剣士と赤竜

泡野瑤子

序章

序章


 ――重い。

 赤竜討伐団せきりゅうとうばつだん副団長ジェラベルド・バルナランドにとって、それは初めての感覚だった。

 確かに、赤竜と戦うための装備は重い。踏竜靴シュピクートはぬめりの強い赤竜の皮膚を駆け上がるための長靴で、靴底に鉄製の棘がいくつもついている。背中の鞄には、滑空翅ヴィンシューテが折り畳まれて収納されている。赤竜の頭から飛び降りる際の衝撃を和らげるために、甲虫のはねを模した幕に浮遊魔法を施した道具だ。骨組にも翅にも極力軽量な素材が選ばれているとはいえ、幼子をひとり背負ったまま戦うようなものだ。言わずもがな、片刃の愛剣もかなりの重量である。

 だが二十歳で討伐団に入ってから二十年間、変わらず強靭な膂力りょりょくを保ち続けているジェラベルドにとって、それらはほとんど身体の一部と言ってよいはずだった。この幕舎にいる団員たちにとっても、みな同じだろう。王都サナティアの守護者たる誇りを胸に、日々厳しい訓練を耐え抜いてきた精鋭たちだ。

「どうかなさいましたか、副団長?」

「いや……」

 若い部下に声をかけられたとき、ジェラベルドはどう言葉にすればよいものか分からなかった。この感覚の出どころがよく分からない。「重い」とは感じるが、ただ「重い」だけではない気がする。いずれにせよ、ほんの些細な違和感だ。結局「何でもない」と返事をした。

「シノ団長が、先ほど三小隊を率いて出撃しました」

 ジェラベルドは頷いた。ここから目と鼻の先にある集落で、赤竜が暴れ回っている。すでに住民が犠牲になっているようだ。これ以上の被害は食い止めなければならない。

「俺たちも出るぞ。――続け!」

 八人の団員を連れて急造の野営地を出たとき、ふと見上げた空は高く澄んでいた。赤竜討伐団の雄姿に、避難してきた住民たちがわあっと歓声を上げる。彼らは王城周辺に住む貴族たちとは違う、粗末な服を着た人々だ。黒ずんだ顔で切実な眼差しを向けてくる子どもに、ジェラベルドはかつての自分を見た気がした。

「ジェラベルドさまあ! うちのばあさまのかたきを取ってくだされ!」

 ひとりの老爺が涙ながらにすがりついてくる。赤竜に平穏な生活を乱された人々を見るのは、いつまで経っても慣れない。ジェラベルドは節くれだった手を強く握り返し、「必ず」とだけ答えた。

 集落の中心部へと歩を進めるにしたがって、赤竜の咆哮が大きく聞こえてくる。林を回り込むとついにその姿が見えた。

 ここサナティアでは、天災は赤い竜の姿をしていた。

 赤竜は鋭い角と両手に生えた三本爪を振り回し、取りつこうとする討伐団の仲間たちを威嚇している。無数のイボと鱗に覆われたからだは禍々しく赤い。その巨大さたるや、両の翼は早春の日をかげらせ、頭は物見櫓ものみやぐらを見下ろすほどだ。顔は蜥蜴とかげに似ているが、ずっと醜い。口元からは薄汚れた茶色の牙がはみ出し、赤黒い舌はそれ自体意思を持った別の生き物のようにぐねぐねと動いていた。瞳孔のない金色の瞳は見開かれ、足元にいる黒髪の女剣士を睨んでいる。赤竜討伐団団長でジェラベルドの相棒、シノ・フィングレイである。

「シノ!」

「お前が登れ」

 シノは低く答えた。二十年来の相棒とのやり取りは短い。ジェラベルドはシノの意を汲んで赤竜の背後に回った。距離を注意深く縮め、赤竜がのそりと後ろ脚を持ち上げると素早く退く。隙を狙って、感覚の鈍い尾の付け根から頭まで駆け上がるつもりだった。赤竜の弱点は、その眉間にある頭蓋骨の空隙くうげきである。シノやほかの団員たちは、赤竜の胴体に斬りつけては退いて、注意を引きつけていた。

 好機と見てジェラベルドが踏み寄ったとき、何を思ったか急に赤竜もぐるりと向きを変えた。ずしんと地面が揺れ、尾に打たれた煉瓦造りの民家があっけなく崩落する。赤竜の目はジェラベルドを捉え、逆にシノたちが死角に入った。役割は臨機応変に入れ替わる。今度はジェラベルドが、シノを赤竜の頭上に登らせるべくおとり役を引き受けた。

 赤竜が大きく首を巡らせてえた。その爪がジェラベルド目がけて振り下ろされる。シノが赤竜に飛びつき、一気に背骨の上を駆け登る。囮作戦は成功だ。あとはジェラベルドが、ぎりぎりのところで回避しさえすればよかった。

 ――重い。

 ほんの刹那の遅れが生じた。

 斬られたとは思わなかった。目の前の空気が、いきなり炸裂したように感じただけだ。

「副団長!」「副団長!」「副団長が!」

 ジェラベルドは、口々に叫ぶ仲間たちの悲鳴を他人事のように聞いた。

 身体がいやに濡れているな。雨だろうか、こんなに晴れているのに――。

 それがおのれの血だとは気づかぬままに、ジェラベルドの意識は暗黒の中へ落ちた。

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