師匠と弟子・5

 トートが杖を振ってからしばらく経つと、中年のメイドが書斎にお茶を運んできた。ジェラベルドの好みに合わせて、牛乳も添えられている。

「そういえばお師匠様は、どうして王城事務官に転職しようと思われたのですか? 危険を伴わない安定した仕事なら、ほかにもいろいろあると思うんですが。……あ、敬語はやめてくださいね。休憩時間ですから」

 ポットの茶葉を蒸らしている間に、トートが尋ねてきた。王城事務官は諦めたほうがいいと遠回しに言われているのかもしれないが、ジェラベルドは気にしなかった。そんなことは百も承知だ。

「討伐団を辞めても、王都のために働きたいからだ。……というのは半分本当で、半分は建前だが」

「じゃあ、あと半分の理由は?」

 ジェラベルドは答える前に微笑んだ。

 子どもはまっすぐな問いを向けてくる。トートのように並外れて賢い少年でも同じだ。大人には、答えをはぐらかしたいときがある。あと半分の理由は、やましいわけでも、曖昧で言葉にならないわけでもない。ただ、そう、恥ずかしいのだ。大人が口にするには、あまりにも子どもじみている自覚がある。

「……一度、きちんと勉強してみたかったんだ」

 残り半分の理由は、ごく私的な願望だった。

 ジェラベルドは、かねてから学問に対する憧れを抱いていた。貴族や豪農豪商などの裕福な家庭の子には、当たり前のように家庭教師がついて読み書きや算術を習う。それに加えて各人の興味関心が深い分野があれば、さらに専門の教師を雇ってもらえる。あいにく貧しい家庭に生まれたジェラベルドには叶わなかった。

 若い頃のジェラベルドは、やって来る赤竜を倒して給金をもらうことしか考えていなかったが、シノやソーラスは違った。各々の知恵を寄せ合って、どうすれば赤竜と有利に戦えるか、どうすれば赤竜がサナティアに寄りつかなくなるかを常に考えていた。友人たちの視野の広さが羨ましかった。ジェラベルドは二人に教わった気がする。運命を切り拓く力は、剣だけではないのだと。

「つまり……中年のわがまま、というやつだな」

 つい照れ笑いを浮かべるジェラベルドに、トートが首を振った。

「いいえ、とっても素敵だと思います。僕もぜひ、お師匠様のお役に立たせてください。……それに、父も。自分が書いた本がお師匠様の新しい人生を拓く手助けになるなら、父にとってこれ以上の喜びはないはずです」

 少年のまっすぐな青い瞳と、赤い表紙に描かれた親友の名が心強かった。

「ありがとう。……よろしくお願いします、ハーン博士」

「もう、敬語はいいですってば!」

 トートはふくれてみせた後で、子どもらしい笑顔を見せた。ジェラベルドも、かすかな罪悪感を押し隠して微笑み返す。

 そろそろ茶も飲み頃だ。カップに茶と牛乳を注ぎ、スプーンでくるくるとかき混ぜるとき、ジェラベルドは頭の中で「解錠せよ」の文字を思い浮かべてみたが、やはり上手くいかなかった。茶の黒い液面に牛乳が白い円を描きながらほどけ、やがて混ざり合うと柔らかな色合いに変わった。

 

***

 

 解錠、解錠、解錠、解錠、解錠、……しまった、間違えた。

「おとーさん、まだしゅくだいおわらないのー?」

 すでに瞼の重いラウラが、膝の上で大きなあくびをした。

 先に寝ていいと言ったのに、ラウラは「おとーさんといっしょにおきてるもん!」と頑張っている。とはいえ、襲い来る眠気の前に幼い娘が陥落するのは時間の問題だ。

「もう少しだ」

 正確に言うと、これは宿題ではない。

 ジェラベルドは就寝前の書き取り百回を自らに課していた。結局この日、解錠魔法は一度も成功しなかった。このまま練習を続けるより、まず字の形を完璧に覚え込むところから始めるべきだと考えたのだ。

 百個目の「解錠」を書き終えたとき、案の定ラウラは父の胸に頭をもたせかけて眠りに落ちていた。ジェラベルドは娘を起こさぬようにそっとベッドへと運び、よだれをぬぐってやった。

 百回は書き過ぎだったかもしれない。さすがに右腕が重い。首を回すとぽきぽき鳴った。

 ジェラベルドは机上の片付けを始めた。書き取り用に分けてもらった雑紙の束をしまおうとして、何気なく机の引き出しを引いたら開かなかった。三段あるうちの、一番下の段。鍵穴がない代わりに、魔法陣が彫り込まれている。円の中に一本線、魔法錠ザウペドールだ。

 開けられるかどうか試してみたいという気分になった。いまなら明確に「解錠」の文字が思い描ける自信がある。ただ問題は、この引き出しに与えられた名前だ。

 ソーラスの引き出し、解錠せよ。――開くわけがなかった。ソーラスの妻ペルルや、息子トートの名でも開かない。「ジェラベルドの引き出し、解錠せよ」でもだめだった。練習の甲斐あって、頭の中に文字列はくっきりと浮かんでいるのだが。

 人の名前をつけているとも限らないし、当てずっぽうで開くわけがないと思いながら、最後に一度だけ試してみる。

 シノの引き出し、解錠せよ。――そう念じながら二回指を回したとき、大きな引き出しがひとりでにゆっくりと飛び出した。

 引き出しの中には薄茶色の便箋が積み上げられていた。一番上の一枚だけが書きかけで、あとは未使用だ。見覚えのある懐かしい筆跡が、ジェラベルドの目に飛び込んできた。間違いなく、ソーラスの字だ。

 ただ魔法錠ザウペドールが開けられるかどうかを試すだけで、中身を暴くつもりなどなかった。しかし引き出しにシノの名が与えられていると分かった以上、ジェラベルドはその便箋を読まずには眠れなくなった。

 ジェラベルドは立ったまま、続く文にも目を通し始めた。かつてはソーラスが隣で文字を書きつけていても、ほとんど読めなかった。だからソーラスの特徴ある筆跡も、曲線と図形の連なりに過ぎなかった。それがいまトートから文字を学んだことによって意味を持ち、もうどこにもいない友の知らざりし一面が目の前に立ち上がってくる。ジェラベルドにとっては嬉しく、寂しく、そして恐ろしいことだった。


 僕の良き友シノへ


 いきなりこんな手紙を送りつけてごめんね。君にしか話せないことなんだ。

 ジェラベルドには、いまはソフィシアとラウラのことだけ考えていてほしいから。


 早々に自分の名前が出てきて驚いた。ソーラスは六年前、つまりラウラが生まれた翌年に亡くなっている。この手紙はおそらく、ラウラが生まれて間もない頃に書かれたものだろう。

 ソーラスが書く古代ヨハ文字には、ジェラベルドがまだ読めないものが多かった。まったく意味が分からない文もあるが、歯抜けでもだいたいの意味は読み取れる。

 そして、次の文章の意味さえ分かれば、おそらくこの手紙の主旨は読み取れたも同然だった。


 最近、悪い■■がして、不安で夜も■れないんだ。

 僕は近いうちに、誰かに殺されるかもしれない。

 大した■■があるわけじゃない。魔道士の■で、なんとなくそう感じるんだ。

 僕も十分に気をつけるつもりだ。

 でも、万が一僕にもしものことがあったら、そのときはペルルとトートをよろしく■むよ。


 さっきとは別の疑念が渦巻き、便箋を持つ手がぶるぶると震えた。

 ――ソーラスとペルルは、本当に事故で死んだのか?

 まさか。シノからは、旅行中の落石事故だったと聞いている。――でも、それ自体誰かが仕組んだものだったとしたら?

 この手紙は書きかけで終わっている。ソーラスは書き上げた手紙をシノに送ったのだろうか? シノはソーラスの死について、何か知っているのだろうか? 知っていて、隠しているのだろうか?

 不穏な考えが頭の中で一気に湧き上がる。思わず後ずさりしたときあやまって椅子を倒してしまった。自ら立てた大きな音に驚いて振り向く。ラウラを起こしてしまった。

「おとーさん、だいじょうぶ? こわいゆめ、みたの?」

 甘く幼い声が、ようやくジェラベルドを現実に引き戻す。夢。夢か。そうならばいい。

 夏が始まるせいではない不快な汗が、左頬の傷跡を伝って流れた。

「……大丈夫だ。すまん」

「おいで。ラウラがいっしょにねてあげる」

「ありがとう。そうさせてもらおう」

 ラウラに話を合わせて言ったのではなかった。小さな娘の温もりにでも甘えなければ、眠れそうもなかったのだ。

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