第13話

 方針を固めたあと、アンネローズの行動は早かった。


「……なに? クライス殿下とは婚約したくない、だと?」


 と言ったのは、アンネローズの父であるマルベルト公爵だ。


 場所は、公爵邸の当主執務室。

 分厚い黒壇の机を挟んで、アンネローズは父公爵と対峙していた。

 宰相としての執務で忙しい父だが、今日は珍しく自らの屋敷に戻っていた。


 三年後の父とくらべると、前髪の生え際が若干狭い。

 精力的な父ではあるが、宰相としての重責は、わずか三年で父の生え際を後退させるほどのものらしい。

 まだ四十になったばかりのはずなのだが……。


 ――もし今の父に生え際が三年で親指の先ほど後退すると教えたら、どう反応されるのかしら?


 なにか髪によい薬や洗髪料を探して、こっそり父に差し入れるべきだろうか?

 そんな埒もないことを思いつつ、アンネローズは本題に戻る。


「はい。畏れ多いことではありますが、年齢的に、そうした話がそろそろ持ち上がる頃かと思いまして」


 アンネローズの記憶によると、クライス王子との婚約話が持ち上がったのは、貴族学院入学を控えた今年のことだったはずだ。


 貴族学院には国内から同世代の貴族の子女たちが集まってくる。


 当然、「出会い」の機会は多い。

 そもそも、そうした機会を作ることもまた、貴族学院に国費が投じられる目的のひとつである。


 しかし逆に、これはという相手が既にいるのなら話は別だ。

 貴族とはいえ、人生経験の少ない思春期の子女を、単身で全寮制の学院に送り込むのは不安である。


 だから、本当に大事な縁については、学院に入学する前に固めてしまおう――

 貴族の親たちがそう考えるのは自然なことだ。


 マルベルト公爵は、顎髭を撫でながら、アンネローズに探るような目を向ける。


「たしかに、内々にではあるが、陛下とのあいだではそのような話も出てはいる。なんだ、殿下では不満なのか?」


「いえ、不満などと、畏れ多い」


「では、なぜだ?」


 まさか、「あんな頭が軽くて浮気性な男は嫌だ」などとはいえず、


「我が公爵家のことを考えたのです。我が家には、現在跡継ぎがおりません」


 アンネローズの言葉に、マルベルト公爵が渋い顔をする。


「うむ、そうだな。妻には早くに先立たれた。私にはおまえしか子がいない」


 アンネローズの母は、アンネローズが幼いときに亡くなっている。

 美人薄命というが、この世のものではないほど美しかった母は、身体があまり丈夫ではなかったらしい。

 父ははっきりとは言わないが、アンネローズを産んだことが母の寿命を縮めたのかもしれなかった。


 その後、父に後妻を娶ることを勧めるものは多かったが、父は結局再婚しなかった。

 家庭外に愛人がいるということもないようだ。


 それだけ母を愛していたのか……あるいは、娘であるわたくしの心情をおもんぱかってくださったのか……。


 そのことに感謝と尊敬を抱く一方で、父には父の幸せがあってもいいのではないかと思うこともある。


「わたくしが王子殿下と結婚すれば、当然、わたくしは王家に入ることになります」


「もちろんだ。まさか、王子に婿に来いなどとは言えんからな」


「その場合、マルベルト公爵家の跡継ぎはどうなさるおつもりですか?」


「遠縁から養子を取ることになるだろう。おまえと王子のあいだに子が多ければ、そのうちの一人を迎えてもよい。どちらかといえば、後者のほうが望ましい」


敵意の中でヘイト咲き誇る薔薇・ローズはマルベルト公爵家の血を引く女子にしか発現しませんからね」


「うむ、だが、そのためにおまえが無理をする必要はない」


 そう言って、マルベルト公爵が首を振る。

 

 ――父は、母に無理をさせたことを悔いているのでしょうね。


 立場上、世継ぎを作れという圧力はすさまじいものがあったにちがいない。

 その結果、身体の弱い母に無理をさせ、その寿命を縮めてしまった。


「……待て、アンネローズ。それは誤解だ」


 アンネローズを制するように、父が言った。


「……あの、わたくしはまだ何も言っていないのですが」


「娘の考えていることなど顔を見ればわかる。私も、マリアも、危険を承知の上でおまえを産むことを選んだのだ。その結果がどうあれ、悔いはない。マリアはおまえという娘を遺してくれたのだから」


「お父様……」


「だから、私が言っているのは、純粋におまえ自身を大切にしろということだ。跡継ぎを遺さねば、だの、敵意の中でヘイト咲き誇る薔薇・ローズの血脈を絶やさないようにせねば、だの、そのようなことは後回しでよい。むろん、貴族である以上、そうした事情にもできる限り力を尽くすべきではあるが……おまえには今さら言うまでもあるまい」


「はい、そうですね……。ありがとうございます」


 アンネローズは、不覚にも目頭が熱くなった。

 前回――三年後の卒業記念パーティの流れにおける三年前の「今」――には、父とのあいだでこのような会話は起きなかった。


 ……たしか、このひと月ほどあとに、王子との婚約について聞かされて、なにも聞き返さずに了承したのだったわ。


 その時点では、アンネローズも婚約に不満を抱いてはいなかった。

 父は自分にできる範囲で最良の「縁」を選んでくれたのだろうと思った。

 公爵令嬢に生まれた以上、王子との結婚はアンネローズに望むことのできる最良の選択肢に思えたのだ。


「しかし、王子は嫌か。なぜだ?」


 改めて父が理由を聞いてくる。

 同じ質問だが、アンネローズの心境は変わっていた。


 ……家の事情だの、そんな小手先のごまかしはせず、率直に話したほうがよさそうね。いえ、父には正直なところを伝えておきたいわ。


 父がそこまで自分のことを気にかけてくれているのなら、はっきりと答えてもいいだろう。


「――あんな、見た目ばかりよいだけの、甘ったれで、頭が軽くて、努力を惜しんで、女性と見ればふらふらと視線をさまよわせるような浮気性のかたとは結婚したくありません」


 公爵の顎ががくんと落ちた。

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