初弟子・5

 シノが夜更けにジェラベルドの寝室を訪れたとき、ジェラベルドは机に向かって書き物をしていた。

「ラウラは寝たぞ」

「悪いな、シノ」

 ジェラベルドが短い礼を言うと、シノも「いや」と短く答えた。

 風呂上がりのシノは、濡れた髪を綿布で拭いながら入ってきた。濃紫の生地に金糸で蔦模様の刺繍が入った派手な寝間着は、おそらくトートの亡き母ペルルのものだろう。長身のシノには寸足らずで、足首が丸見えだった。

「これはまた、大きなベッドだな」

 シノは部屋の奥にあるベッドへ目をやった。大人が三、四人は寝られるくらい広大で豪華なベッドだ。

 トートの父ソーラスは、愛妻家で子煩悩だった。かつてトートは両親とともに、この特注品のベッドで寝ていたはずだ。しかし六年前に両親が事故死してからは、トートは一度も使っていないという。

「こんなベッドで一人寝とは。気の毒だな、ジェラベルド」

「ああ、まったくだ」

 ジェラベルドは深いため息をついた。

 本当は今日から、ラウラと一緒に寝られるはずだった。ところがラウラが「きょうはシノちゃんといっしょにねるのー!」と言って聞かないので、ジェラベルドはひとり寂しく寝ることになった。

 ラウラはひとりでは眠れないくせに、臆病者の父親と一緒は嫌らしい。シノが意外と子ども好きなのはありがたかった。ラウラもよくシノになついている。

「まさか、ラウラに、これほど反対されるとは……」

「よほど赤竜討伐団の『おとーさん』が大好きなのだろう。……しかし、お前が王城事務官を目指しているとは、私にも意外だったな。お前なら、金持ちに剣を教えていればいくらでも生計を立てていけそうなものたが」

「貴族が雇うのは、貴族の剣士だけだ。身分の低い俺を、自分の子どもに近づけはしない」

「そういうものか?」とシノは首を傾げた。シノも上流貴族の娘だからか、少し世間知らずなところがある。

「それに、俺に教えられるのは、トートだけだ。こんな説明下手な師匠、よそではすぐくびになる」

「確かに」シノが鼻で笑う。「ところで、さっきから何を書いているのだ?」

「これは『ハーン博士』からの宿題だ」

 魔法は言葉を扱うが、ジェラベルドは自分の考えを言葉で表現するのが下手だ。だからまずは作文の練習から始めましょう、とハーン博士――トートは言った。

「題目は『自分の師匠に教わったことで、一番心に残っていること』だが、……見ての通りだ」

 机の上には、くしゃくしゃに丸められた反古ほごの山が積み上がっている。シノがそのひとつを手に取って広げると、左手で書かれた不揃いな文字が並んでいた。

「『剣士たるもの、うんめいを、ようにせよ』?」

 ジェラベルドは子どもの頃に十分な教育を受けていない。だから大人になったいまでも、文章どころか文字も満足に書けない。数字と表音文字のサナティ文字は全部書けるが、綴りはしょっちゅう間違えるし、表意文字の古代ヨハ文字に至っては、片手で数えられるくらいしか知らない。

「『剣士たるもの、運命を見誤らぬようにせよ』、師匠の言葉だ。いろんな意味に取れるんだろうが……」

 ジェラベルドは少年の頃の記憶を辿った。

 師匠は言った。運命には二種類ある。神がさだめたものと、人がさだめたものだ。前者は変えられないが、後者は努力次第で変えられることもある。それなのに人は往々にして、これが自分の運命なのだと諦めて、何もせずに不遇な人生を受け入れてしまう。

「俺が貧乏な家に生まれたのは、神がさだめた運命だ。だが貧乏なまま生きることまでさだめられたわけではないと、師匠は言った」

 その言葉を励みに、ジェラベルドは厳しい剣術の修行に耐え抜き、赤竜討伐団に合格して副団長にまで昇進した。貧乏人の子が、いまや王都の英雄である。ジェラベルドは剣によって己が運命を切り拓いてきたのだ。裕福とまではいかないが、少しは親きょうだいを楽にしてやることができたし、妻子を養うには十分な稼ぎだった。

 討伐団を辞めて王城事務官を目指そうと決めたのも、歳をとってもラウラを養えるようにするためだ。しかし本当はラウラの言う通り、赤竜から逃げ出したかっただけかもしれない。

「俺は、臆病者だ。たとえ傷が治っても、もう赤竜とは戦いたくない。……すまん」

「恥じることはない」

 シノはさらりと言ってくれた。

「お前が剣の達人だからといって、戦い続けるのがお前の運命ではないだろう? 赤竜と戦わなくても、お前はお前だ」

「シノ……」

 シノがジェラベルドの右頬にそっと触れる。年甲斐もなく胸が高鳴った。二人の視線が重なる。シノは二十年前と少しも変わらず美しい。見つめ合うと、黒曜石のごときシノの瞳に吸い込まれてしまいそうになる。

 ……と思いきや、シノが見つめていたのはジェラベルドの瞳ではなかった。

「ジェラベルド、膏薬が剥がれかかっているぞ。新しいものと取り替えよう」

「う、うむ、頼んだ」

 確かに、ジェラベルドはシノと恋仲になったことはない。だが、かつてジェラベルドはシノに恋をしたことがあった。

「私はそろそろ寝る。宿題頑張れよ」

 シノは膏薬を貼り替えると、さっさと自分の部屋に帰っていった。

 新しい膏薬が、ひんやりと傷に沁みる。

 ジェラベルドがシノに恋していたのは、まだ二十歳かそこらの頃だ。その後三十三歳のとき別の女性を愛して結婚し、シノのことは純粋に良き相棒と思えるようになった。しかし妻を失って四年が経ったいま、昔の思いがジェラベルドの胸の奥でおきのようにかすかな熱を訴えていた。

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