重ね名・5
「おいジェラベルド、グーラ卿がご好意で、馬を貸してくださるそうだぞ。……ですよね、グーラ卿?」
血まみれのシノに睨まれて、グーラ卿は頷かざるを得なかった。もちろん、シノはずっとジェラベルドと一緒に戦っていたのだから、そんな話をしている暇があったはずもない。
「後の処理は私に任せて、いますぐにソフィシアの下へ帰れ」
思えば似たようなことが前にもあった。ソフィシアに求婚したときだ。シノと二人で赤竜を倒した後、ジェラベルドは走り去るソフィシアを追った。後始末は全部、シノが引き受けてくれた。
「ありがとう、シノ」
あのとき言い忘れたことを、ジェラベルドは言った。
「お互い様だ」
二人は赤竜の血に染まったまま笑みを交わした。
ジェラベルドは馬にまたがり家路を急ぐ。
期待と不安が、ジェラベルドの心の中でせめぎ合う。無事に生まれてくれればいい。――もし、それが無理なら、ソフィシアだけでも助かってほしい。
頭によぎった冷酷な考えを、ジェラベルドは強いて追い出した。家に帰り着く前から、ソフィシアの痛々しい声が耳に届く。心臓が早鐘を打つ。急いで家に駆け込んだ――が。
「男が来るんじゃないよ! まだ産まれやしないから、その血なまぐさい格好をどうにかしてきな!」
いきなり知らない
お産は台所の土間の上で行われていた。蝋燭を掲げた女たちの頭越しに、ソフィシアの苦しげな表情が見える。
確かに、赤竜の血の臭いは悪影響かもしれない。すぐにでも洗い流したいが、汲み置きの水は全部お産のために使うべきだ。ジェラベルドは私服に着替えて、十軒ほど先にある井戸へと足を向けた。いつの間にか東の空が白み始めていた。夜明け前の冴え冴えとした空気が、昂ぶっていた精神を鎮める。
ジェラベルドは井戸水を汲み上げて頭と顔を洗った。鋭い冷たさが背中を伝う。すぐに家に戻る気にはなれずに、井戸の縁に腰掛けて両手で顔を覆った。
身体が震えるのを冷水のせいだけにはできない。もうすぐ、血の繋がらない子の父親になるのだ。覚悟はしていたつもりだが、不安を取り除くことはそう簡単ではなかった。いまのジェラベルドは、巨大な赤竜よりも小さな赤ん坊に怯えている。深いため息は、白く色づいて長い尾を引いた。
ジェラベルドは二度、三度、強く頬を打ち、目を開いた。
これは自分が選んだ人生だ。自分の選択は、自分で正さなければならない。ソフィシアに求婚したときから、彼女とその子を愛し抜く責任がある。――たとえ、報いられることがなかったとしても。
ジェラベルドが再び家に帰り着いたとき、もう震えは止まっていた。
ソフィシアを取り囲み、椅子ごと背を支える女たち。その向こう側に、ジェラベルドは声をかけた。
「俺も手伝う」
誰にも許可を得るつもりはなかった。露骨に顔をしかめる女たちの間を押し通ると、椅子の上で産みの苦しみに耐えているソフィシアと目が合った。痛みに顔を歪めつつ、涙目でジェラベルドを睨みつけている。
「すまん」
ソフィシアの足下は赤黒く濡れていた。赤竜と戦い慣れているジェラベルドからすれば、恐ろしくも汚らわしくもない。ソフィシアの隣に跪いて身体を抱いた。いきんで、と女たちが声を上げると、ソフィシアが必死でしがみついてくる。彼女の爪が、ジェラベルドの袖を破って腕に食い込む。血がにじんだ。
大丈夫だよと励ます声はすべて女たちのものだ。ジェラベルドは黙ってソフィシアを支えるだけだ。そうして彼女が感じているものとは比べものにならない、小さな痛みを受け止める。絶叫が響く。何度も。
王城の鐘が遠くに聞こえる。「目覚まし時」なのか「朝餉時」なのか、それとも「御用始め時」か、判然としない。ジェラベルドに分かるのは、とうに夜は明けたらしいということだけだ。
ジェラベルド、とソフィシアがささやいた。耳元にかかる吐息が熱い。
「あなたが、取り上げて」
短い言葉を理解するまでに、たっぷりと一呼吸あった。その後で頷きはしたものの、本当の意味はずっと理解できていなかった。ただ言われるままに、汚れたスカートの下を覗き込み、影の中でいままさに生まれ出んとする小さな頭を見つけ――そして。
ジェラベルドは、その腕の中に産声を抱いた。
老婆が慣れた手つきでへその緒を切り離してくれた。女たちからは歓声と安堵と、夜通し立ち会った疲労がいっぺんに吐き出された。盛んに泣きわめく赤子の顔を、母になったソフィシアに見せる。彼女は涙を流しながらも微笑み返してくれた。
「女の子だ」
自分の血を引いていないから、きっと可愛い女の子に育つだろうと思った。
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