨てられなくて、ずっと仕舞ってた」

「そんな大切なもの、借りてしまったけどいいの?」

「タンスの肥やしになるよりいいさ。それより着いたぞ。多分あそこで間違いない」


 指をさした先にあるの古びた三階建ての集合住宅だ。一階が酒場になっていて、二階から上が住居になっている。壁のひび割れが酷く、地揺れでもあろうものならすぐに崩れ落ちてしまいそうだ。

 始めて見る庶民の住居は想像以上に酷いもので、嫌味でもなんでもなく、純粋に抱いた疑問がポロリと口に出た。


「ここは人が住めるの?」

「これだからお嬢様は……」


 それを聞いたジョセフが、やれやれといったように呟いたので、少しムッとする。


「さ、行くわよ。何号室?」


 早速突撃しようとすると、腕を掴まれたので怪訝に思う。


「ちょっと待てって。もう行くのか?」

「当たり前でしょう。その為に来たんだから」

「なあ、やっぱ止めないか?」

「どうして? せっかくここまで来たのに」

「どうしてって……」


 歯切れの悪いジョセフの背中に喝を入れる。


「ほら、まごまごしててもしょうがないじゃない。いい加減に覚悟決めなさいよ」

「急には無理だよ。ほら、準備とか……色々あるだろ?」

「準備? なんの準備よ?」

「いや、だから、気持ち的な……。とにかく時間が必要なんだよ」

「時間なら今まで十分あったでしょう。行くわよ」

「待てって!」


 再び阻止されたのにイライラして、つい強い口調を浴びせてしまう。


「なによ!?」

「……会って何て言えばいい?」

「それ今更言う?」


 弱気になっているジョセフを呆れた目で見やると、ジョセフは顔を赤くして顔を背けた。


「ずっとレオさんの事を気にしてたんでしょう? 今決着つけなくちゃ一生後悔するわよ?」


 返す言葉もない様子のジョセフだったが、しばらく目を泳がせると、ばっと音が鳴りそうな勢いで一方向を指さした。指した先には酒場。そして、苦し紛れに言った。


「と、とりあえず、酒が入ればなんとかなるかも」

「──酔った勢いで行くのはさすがに失礼じゃないかしら?」

「一杯だけ! 絶対酔わない」

「そんなこと言ったって……」


 過去、ジョセフがこんなにポンコツだったことがあっただろうか。本人にしてみれば、その身に抱えきれないほどの不安でいっぱいなのだろう。

 面白いとはいえ、無理やり引きずって行くのは、さすがに酷かもしれない。

 ついからかいたくなるのを堪えて、酒場に入るのを承諾すると、ジョセフは心底ほっとしたように胸を撫で下ろした。

 誰だって傷付くのが怖い。それはこの人も同じなんだ。酒一杯で後押しになるなら、目を瞑ってもいいのかもしれない。


 酒場に入ると、恰幅のいいおじさんが「らっしゃい」と太い声で言った。


「見ない顔だね」


 席に着くなり、尋ねられた。ジョセフはうやむやな返事をしながら、エールを二つ頼んだ。完全に目が泳いでしまっている。

 誰が見ても怪しく見える客に、店主は怪訝そうな目を向けている。

 しまった、と思い、平静を装って会話に割って入った。


「私たち、結婚の挨拶の為に友人を訪ねて来たんです」

「? こんな夜中にかい?」

「え? ……ええ、そうね。だから明日伺おうかと。久々に会うものだから、この人ったら緊張してしまって」


 店主の言う通り、夜中に挨拶しに行くなんて非常識を通り越して怪しい。

 咄嗟に話を合わせた甲斐もあり、なんとかごまかせたようだ。


「なんだ、そうなのかい。そういうのはな、ほとんど勢いに任せりゃいいのさ。一番緊張するのは会う前で、会っちまえば後は何とかなるもんだ。男なら度胸見せないとなあ! ほらよ、これ食って精つけな!!」


 店主は気前よく干し肉のサービスをつけると、喝を入れるようにジョセフの肩を叩くと、思いのほか力が強かったのか、ジョセフは小さく呻いた。

 それに合わせて「おじさんの言う通りよ」なんて言いながら、夫を労る妻のようにジョセフの背中を撫でると、引き攣った顔を向けられたので、してやったりな笑みで返す。

 我ながら良いフォローだったと思う。


 緊張で味がしているのかしていないのか、無表情で干し肉を噛んでいるジョセフの横顔を眺めながら、自分も冷静になっていくのを感じていた。

 ほとんど勢いで来てしまったが、明日にした方がいいのかもしれない。


──今夜はどこかに泊まって……!?


 えっ、泊まるの!? 叫びそうになるのを飲み込んで、思わず自分の頭を抱える。

 まさかジョセフが、とは思うが、男女が密室で一夜を共にするのに何もないとは限らないのでは!?

 もしそうなったら……別に、嫌じゃないけれど……。


──って、何考えてんだか、私!!


 興奮した勢いで思いのほか強くジョセフの肩を殴ってしまった。

 急に攻撃されたジョセフは「いてっ」と漏らすと、信じられないものを見るような眼をこちらに向けてきたので、しまった、と慌てて謝った。


「え、なんで? なんで殴るの?」

「ご、ごめん。つい……」

「つい? つい殴りたくなるの? 怖いこの人!」

「ごめんったら!!」


 ジョセフは大袈裟に怯えてみせるので、真剣に謝るつもりがつい笑ってしまう。

 そんなやりとりをしていると、店の入口から威勢のいい声が響いた。


「おっちゃん! 大豆くれ!」


 声の主は私やジョセフと同じ年頃の青年で、ジョセフの真横まで来ると、店主にカウンター越しから布袋を手渡した。


「いつもの量でいいのかい?」

「ああ!! 教えてもらった豆を発酵させたやつ、すげー美味いってウチのがクセになっちゃってさぁ」

「そうかい。そりゃあ良かった」


 青年はどうやら常連客らしく、店主と仲良さげに話している。

 その様子を、ジョセフがフリーズしたまま穴が空くほど見つめている。

 そんなに見たら失礼だ。それに、いつまでもここに留まる訳には行かない。


「ジョー、そろそろ──」

「──え?」


 店を出ようと立ち上がってジョセフに声をかけると、なぜか青年が反応した。

 放心状態のジョセフと目が合う。

 しばらく見つめあった後、青年が訝しげに眉を寄せながら探るように訪ねた。


「……お前、ジョセフか?」


 青年の問いかけに、私の身体も停止した。

 どうして、という疑問のあと、まさかの答えがが脳裏をよぎる。


「──レオ……?」


 呟くような声で応えたジョセフに、レオと呼ばれた青年は目を見開いた。

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