師匠と弟子・4
「さて、お師匠様もだいぶ読み書きや計算ができるようになってきたことですし、今日からは、王城事務官試験の合格に必要な基礎魔法の知識についてお教えします」
トートの授業はいつも同じ部屋で行われた。雄弁魔法をかけてもらった地下の書斎だ。ジェラベルドが午前中に新しい技をひとつ教え、午後にはトートから新しい知識がひとつ与えられる。このひと月はその繰り返しだ。
「基礎魔法の知識といっても、王城事務官がすべての魔法を使えなくてはならないわけではありません。実際に魔法を使うのは、僕たち魔道士の仕事です。試験で問われるのは、サナティアの街を治めるために魔法技術がどのように応用されているかということです。……これが試験のための教本です。よいしょ」
トートが杖を振ると、彼の小さな手には余るほどの分厚い本が二冊、どすんと音を立ててジェラベルドの机上に降ってきた。
書名は、『現代治政における魔法の応用』。真新しい革張りの表紙がてらてらと光っている。「教本の代金も、授業料に含みますからね」とトートがつけ加えた。
「これを、全部覚えるのですか」
ジェラベルドは思わずのけぞった。
「もちろんです。ひと口に王城事務官といっても、その仕事は多岐にわたりますからね。土木工事か国防か、はたまた司書か財政か、どの仕事に配属されても仕事ができるように、あらゆる分野における基礎知識を身に着けておく必要があるんです。普通、王城事務官を志す若者はこれを三、四年かけてじっくり覚えますが」
「知らなかった……」
ジェラベルドは頭を抱えた。
「基礎というから、もっと簡単なものかと」
三年なんて、そんな悠長なことは言っていられない。次の試験は年が明けてすぐだ。
「大丈夫。僕たち親子がついてますよ、お師匠様。……その本の、著者名をよく見てください」
言われてジェラベルドは表紙に視線を落とした。金文字で書かれた書名の下に、「ソーラス・ハーン著」の文字。思わず目を丸くすると、トートが嬉しそうにはにかんだ。
ソーラスが研究していたのは結界魔法だった。王城周辺に赤竜が寄って来なくなったのは、彼が考案した結界魔法のおかげだ。ソーラスの死後も息子トートが跡を継ぎ、いまもサナティア中心街を赤竜から守り続けている。赤竜討伐団にも協力を惜しまず、
ジェラベルドは表紙を開いた。ソーラスの書いた序文は、驚くほど短かった。
王城事務官を志すすべての人へ
こんな序文は読み飛ばせ。知るべきことは山ほどあるぞ。
ソーラス・ハーン
「ソーラスらしい」
ジェラベルドは笑い、少し涙ぐんだ。
「これが文字の素晴らしいところです」
トートが青い目を細めて言った。
「人は死んでも、書いた言葉は残ります。僕は父の遺した研究を学んでいると、父に会えるような気がするんです」
「そうか……」
父の研究を受け継ぎ、すでに「ハーン博士」と呼ばれ称賛を集める天才少年。その姿が、ジェラベルドの胸を締めつけた。
もしも六年前にハーン夫妻が事故で命を落とさなければ、トートはここまで賢く、自立した子どもには育たなかったのではないか。トートにとって魔法を学び父の役目を継ぐことは、父のいない寂しさを埋める最も有効な手段だったのだろう。
だからこそ、自分はこの家に長居すべきではないとジェラベルドは思う。トートは父親の遺した言葉の中に、その存在を感じている。父子の繊細な繋がりを、不用意に断ち切ってしまうのが恐ろしかった。
自分とトートは師匠と弟子で、弟子と師匠だ。父と子にはなれないし、なるべきでもない。
「どうなさいました、お師匠様?」
表情が沈んでいたらしい。「少し、ソーラスのことを思い出していた」とごまかすと、トートはそれを疑いもしなかった。
「では早速始めましょう。第一章を開いてください」
ページを開くと、円の中に様々な模様が書き加えられた図形がずらりと並んでいた。これらはすべて、王城内の壁や柱に彫られている魔法陣だ。まずは基礎中の基礎から、とトートは杖を立てた。
「円の中に縦線」は
一般の王城事務官は「一本線」の解錠ができれば問題ない。ちなみに「三本線」があるのは、サナティアでも王の寝室と牢獄だけだ。
実はハーン邸の扉や数々の書斎にも、トートによって
「貴族の家は狙われやすいですし、研究上の秘密もたくさんありますので」
「……ということは、私の朝稽古は……」
ジェラベルドははたと思い当たった。特に誰に断ることもなく庭に出たのは、まずかったのではないか。
「大丈夫です。お師匠様やラウラちゃんには、
「なら、良かった」
何も知らずに締め出されて、獣の餌にされてはたまらない。
トートは一本線の
言葉にするのはたやすいが、やってみるとこれがなかなかに難しい。指の動きに気を取られて、「解錠」というまだ書き慣れない古代ヨハ文字の込み入った形が明確に浮かばない。かと言って文字の形に集中し過ぎると、指先の動きが疎かになる。
ジェラベルドは練習用の黒い小箱に向かって指を回してみた。「トートの箱」、解錠せよ。しかし、何度やっても箱は開かない。黙って指をくるくる回している自分が間抜けに思えてくる。だんだん肘も痛くなってきた。
ちなみにトートは、物心ついたときにはもう二本線の解錠魔法を習得していたという。天才少年と比べても仕方がないとは分かっているものの、やはり情けない気分になる。
「お師匠様、あまり無理をしないでください。まだ右腕が治りきっていないんですから」
「しかし、先は長い。このくらい、すぐにできるようにならなければ……」
「いけません!」
トートがぴしゃりと言った。
「『魔道士の心構え・その十一』、無理は禁物、です」
「そんな心構えは、教わった覚えがありませんが……」
「いま作りました。とにかく、いったん休憩しましょう。お茶をお出ししますから」
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