第5章 剣士と赤竜
剣士と赤竜・1
第5章 剣士と赤竜
何か悲しい夢を見た気がするのに、思い出そうとしても思い出せない。
ジェラベルドが目覚めたとき、まず昨日までと違う天井を見ていることに気づく。そうだ、トートの師匠を馘になったのだと思い出した。
「目覚まし時」の鐘が鳴り始めるころ、ジェラベルドはベッドから出て着替えると、訓練用の剣を持って家の前へ出た。早起きして剣を振るうのは、ハーン邸にいたときとも、その前とも変わらぬ日課だ。
素振りを始めようとしたとき、荷馬車が通りがかって出鼻をくじかれる。ここはハーン邸の広い庭ではない。この辺りは道幅が狭いので、誰かが通るたびに手を止めなければならないことを忘れていた。
もう赤竜討伐団の剣士でも、トートの師匠でもない。ジェラベルドは誰のためでもない剣を百回振った。何となく身が入らないのは、掌の傷がひりつくせいにした。
ラウラが起きた後は、二人で近所の市場へ出かけて食材の買い出しをして、遅めの朝食を作る。市場で買ったパンのほかは、野菜スープと目玉焼きくらいしか思いつかない。ラウラと一緒に黙々と食べた。今日のラウラは、ずいぶん静かだ。
「ラウラ、卵プディングでも作るか?」
「……うん」
卵プディングなら、昔ソフィシアと一緒に作ったことがある。確か、卵と牛乳と砂糖があればできるはずだ。しかし曖昧な記憶のせいか大雑把な目分量のせいか、それともかまどの火加減が弱すぎたのか、どろどろのままで上手く固まらなかった。
ラウラはスプーンをくわえたまま、しょんぼりとうつむいていた。
「次は上手く作れるさ」
「うん……」
「どうした、ラウラ?」
ラウラはほかに思うところがあるようだったが、「なんでもない」と首を振った。
「言いたいことがあったら、言っていいんだぞ」
「……べつに、ない」
「……そうか」
ジェラベルドには娘の気持ちがだいたい分かるつもりだった。トートがいなくて寂しいか、ハーン邸の暮らしが恋しいか、いや、その両方だろう。
ラウラの手からスプーンと皿を受け取って桶の中に漬けているとき、誰かが玄関のドアをノックする音がした。「おきゃくさんだよ」とラウラが言う。
客は顔を見たことのない無口な若い男で、ハーン邸からの使者だった。昨日までの報酬を届けに来たのだ。受け取った箱は立派な革張りのもので、ずっしりと重かった。雇われていた期間は長くないのに、こんなにたくさん給金があるものだろうか。
「トートは、どうしていますか」
ジェラベルドが使者に尋ねたのは、もちろん本当に気にかかっていたからだが、いくらかは社交辞令も含まれていた。
「さあ、別に、いつも通りですけど」
事務的な口調で短く答えて、使者は去っていった。
「おとーさん、それ、なんのはこ?」
ラウラに言われるまで、ぼうっと突っ立っていた。
いつものジェラベルドなら、子どもに大金を見せるのはよくないと考えたはずだ。ただこの日はそこまで考えが回らなくて、ラウラに言われるがままに箱を開けてしまった。
確かに、それなりの量の金貨は入っていた。しかし箱の中身の大半を占めていたのは、トートが仕立ててくれた黒い上着と、ソーラスが書いた教本の上下巻――つまり、ジェラベルドがハーン邸にあえて置いていった物だった。ほかにも古代ヨハ文字の字典や、ラウラのために子ども向けの学習書も入っている。
本の上に、報酬額の計算が記されている紙切れが一枚載っていた。これはトート本人ではなく、ハーン邸の執事が書き記したものらしい。
トートビアス・ハーン博士はわが国随一の魔道士であり、博士の時間は常人の時間の何倍も貴重なものであります。したがって、博士から貴殿へ請求すべき魔法の指導料は、本来貴殿への報酬と相殺してもあまりあるところですが、博士のご意向により貴殿への債権を全額放棄いたしましたことをここに記します。
ジェラベルドは視線を紙の上に落としたまま動けなかった。いくつか読めない文字や知らない言葉もあったが、そこに書かれている数字の計算や但し書きの意味はおおよそ分かる。分かるようになったのだ、トートのおかげで。
ジェラベルドは己の不明を深く恥じた。サナティアの宝ともいうべきハーン博士に、銅貨一枚の得にもならない魔法の授業をさせてしまった。トートの父親代わりになるどころか、甘えていたのは自分のほうではないか。
トートからの言葉は、何も書かれていない。けれどもジェラベルドには、トートが何を伝えたいのか、はっきりと分かった。
――お師匠様、僕のことは憎くても、勉強をやめないでください。
魔法の師匠だった少年の声を思い浮かべ、それに従うことにした。ジェラベルドには剣に代わる新たな
「ラウラも、お父さんと一緒に勉強するか?」
「うん」
ジェラベルドとラウラは食卓の上に本と紙を広げた。今日からここが二人の勉強部屋だ。
「おとーさん……」
一心不乱に本を読んでいる父親に、ラウラが遠慮がちに声をかけた。
「トートと、なかなおりしなくて、いいの?」
それが、ラウラが本当に言いたかったことだったらしい。
「……別に、喧嘩をしたわけじゃない」
「うそだよ。おとーさん、きのうからずっと、こわいおかおをしてるんだもん……」
ジェラベルドは本を閉じた。
頭では分かっている。不幸な事故だったのだ。トートは両親をびっくりさせたかっただけなのだろう。三歳にしてすでに
それでも、まだジェラベルドには割り切ることができないでいる。
「……もう少し、時間が欲しい」
革表紙の上に視線を落とす。そこには、「ソーラス・ハーン著」の金文字があった。
一生懸命文字の書き取りをしていたラウラは、夕食後に机に突っ伏して寝てしまった。ジェラベルドはラウラを二階の部屋で寝かせてから、食卓の上に置きっぱなしの皿や本を片付けた。勉強疲れしたのはジェラベルドも同じだ。早めに寝ようと思っていると、誰かが玄関のドアを叩く音がした。誰だ、こんな時間に。
「私だ」
声を潜めていても、すぐに誰だか分かった。シノ・フィングレイだ。
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