剣士と赤竜・4
「みんな、逃げろ!」
シノが叫ぶと、人々はみな悲鳴を上げて走り出した。
赤竜が貴族席をなぎ倒しながら練兵場の
シノは剣を抜いた。
討伐団の仲間たちは、すぐには来られないだろう。近衛兵団も警備兵たちも、強大な赤竜を前にしてまごつくばかりだ。これほど多くの人間がいるのに、赤竜に立ち向かおうとするのはシノひとりだった。
「おとーさん! シノちゃんをたすけてあげて!」
ラウラが腕の中で叫ぶが、ジェラベルドは剣を抜くことができなかった。
頭の中に、あの日の光景が蘇る。鋭い爪。引き裂かれる身体。そして、止めどなく噴き出す自分の血。
――俺は、赤竜が、怖い。
「ジェラベルド、お前はラウラを連れて逃げろ」
シノに背を叩かれるまで、足に血が通っている気がしなかった。
「結界魔法が正常に作動していない。……トートが心配だ。様子を見に行ってくれ」
「でも、シノちゃんひとりじゃ、あぶないよ!」
「これが私の仕事だ、ラウラエレナ。お前にも仕事を任せたい。ジェラベルドと一緒にトートを助けるんだ。いいな?」
シノが優しい手つきでラウラの頬を撫でた。ラウラは紫の瞳をいっぱいの涙できらめかせて頷いた。
「トートを頼んだぞ、ジェラベルド!」
ジェラベルドは黙って頷いた。
生まれて初めて、赤竜に背を向けて走り出す。自分の情けなさを嘆いている暇はない。いまは、トートのもとへ急がなくては。
ハーン邸に近づくにつれて、向かい風が強まってきた。ハーン邸の真上だけ、灰色の雲が湧いている。
門前には二十人近い貴族が押しかけていた。門の向こうにトートの姿が見えるが、風が強くて近づけないでいる。風は、トートから起こっていた。
「赤竜が来たじゃないか! 結界魔法はどうなってるんだ!」
「うちの家が壊れたらどうしてくれるんだ! 早く何とかしろ!」
「この風は何だ? ハーン博士は何をやってる!?」
思い思いに喚く声が、ジェラベルドの耳をかすめていった。みな自分の都合ばかりだ。誰もトートのことなど考えていない。
「トート! トート!」
ジェラベルドは声の限り名前を呼びながら、貴族たちを押しのけて門の中へ足を踏み入れた。
「お師匠様……」
トートの青い目がジェラベルドを捉えた途端、涙が溢れ出した。
「トート!」
ラウラがトートへ向かって手を伸ばす。
「せきりゅーがあばれてるの! シノちゃんがたいへんなの! このかぜ、とめて!」
トートは激しく首を振る。縮れた髪が乱れた。
「僕にもどうしていいか、分からないんだ。頭の中がめちゃくちゃで……結界も、だめみたいで……」
「……いま、行く」
ジェラベルドはラウラを下ろし、風に抗って足を踏み出した。
ただの風ではない。トートを守る二本線の
「来ちゃだめです、お師匠様!」
トートが声を震わせた。
「僕の魔法が全部暴走してるんです! 僕は、お師匠様を傷つけたくありません!」
風がますます強まり、ついにジェラベルドは立っていられず膝をついた。それでも、歯を食いしばって地べたを這った。いまジェラベルドは、単なる責任感とは別の思いで動いている。
「来ないでください! 来るなぁっ!」
もう一歩で手が届くかというところで、トートが後ずさった。
空が光った。トートの身体から、赤黒い煙が立ち上る。それはハーン邸の屋根よりも高く盛り上がって、やがて歪な動物の姿に化けた。
ジェラベルドにはそれが何なのか、すぐに分かった。
――赤竜って、やっぱり赤いんですか?
――赤い。
――大きいんですか?
――大きい。
――角とか翼とか、生えてるんですか?
――生えている。
「ああ……ああ……」
トートは力なく地面にへたり込み、自分の魔力が生み出した怪物を呆然と見上げている。
ジェラベルドの下手な説明を基にしてトートが創り上げた赤竜は、本物とはかなり異なった姿をしていた。翼の生えた怪物には鱗がなく、代わりにふさふさと毛が生えていた。蜥蜴よりもむしろ牛か馬に似ているのに、その四肢には鋭い爪が三本ずつ生えているのだけは本物の赤竜と同じだ。
風が少しだけやわらいだ。トートの赤竜は、ジェラベルドに黒い目玉をぎょろりと向けている。
「トート、ひとつ言い忘れていたが……」
ジェラベルドはトートへ微笑みを向け、腰に帯びていた剣を地面へ放り投げて立ち上がった。
たとえ怪物でも、トートが作ったものだ。斬ることはできない。
赤竜が後肢で立ち上がり、ジェラベルド目がけて爪を振り下ろす。
「……赤竜の目は、金色だ」
「おとーさん!」
ラウラの悲鳴だけが、妙にはっきりと聞こえた。
赤竜の爪がジェラベルドの肩に届く。血が垂直に噴き上がった。
「トート、やめて! ラウラのおとーさんがほしいなら、トートにあげるから!」
赤竜の動きが、一瞬だけ鈍った。
ジェラベルドの手はトートの手を引き寄せていた。赤竜は、ジェラベルドの身体を切り裂く前に霧となって消えた。
風が止んで、雲が晴れていく。
「おとーさん!」
ラウラか、トートか、どちらの声だろう。ジェラベルドはトートを抱きしめたまま、地面に仰向けになって倒れた。
「お師匠様、ごめんなさい……」
トートが胸にすがって泣いている。傷ついた右腕をどうにか持ち上げ、ジェラベルドはトートの背中を撫でた。
「……親子喧嘩が、できたな、トート」
傷口から疲労がどっと流れ込んでくる。朦朧とする意識の中で、痛みさえもうやむやだ。どうやら出血が多すぎるらしい。
それでもやせ我慢をして笑った。トートが顔をくしゃくしゃにしてわんわん泣くのを見つめながら、ジェラベルドはゆっくりと瞼を閉じた。
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