第1章 初弟子

初弟子・1

第1章 初弟子


 俺の初弟子は、なかなか筋がいい。

 ジェラベルドは右頬の膏薬こうやくに触らぬように、左手で無精髭ぶしょうひげの伸びた顎を撫でた。

 ヴェスティオ王国の首都サナティアの中心部では、王城を取り囲むように有力貴族が揃って居を構えている。稀代の大魔道士たるハーン博士の屋敷は、その中でも指折りの豪邸である。

 王城とその周辺は、ハーン博士の「結界魔法」によって守られ、赤竜が襲来する心配がない。春の暖かな日差しの下、広い芝生の庭にはほのかに若草の芳香が立ち込めて実に心地よい。それなのにジェラベルドがむっつりしているのは、笑うと右頬の傷が痛むせいだった。

 傷は右頬から始まって首筋を伝い、せた紺の上衣の中へ潜り込む。服の下では右肩、右胸を通ってへその下に至るまで、ジェラベルドの屈強な筋肉に痕を残していた。右腕は、怪我からひと月が経ってなお三角巾で吊るされたままだ。利き手が不自由だから、整髪も髭剃りも怠けている。その結果、栗色の髪は目が隠れるほどぼさぼさで、無精髭は伸び放題だ。さしずめ世を捨てたさすらい人の風体である。

 この男が、誉れ高き王のしもべ、赤竜討伐団副団長ジェラベルド・バルナランドだとは、よもや誰も気づくまい。いまはこんな身なりでも、王都の守護者として英雄視されている男である。

 さて、いまジェラベルドの視線の先には、黒い肌の少年がいる。

 彼はこの家の子で、名前をトートという。トートの背丈は、大柄なジェラベルドの腰にもまだ届かない。茶色のローブをまとい、細い両腕で木製の杖を一心不乱に振っている。

 魔法を習いたての子どもはよくこういう格好をするものだが、トートは違う。ジェラベルドがトートに教えているのは、魔法ではなく剣技であった。

 トートの亡父と友人だった縁で、ジェラベルドは今日から傷が癒えるまでしばらくの間、トートの剣の師匠として雇われることになった。剣技の指導は赤竜討伐団でも度々行ってきたが、個人的に弟子を取るのは四十年の人生で初めてのことだ。

 稽古の時間は、毎朝王と王のしもべが仕事を始める「御用始め時」から、太陽が南中する「昼餉時」まで。労働時間は赤竜討伐団の半分もないが、報酬額はずっと高い。そのうえ住み込みで三食付きだ。怪我で療養を余儀なくされているジェラベルドにとっては、願ってもない好待遇だった。

 まずジェラベルドは、トートに剣士の心構えを諭し、基本の構えや足さばきをいくつか教えた。トートは謙虚な態度で耳を傾けた。稽古の仕上げに百回の素振りを命じたところ、五十回を過ぎてもトートの構えはほとんど乱れなかった。重い両手剣の代わりに軽い木製の杖を使っているとはいえ、初心者にしては上出来だ。このまま真剣に取り組めば、将来は立派な剣士になれるかもしれない。未来ある少年の姿に、ジェラベルドはかすかな羨望を覚えていた。

「……やめ。今日はここまでだ」

「はーい! ああ、くたびれた!」

 ちょうど「昼餉時ひるげどき」を報せる王城の鐘が鳴り、トートは解放感から芝生の上に身体を投げ出した。「さっき教えた『師匠への礼儀』はどうした」とジェラベルドがたしなめると、慌てて杖を拾う。

「ありがとうございました」

 跳ね起きたトートが照れ笑いを浮かべると、白い歯が爽やかに映える。その笑顔は亡き友の面影を存分に宿していた。

 ジェラベルドは胸がいっぱいになって言葉を失った。褒め言葉が出ない代わりに、左手でトートの頭を撫でてやる。硬くて癖の強い黒髪が、まるで蔦が巻きつく枝を探すように方々へ伸びている。いずれ剣士の身だしなみについても教える必要がありそうだ。――いまのジェラベルドには、とうてい言えた義理ではないが。

「お師匠様、そろそろ昼食にいたしましょう。お師匠様をお招きする最初の食事ですから、朝からうちの料理長が張り切っておりました」

 トートは空色の瞳をきらきら輝かせながら駆け出した。弱冠九歳とは思えぬほど利発だ。彼がひょいと杖を振ると、重たげな扉が触れてもいないのに開いた。たぶん魔法なのだろうが、ジェラベルドにはその方面の知識がまったくなかった。

「『師匠への礼儀』ですよね、お師匠様。お先にどうぞ」

「うむ……」

 言うことがなかった。トートは剣筋のみならず、物覚えも良い。

「ところでお師匠様、お子様はいつこちらへいらっしゃるのですか?」

 長い大理石の廊下を歩きながら、トートが尋ねた。

 ジェラベルドには、ラウラという七歳になる一人娘がいる。妻は四年前に流行病で亡くなったので、二人きりの家族だ。

「お子様と離れ離れにはいたしません」とトートが気遣ってくれたので(そう言う彼自身、まごうことなき「お子様」だが)、ジェラベルドが雇われている間、二人一緒にハーン邸に住めることになっている。

「ラウラは、いまシノの家に預けている。シノの仕事が終わり次第、『夕餉時ゆうげどき』までにはここへ娘を連れてきてくれる約束だ」

 可愛い娘の顔を思い描くと、つい頬が緩みそうになる。

 ジェラベルドはずっとラウラと離れ離れだった。赤竜との戦いで重傷を負った後、二十日以上もサナティア城内の兵士病棟で療養生活を強いられていたせいだ。帰宅が許された後も右腕が不自由なので、ラウラは赤竜討伐団の相棒であるシノの家に預かってもらっていた。いよいよ今日からは、この家で一緒に暮らせるのだ。

「シノさんって……もしかして、赤竜討伐団のシノ・フィングレイ団長が来てくださるんですか?」

「そうだ。今日はここに泊まれると言っていたから、悪いが夕食と部屋を用意してやってくれないか」

「お安い御用です! シノさんも、お師匠様やラウラちゃんと同じお部屋でいいですよね? 両親が使っていたベッドはとても大きいので、三人でも十分に寝られますよ」

「いや、できればシノとは部屋を分けてほしい」

「えっ? でも、シノ団長はお師匠様の……」

 トートが言葉を濁したのを見て、ジェラベルドは言わんとするところを察した。

「俺とシノは、そういう仲ではない」

「あれっ、そうだったんですね。僕はてっきり……大変失礼いたしました」

「謝らなくていい。シノとはもう二十年の付き合いだからな、よく間違われるんだ」

 屈託ない態度で説明をするのにも、もうとっくに慣れていた。

 案内された食堂は、昔亡き友に招かれた大食堂ではなかった。その部屋は意外にも小ぢんまりしていて、四人がけのテーブルがひとつあるだけだった。トートによると、ここはかつて家族が食事していた部屋で、大食堂はもう大勢の客を招くときにしか使わないらしい。

「いいのか」

「何がです?」

「俺が、ここで飯を食って」

 トートは笑った。

「もちろんですよ。むしろありがたいくらいです。両親が亡くなってから、いつも食事は独りきりでしたから」

「そうか……」

 トートはこの家の子だが、実は当主でもある。ジェラベルドに剣術指南を依頼してきたのも彼自身だ。トートの両親は、六年前に旅行中の事故で亡くなっている。ほかに血縁はおらず、彼は天涯孤独だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る