剣士と赤竜・2

 ハーン邸と違って、バルナランド邸には突然の客に対する備えなどない。出せるのは古びた空のグラスと、昼に作ったキャベツの浅漬けだけだ。それはシノにも分かっている。だから、シノは酒を持参してきた。

 黒い小瓶から注がれた酒は無色透明で一見すると水のようだが、ひとくち舐めてみると口の中がかっと熱くなった。なかなか強い酒だ。

「海の向こうから仕入れた酒らしい。トートの家からもらってきた」

「寄ったのか?」

「お前がいるかと思ってな」

 シノは小さなグラスを一気に空けた。

義妹いもうとが失礼なことを言ったそうだな。悪かった」

「いや、いい」

 シノの用事は終わった。酒を注ぎながら、ジェラベルドが何か言うのを待っている。

「……お父上のことは、残念だった」

「ああ、最後に父に会ってくれてありがとう」

「いや……」

 また、二人とも無言になる。

 ジェラベルドも、シノに倣って酒を流し込んだ。喉を刺激する辛さの後で、鼻から抜ける風味はふわりと甘い。旨い酒だが、二杯目を飲むのはやめたほうがよさそうだ。酔えば醜態をさらしてしまいそうで怖い。

「……この間は、悪かった」

 どうにかそう切り出した。

「何のことだ」

「六年前の事故のことだ。……俺は、お前が嘘をついたと思った」

「嘘をついたのだ、実際に」

 くどくど説明しなくてもシノには伝わった。ジェラベルドも、事故の真相を知ってしまったのだと。

「お前は、トートを守ろうとしたんだろう」

「良いように言えば、そうだが」

 シノは小さく笑みを漏らして、二杯目も軽く飲み干した。

「ようやくお前に本当のことが言える」

 そう言って、シノは手癖に任せてグラスに三杯目を注いだ。シノは打ち明け話をするときに、酒に頼るような人間ではないはずだった。

「ソーラスとペルルが死んだと聞いたとき、私もただの事故ではないだろうと思った。誰かが魔法陣に細工をしたに違いないと。……だが、まさかトートだったとは」

 事故の直後に、シノもハーン邸の魔法陣に残されたトートの落書きを見ていた。

 悩んだ末に、シノは己の職務に従って報告書にありのままの事実を書いた。

「王に判断を委ねたというより、私にはどうすればいいのか分からなかったのだ」

 王は「事故は記録しておかねばならないが、才能ある幼子を、いたずらに責め苦しめることはない」と仰せになった。

 トートは三歳にして父親の魔法錠ザウペドールを破り、古代ヨハ文字交じりの文章が書けるほどの天才児だ。両親を死なせた責め苦を負わせるよりも、のびのびと育てて亡き父の跡を継がせたほうがサナティアのためになる。それが王のお考えだった。

「陛下のお立場を考えれば当然だが……トートのための判断ではなかった」

 シノは王に従い、報告書からトートに関する記述だけをすべて削除した。地下の書斎に残った魔法陣も落書きごと消せないかと考えたが、結界魔法に使われる塗料は魔力を帯びたごく特殊なもので、ひとたび染み込むと二度と消すことはできなかった。

「あの白い塗料、赤竜の角を削った粉でできているそうだぞ。私たちが殺した赤竜のな」

「そうか……」

「そうだ。証拠隠滅のためには床ごと壊すしかないが、そんな目立つことをすれば、あの部屋に何か都合の悪いものがあったのだろうと誰でも気づく」

「……それで、本で埋めて隠したのか」

 他に方法もなかった。シノは再調査という名目でひとり書斎に立ち入り、魔法陣の上にひたすら分厚い本を移動させた。こんなことをしてもその場しのぎにしかならないと思いつつも、何十冊も、いや何百冊も、埃にまみれながら。

「さすがにくたびれた」とシノは苦笑した。

 意外なことに、六年間も秘密は守られた。トートがほとんど立ち入らなかったからだ。

「無意識のうちに避けていたんだろう。両親を亡くした日にひとりで遊んでいた部屋だからな」

 トートがあの書斎の扉を開ける気になったのは、ジェラベルドのためだった。同じ部屋に、たまたま雄弁魔法の魔法陣が描かれていたからだ。

「トートの顔を見るのは、正直つらかった」

 シノは空のグラスを弄びながら言った。

「ソーラスから不安を打ち明けられていたのに、私は何もしてやれなかったのだ」

 なるほどシノがトートに対してそっけなく見えたのは、罪悪感のせいだったのかもしれない。

「……すまん」

 ジェラベルドは思わず口走っていた。

「お前のせいではない」

「そうじゃない。俺が、謝りたいのは……」

 傍にいながら、気づけなかったことだ。悩んでいるお前の、力になれなかったことだ――言葉は簡単に浮かんだのに、そのまま口に出すことはできなかった。

「気にするな。……私が、お前に知られたくなかったのだ」

 それでもシノは、ジェラベルドの言いたいことを分かってくれる。この心地よさに、ジェラベルドは二十年間甘え続けてきた。

「悩んだ挙句に王の言いなりになるような情けない人間だと、お前にだけは思われたくなかったのだ」

 シノは目を瞬いた。長い睫毛の下で、黒い瞳はジェラベルドのほうへは向かず、何もないテーブルの細かな傷に視線を注いでいた。よくよく見れば、その目尻や口元には細かな皺が現れている。シノはまったく老けないなどと思っていたのは大きな見過ごしだった。シノも日々少しずつ老いているのだ。

 だからといってシノの美しさが減じたとは、ジェラベルドは少しも思わなかった。それどころか今宵、シノの翳った表情は儚げに艶めいて、ジェラベルドを強く誘惑した。

「シノ……」

 ジェラベルドはシノに向かって手を伸ばしかけ、しかしその前髪に触れる前に指を折り畳んだ。

「……駄目だ」

 シノは目の前に浮かんでいる大きな拳を、不思議そうに見つめている。

「何がだ?」

「俺がだ」

 危うく独りよがりな願望に身を委ねてしまうところだった。

 いまジェラベルドの心の中でひとつの答えが出たことを、シノは知る由もないだろう。シノへ向かって伸ばした手も、しかし触れることなく思いとどまった手も、どちらもジェラベルドの偽らざる心だった。

 ジェラベルドは拳を引っ込めて自分の顔を撫でた。この手を差し伸べるべき相手は、シノではないはずだ。

「俺は……トートに、ひどいことをしてしまった」

 ようやく後悔の念が言葉になって出た。両親を亡くした子に、あんな目を向けるべきではなかったのだ。

「ひどいのは私も同じだ。真実を隠す努力より、真実を伝えた後の努力をするべきだった。……まだ間に合うと信じたいな」

 言いながらシノはキャベツの漬物をつまむ。

「旨いな。お前が作ったのか?」

 ジェラベルドは笑った。自分では、塩が足りないと思っていたのだが。

「好きなだけ食え」

 シノは遠慮せずに皿を空にした。小腹を満たすだけ満たした後、しまいには「眠いな」と言い出す。

「明日は非番なのだ。ここに泊まってもいいか?」

「ラウラの横で寝ろ」

 ジェラベルドは二階を指さした。

「俺は下の部屋で寝るから」

「そうさせてもらおう」

 シノがあくびをしながら立ち上がった。階段を半分まで上って足を止め、不意に「ジェラベルド」と呼ぶ。今度はしっかりと相棒のほうを見つめていた。

「お前は全然、駄目なやつではないぞ」

「お、おう」

 不意を突かれて、間の抜けた返事しかできなかった。シノはさっさと二階に上がっていく。ジェラベルドはひとり残された。

 二杯目の酒をグラスに注いだのは、気が変わったからだ。

 もう英雄でもなく、立派でもなく、誇り高くもないただの男だから、少しくらいひとりで酔っ払ってもいいはずだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る