外伝

外伝・海へ

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二十年前


 赤い双翼が、夏の夕空に侵し入った。

 ヴェスティオ王国の都サナティアに、赤竜襲来を報せる早鐘が慌ただしく鳴り響く。当時二十歳だったジェラベルド・バルナランドは、赤竜討伐団の一員として郊外の襲撃地点へと急行した。

 赤竜は居並ぶ家々を角と翼でなぎ倒しながら降り立ち、通りのど真ん中をその禍々しい色の巨体で塞いでいた。ほかの獣たちのように、腹を空かせて山から下りてくるのではない。瞳孔を持たない金色の瞳は、明らかに人間に対する敵意でぎらついていた。

 赤竜がおぞましい声で雄叫びを上げると、逃げ惑う人々の恐慌はさらに募る。ジェラベルドは討伐団の仲間たちに住民の避難を任せ、自分は赤竜に向かって片刃の愛剣を構えた。

 ――俺を見ろ。

 ジェラベルドは赤竜の懐に飛び込んで、その右脚に斬りつけた。イボがはじけて、墨のような血が散った。硬い鱗に阻まれて大した傷を与えることはできないが、赤竜の気を引くには十分だ。狙い通り、赤竜は苛立って地団駄を踏んでいる。躍起になって長い尾をぶん回し、鋭い爪を繰り出すが空を掴むばかりだ。ジェラベルドはその巨躯に似合わず機敏で、赤竜の攻撃を難なくかわし続けていた。

「どうした、赤竜!」

 挑発の言葉を解したのか、いよいよ赤竜は怒り狂って醜く吼え、ジェラベルド目がけて両の爪を振り下ろす。

 ジェラベルドは赤竜を見据えたまま動かなかった。

 ――来い!

 赤竜の頭上で影が躍った。鈍い音が響き、赤竜の首がぐらりと横ざまに傾ぐ。断末魔の悲鳴と降り注ぐ血飛沫を浴びて、ジェラベルドの口元が緩んだ。

 赤竜が倒れて地面が揺れると、仲間たちが一斉に歓声を上げた。

「上手くいったな、シノ」

 土煙の中から、赤竜を仕留めた相棒の姿が現れた。シノ・フィングレイは赤竜討伐団唯一の女剣士である。背だけは男並みに高いが、知的で美しい顔立ちと細身の体は男むさい討伐団の中にあって異彩を放っていた。

「どうにか成功したが、危なかった」

 シノは涼しい顔で答えた。

「一人が赤竜の気を引いているうちに、もう一人が弱点の頭頂部まで登る作戦自体は悪くなさそうだ。しかし赤竜の背は想像以上にぬめりが強くて、滑りやすかった。支給品の靴を改良する必要があるな」

「そうだな」ジェラベルドは頷いた。「万が一落ちても、怪我をしなくてすむような道具もあればなお良い」

「お二人さん!」

 仲間たちが声をかけてくる。

「今日の勝利の立役者に、一杯おごらせてもらえないかな?」

「せっかくだが、遠慮する」

 シノはにべもなく言った。

「今日はジェラベルドの家に泊まるのだ。ジェラベルド、今夜は寝かせないから覚悟しろ」

「お、おい……」

 ジェラベルドは頬を赤らめながら、すたすたと立ち去るシノの後を追った。その背に、仲間たちのはやし立てる声が突き刺さる。

 シノとは仲間たちが想像しているようなことをして夜を明かすのではない。そもそも、ジェラベルドの部屋で二人きりになるわけでもないのだ。

「シノちゃんだよね? 初めましてぇ! 僕、ソーラス・ハーン。魔法の研究やってまあす。よろしく!」

 先に部屋で待たせていた黒い肌の友人が、まん丸い顔に白い歯を輝かせて笑う。ソーラスは、ジェラベルドの少年時代からの親友だった。しまりのない身体つきと言葉遣いからは想像できないが、これでも国内有数の上流貴族で、高名な魔道士なのだ。

「さあさシノちゃん、むさ苦しいところだけど、上がって」

「ここは俺の部屋なんだが……」

 ソーラスを呼んだのは、赤竜と戦うための必要装備について、魔道士の立場から助言してもらうためだ。大男二人と長身のシノが入ると、ただでさえ狭い部屋がぎゅっと縮まったように思えた。

 ソーラスはシノの説明を聞いてふむふむと頷いた。

「靴は滑り止めの棘を付ければいいとして、落ちた時の備え、ねえ」

「浮遊魔法を刻印した道具を身に着けていれば、宙に浮くのではないか?」

「うん。でも、込める魔力は最小限にしたほうがいいね。魔法具っていうのは案外持ち主の体に負担をかけるものなんだ。魔力に頼らずとも、空気の力である程度浮くような形状がいいな……」

 シノとソーラスの話は、無学なジェラベルドには難しかった。もとより口数が少ないだけに、じっと黙って話を聞いているだけになり、そのうち話についていけなくなり、そして――

「ジェラベルド!」

 シノに一喝されて目を覚ました。

「すまん、つい眠気が……」

 ソーラスは気にも留めずあははと笑った。

「無理もないよ、さっきまで命がけで赤竜と戦ってたんだからさ。休憩しよう。難しい話はいったん置いといて、シノちゃんの話でも聞かせてもらおう」

「いいぞ。何が聞きたい」

「趣味とか、好きな食べ物とか、どこか行ってみたいところとか」

 こっそりジェラベルドに目配せをしながら、ソーラスは言う。奥手な友人のために助け舟を出してくれているつもりらしかった。余計なお世話としか言いようがないが、確かにシノの私的な話は聞いたことがなかった。

「一番の趣味は剣術だが、裁縫も好きだな。最近では討伐団の制服を繕うくらいしかしていないが」

「裁縫するのか、お前が?」

 ジェラベルドは思わず声を上げた。

「なぜだ? 着たい服を自分で作れて便利だぞ。好きな食べ物は、ジェラベルドとよく行く食堂のミートパイかな。生地がしっとりしていて実に旨い」

 生地がべちょっとしていて実に不味いやつだ、とジェラベルドは思ったが黙った。シノの味覚は独特なのだ。

「行ってみたいところは……」

 シノはそこで言葉を切った。それまで楽しそうに輝いていた瞳が、わずかに曇る。

「子どものころは、海に行ってみたかった」

 ヴェスティオ王国は内陸国だ。この国の人々にとって、海とは本の中にだけ存在する夢の国と何ら変わらない。おとぎ話で読んだ青い海への憧れを語るシノの横顔は年相応にあどけなくて、ジェラベルドの胸を密かに高鳴らせた。

「……でも、いまとなっては無理だな」

「どうして? 僕がいつでも連れて行ってあげるよ、ジェラベルドと三人でさ。南のシャムシーンにうちの別荘があるんだ。真っ白な砂浜がすごくきれいだよ」

 ソーラスが言うが、シノは首を振った。

「いまの討伐団でまともに赤竜と戦えるのは、私とジェラベルドだけだ。赤竜はいつやってくるか分からないのだから、何日もサナティアを離れることはできない」

 この頃の赤竜討伐団は、大人数で赤竜を包囲して剣を振り回すだけの集団で、それゆえに撃破までに時間がかかり、殉職者が出ることも多かった。ジェラベルドとシノが入団したことで状況は好転したものの、組織的な戦闘力が高まったとは言えない。

「難儀だねえ。討伐団になんか入らなければ、海を見に行けたのに」

「いつか私たち抜きでも赤竜に対抗できるようになれば、どこへでも旅行できるようになるだろう。なあ、ジェラベルド」

「うん? まあ……そうだな」

 旅行なんて、貧しい没落貴族出身のジェラベルドには思いつきもしないことだった。本当にそんな未来が訪れるのだろうか。シノやソーラスと、隣国の大海原を目の当たりにする瞬間が、いつか来るのだろうか。

「急に目が冴えてきた」

 ジェラベルドが呟くと、ソーラスに強く背を叩かれた。

「それじゃあ、頑張って赤竜討伐団を盛り上げなきゃねえ」

「そのために今日お前に来てもらったのだ、ソーラス。そろそろ本題に戻るぞ」

 その夜はシノが宣言した通り、朝まで話し合いが続いた。


***


 四人がシャムシーンの砂浜に到着したとき、娘のラウラが一番に「うみー!」と両手を上げて走り出した。

「足元に気を付けないと危ないぞ」とジェラベルドが注意した途端に転び、顔を白い砂に突っ込んでいる。泣き出すかと思ったが、砂まみれの顔を向けて「おとーさんもはやくー!」と至極上機嫌だ。

「ラウラちゃん、楽しそうで何よりですね」

 トート少年が手をかざして笑う。やせっぽちで小柄な体型以外は父親のソーラスにそっくりだ。

「何を考えていらっしゃるんですか、お師匠様?」

「うむ……」

 ジェラベルドは、はるか水平線の彼方を見ていた。

「ここに来るまで色々あったな、と思ってな」

「分かります。大人には、物思いにふける時間が必要ですよね」

 トートは妙にませたことを言って、ラウラと一緒に砂浜に駆け出して行く。残された大人は苦笑した。

 本当に、色々なことがあった。

 この二十年、ジェラベルドはシノとともに、赤竜討伐団の戦闘力と地位向上に努めてきた。シノとの縁談が持ち上がったこともあったが、結婚には至らなかった。シノは討伐団の団長に、ジェラベルドは副団長に任命された。赤竜は何度もサナティアを襲い、そのたびに撃退してきた。やがてソフィシアと出会って結婚し、ラウラが生まれ、そして流行病で妻を亡くした。

 ――ソーラス、来たぞ。

 ソーラスもまた、旅行中の事故で帰らぬ人となっていた。ジェラベルドは今年赤竜討伐団を辞め、トートに剣術を教えることになった。皆を別荘に連れてきてくれたのもトートだ。彼は弱冠九歳だが、父親の跡を継いで立派にハーン家の当主を務めている。

「これが海か」

 隣でシノが感慨深げに呟いた。王の補佐官に任じられてから初めての長い休暇を取り、この旅行に同行してくれた。ジェラベルドとシノがいなくても、赤竜討伐団は十分戦えるほど強くなったのだ。

「海だな」

 長年連れ添った相棒と交わした言葉は短く、無意味だった。寄せては返す波の音と、子どもたちのはしゃぐ声が遠くなっていく。

 海の青は、空のものとは違った。海は一面青くて、それでいてどこをとっても同じ青ではない。目に見えぬ力によって絶え間なく波打ち、太陽の光を複雑に反射して輝いている。

 ジェラベルドが見ている青と、シノが見ている青は違う色なのかもしれない。それでも確かに、二人は同じ海を見ていた。

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剣士と赤竜 泡野瑤子 @yokoawano

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