過去・1 刺青
刺青・1
過去・1 刺青
四十年前、ジェラベルド・バルナランドは、王都サナティアの西方・シヴァーク地区にて、十人兄弟の次男として生まれた。
ヴェスティオ王国で名字を持つのは、王家と歴代の王に所領を家名を授けられた貴族の血筋だけである。バルナランド家は、もとはサナティア中心街に住まう中流貴族であったが、高祖父の代に赤竜の襲撃で大きな損害を受け、代々の所領を手放して没落した。
高祖父はいずれ所領を買い戻すつもりだったらしいが結局それは叶わず、曾祖父の代にやむなく田園風景の広がるシヴァーク地区へ移り住んだという。いまではその名前以外に、バルナランド家が貴族だったことを示すものは何もない。実態は単なる農家だし、ジェラベルドもそう思っている。
幼くして命を落とす子どもが何ら珍しくない貧しい農村で、バルナランド家の十人きょうだいは奇跡的に全員が成人している。子どもが多いぶん生活はかなり厳しく、幼い頃のジェラベルドはいつも腹を空かせていた。弟妹よりも欲張ってたくさん食べようとすると、いつも長兄のオーブリングに優しく
「仕方ないよ、ジェラビー。僕らは我慢しよう」
ジェラベルドが無口で忍耐強い性格に育ったのは兄のおかげかもしれない。ただ、満足に食べてもいないのにどんどん背が伸びてしまったのは、実に不思議なことだ。
当然ながら、子どもたちに家庭教師を雇う金はなかった。ただ母方の伯父が元近衛兵団の剣豪で、隠居生活の暇つぶしにと無償で剣を教えてくれた。
厳しい伯父の指導についていけたのは、四人いる男きょうだいの中でジェラベルドだけだった。十歳で剣を習い始めると、十四で師匠の背を追い越し、十八になると師匠にまったく負けなくなっていた。
己の剣才を生かして貧しい親きょうだいを養おうと決心したジェラベルドは、二十歳のとき赤竜討伐団の入団試験を受けるべくサナティア城外郭の練兵場へと向かった。
ちなみにジェラベルドが赤竜討伐団を選んだことと、先祖が赤竜のせいで没落したこととの間には何の関係もない。近衛兵団は高位の貴族でないと入れないし、王国軍の兵士と比べると赤竜討伐団のほうがいくらか給金がよかったからだ。命がけで赤竜と戦う危険な仕事だったが、家族を養えるなら何でもよかった。それに、軍や近衛兵団に入ると、紛争の絶えない隣国に援軍として派遣される可能性もある。赤竜ならともかく、人間相手に真剣を振るうのは
ともかく、ジェラベルドは赤竜討伐団を志願した。
はじめて訪れたサナティア城の威容は、田舎者のジェラベルドを圧倒した。外郭はシヴァークの集落ごと囲えそうなほど大きく、さらに城は内郭といくつもの塔に囲まれている。どこからこれほどたくさんの石を運んできたのだろうか。
普段は兵士の訓練に使われている練兵場だけでも、かなりの広さだった。赤竜討伐団の営舎もすぐ傍にある。ジェラベルドは、これが全部麦畑だったら食うに困らないだろうな、などといかにも農民じみたことを考えた。
黄色い砂が敷き詰められた楕円形の練兵場を見下ろすように、三階建ての客席が取り囲んでいる。祭りの日には大勢の観衆で埋まるその場所に、今日は腕自慢の志願者たちが自分の出番を待っていた。見渡す限り大柄なやつらばかりだが、ジェラベルドより長身の男はひとりもいなかった。
試験は志願者同士で剣の試合をして戦績上位の百名が合格という、ごく単純なルールだった。ジェラベルドは十人ほどを軽く負かした後、ついにその人物と対峙した。
女だ。
十八歳のシノ・フィングレイに対する第一印象はそれだけだった。試合に集中するあまり、彼女の顔さえまともに見ていなかった。
試合開始の号令とともに、シノは一気に飛び込んできた。女とは思えぬほど重くて速く、正確な剣撃に驚かされる。左腰への初撃を弾いても、間髪入れずに打ってくる。どうにか凌いでジェラベルドが反撃に出る。シノが応じる。激しい打ち合いになった。
シノと目が合った。笑っていた。ジェラベルドも自分の口元が緩んでいるのに気づく。お互い、好敵手の登場に興奮していた。
「
審判が制止したとき、二人は大勢の野次馬に囲まれていた。両者とも見事な剣技を認められ、特例としてこの時点での合格が認められることになった。
シノが優雅に一礼した。ジェラベルドも慌ててそれに倣う。顔を上げたとき、ようやくシノの顔を認識した。
美人だ。
涼やかな黒い瞳と、つんと尖った鼻は大人びて知的だが、ふっくらした唇と柔らかな輪郭は幼げだった。艶のある黒髪は、顎までの長さでまっすぐ切り揃えられている。背は大柄なジェラベルドの肩まであるので、女にしてはかなり長身だ。
「待ってくれ。お前、強いな」
本来ジェラベルドは美人が苦手だ。だがシノとは激しく剣を交えたことで、すっかり心が通じ合った気になっていた。気安くシノを引き止めたら、彼女は面倒臭そうに振り返った。それだけで急に心が挫けそうになって、差し出した右手が震えた。
「ジェ……ジェラベルド・バルナランドだ。これから、ともに戦うんだろう。よろしく頼む」
どうにか名乗ると、「ああ」とシノは呆けたような声を発した。
「私はシノ・フィングレイだ。こちらこそよろしく。お前はいいやつだな」
シノは無表情だったが、手は握り返してくれた。名字を持っているということは、ジェラベルドと同じ没落貴族の家系だろうか。
「私は今日三十五人と対戦したが、試合後にちゃんと名乗ったのも、『女のくせに何で強いんだ』と聞いてこなかったのも、お前だけだ」
ジェラベルドは驚いた。シノは三十五人も相手した後で、なおあれほど戦えたのだ。もっと試合が続いていたら、そのうち負けていただろう。
「女が男より強いからには、何か秘密でもなければ気がすまないらしい」シノは淡々と語る。「まあ当然だな。普通なら、私のような小娘が大の男に勝てるわけがない」
「秘密があるのか?」
ジェラベルドが尋ねると、シノは自らの平たい胸に手を置いた。
「実はここに、魔法陣の
魔法陣とは、魔道士が魔法を発動するときに呪文を唱えながら描く紋様だ。ジェラベルドにはその程度の知識しかない。
シノは大人の男以上の強さを得るために、心臓の真上に呪文と魔法陣を組み合わせた刺青を入れたという。
「痛くないのか」
「とんでもなく痛かったぞ。思わず声を上げてしまった」
シノは真顔で言った。
ジェラベルドは「そうか」と答えたきり黙り込んだ。シノは立ち去るかに見えたが、二、三歩行ったところで不意に振り返った。
「おい……まさかお前、今の話を信じたのか?」
「う……嘘なのか?」
「さあ、どうかな」
「お、俺は、嘘は好かん」
そのとき初めて、シノが無邪気に笑った。
「信じてくれたのもお前だけだ。やっぱりお前はいいやつだな、ジェラベルド」
シノはひらひらと手を振って立ち去って行った。どうも馬鹿にされたような気がする。
この美しい少女が、つつましい胸のふくらみを彫師の前にさらけ出したのだろうか。刺青の激痛に、たまらず喘いだのだろうか。
「嘘か本当か、結局どっちなんだ……」
いずれにせよ、ジェラベルドは自らの脳裏によぎった妄想について、深く恥じねばならなかった。
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