重ね名・7

 ラウラの預け先に、実家やきょうだいの家ではなくシノを選んだのは、フィングレイ邸がもっとも家に近いからという理由ばかりではなかった。

 ソフィシアを失おうとしているという受け入れがたい事実は、ジェラベルドを激しく動揺させていた。ひとりではとても耐えられそうになかった。助けを求める相手として、無二の相棒を選んだのだ。

「私にとってもソフィシアは友だ。力になりたい」

 シノは翌日から討伐団の仕事後、泊まりがけでソフィシアの看病を手伝ってくれた。一縷いちるの望みを懸けて、熱冷ましや咳止めの薬湯を飲ませてみたが、効き目はなかった。医者が言った通り、ソフィシアは二日目に桶に血痰けったんを吐くようになり、三日目には意識が混濁しはじめた。

 いつそのときが来てもおかしくはない。シノはラウラを帰し、二階の空き部屋で一緒に寝起きすることにした。ラウラが「シノちゃん、おかーさんは?」と首を傾げると、シノは何も言わずにその無邪気な幼子をきつく抱きしめるのだった。

 そして、四日目の朝を迎える頃、ソフィシアが熱い息を吐きながらつぶやいた。

「ヴォルフィス……」

 まんじりともせず一夜を明かしたジェラベルドの耳に、その声ははっきりと届いた。

「ヴォルフィス、そこにいたのね。会いたかったわ……」

 ソフィシアの青い瞳は虚ろで、傍らのジェラベルドに向けられている。

「よく見ろソフィシア、ここにいるのは……」

 シノが訂正しようとするのを、ジェラベルドは止めた。

「……久しぶりだな、ソフィー」

 ジェラベルドは枕元に跪き、ジェラベルド・バルナランドであることを放棄した。妻がこの世で最後に見る夢を守るために、ラウラと同じ瞳の色をした青年の姿を懸命に思い浮かべる。きっと品の良い美男子だったのだろう。ジェラベルドとは似ても似つかないその人のことを、ソフィシアは愛し続けていたのだ。恐れも悲しみも、胸を穿つ落胆も嫉妬もいまは飲み込み、ヴォルフィスとして微笑み返した。

 ソフィシアの苦しげな顔が幸福にほころぶ。ジェラベルドが見たことのない表情だった。シノが椅子を蹴って立ち上がり、部屋から出て行った。それでいい。こんな茶番にまで、シノが付き合う必要はない。

「あなたに、話したいことが、たくさんあるわ。……あなたの、娘が、生まれたの」

「本当か? 名前は?」

「ラウラエレナよ。いい名前でしょ? 三つになったばかりなの。あなたにも、顔を見せてあげたいわ」

「そうだな……会えるのが楽しみだ」

「それとね、もうひとつ……」

 ぜえ、ぜえと、ソフィシアが息をするたび、壊れた胸の音がする。もう何も喋らないでほしい、苦しまなくていいなどと思ってはいけない。彼女はようやく愛する人に会えたのだ。

「ねえ……私、ほかに、好きな人ができたのよ」

「好きな人?」

 意味が分からなかった。いまソフィシアは、愛するヴォルフィスに話しかけているはずだ。だからジェラベルドは、これも譫言なのだろうと思おうとした。しかし、

「お人好しで、嘘がつけなくて、優しい人よ。……その人は、赤竜と戦っているの」

 誰のことを言っているのかが分かると、ジェラベルドはもう何も言えなくなった。

「その人のおかげで、私、いま、すごく幸せなの。ねえ……あなた、私の名前を呼んで」

 青い瞳に、理性の輝きが戻った。

「ソフィ……、ソフィシア」

 妻は、名前を捨てないまま生きた。ジェラベルドがその名を呼んだとき、涙がひとりでにこぼれ出した。ソフィシアは震える手を持ち上げて、ヴォルフィスではない男の髭むさい頬を拭ってくれた。

「ジェラベルド、……」

 ソフィシアは何と続けたかったのだろうか。その手を握り返したときには、彼女の魂はジェラベルドの前から永遠に去っていた。その顔には笑みさえ浮かび、まるですやすやと眠っているかのようだった。それでも窓から差し込む朝日が、枕に沈み込んだ頬に濃い影を作ったとき、ジェラベルドは否応なく目の前の現実を受け止めねばならなくなった。

「ああ……」

 全身から力が抜け、床の上に尻をついた。

 我慢するのには慣れていたつもりだった。手に入らないものばかりの人生だったから。けれども、それは大きな間違いだった。手の中にあった大切なものを失ったことは一度もなかったのだ。どうすればいい。どうすれば耐えられる。何も分からなかった。

「あああ……ああ、ああ!」

 その感情は、悲しみという名前すら持たなかった。ただ胸の中で嵐となって巻き起こり、嘆きに変わって空気を揺さぶった。自分の声が聞こえているのに、聞こえていない。

「あああ! ああああ! ああああぁぁぁぁーっ!」

 突然、ジェラベルドは強い力で誰かの腕に抱かれた。やり場のない涙と叫びを受け止めるその胸に、赤竜討伐団の紋章が見えた。

「……シノ、俺は……」

 シノはジェラベルドの頭をかき抱いて、何も言わなかった。ジェラベルドはその胸に、腕にすがって泣き続けた。頭の奥が痺れて涙が止まるまで、ずっとそうしていた。

「おとーさん……?」

 足元でラウラが呼ぶ声がした。

 無垢な紫の瞳は、まだ母を失ったことさえ知らず、不思議そうに血の繋がらない父親を見上げていた。娘の名を呼ぼうとしたら、喉が嗄れて上手く声が出なかった。ようやくジェラベルドは、自分がずっとシノの腕の中にいたことに気づいた。

「……すまん。見苦しいところを……」

 かすれた声と一緒に、再び涙がにじんだ。

「気にしなくていい。……また後で来る。お前は少し休め」

 シノは腕をほどいて立ち上がった。いつも通りの冷静さを保つ相棒の頬に、一筋だけ涙の跡が残っていた。

「ラウラ、ねむたーい」

 言われてジェラベルドも、連日の不眠を思い出す。このまま床に伏してしまいたいほどだが、そうも言っていられない。ラウラを抱き上げたとき、肩にしがみつく力の意外な強さに驚いた。

「今日から、お父さんと一緒に寝よう」

「おかーさんは?」

 小さなラウラの体温が、じんわりと伝わってくる。どんなに悲しくても、疲れていても、この子のために立ち上がらなければならなかった。

 ソフィシアへ一度だけ振り返る。しかし彼女に何かを誓うには、悲しみがあまりにも新しすぎた。

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