父と子・6

 サナティアの功労者たるフィングレイ卿の葬儀は、本来なら国葬として大規模に行われてもよかった。しかしフィングレイ卿の遺言によって、慎ましやかに執り行われたらしい。

 葬儀に参列したのは王と数人の貴族だけで、その中にジェラベルドは含まれていなかった。おそらくヘルデラルメの意向が強く反映されたのだろう。雲上人の中に混じりたいとは微塵も思わないが、結果的にラウラには嘘をついたことになってしまった。幼いなりに父親に気兼ねしているのか、ラウラがだだをこねることがなかったのは救いでもあり、また心苦しくもあった。

 葬儀の後も、シノは一向にハーン邸に現れなかった。

 ――シノは、どうしているだろうか。

 ジェラベルドは最愛の父を失ったシノを案じていた。昼食のときも、地下の書斎でトートに魔法を教わっていても、少し気を抜くとまた頭に浮かんでしまう。「雑念は禁物」なのは剣士も魔道士も同じだ。いまのジェラベルドは、そのどちらにもなれないただの中年男だった。

「全然身が入っていませんね、お師匠様」

 聡明なトートには、当然見抜かれた。おおよそ成功するようになっていた「トートの小箱」の解錠も、今日はまったく駄目だった。頭の中で明確に言葉を浮かべることができなければ、いかなる魔法も成功しないのだ。

「シノさんのことが、気にかかっているのですか?」

 ずばりと言われて、ジェラベルドは何と答えればいいのか迷った。いくらトートが賢くても、子どもに聞かせるような話ではない。と、トートが微笑みながら、ジェラベルドの額に手をかざした。

「よかったら、話してみてくれませんか。僕だってお師匠様の力になりたいんです。……それに、僕はあなたの師匠なんですよ。悩める弟子を導くのも僕の役目です」

 九歳の師匠が、四十歳の弟子を優しく見守る。頭の中がすっきりして、言うべき言葉が自然と浮かんでくる。この感覚には覚えがある――雄弁魔法だ。

「俺は……ずっと、シノのことを……大切に思っている」

 照れ隠しの笑みがこぼれた。いくら雄弁になったとて、言えるのはこれが精一杯だ。

「シノだけじゃない。お前は、俺の子どもじゃない。ラウラでさえ、血が繋がっていない。それでも、みんな大切なんだ。つまり……家族と同じだ。それとも、トート、ほかにちょうどいい言葉があるか?」

 トートはしばらく考えて、「ない、と思います」と首を振った。

「でも、言葉を考えたのが人間なら、言葉の意味を変えるのも人間です。血の繋がりがなくても、夫婦でなくても、お互いが望むなら家族と呼んでいいはずです」

「シノは、望んでいるだろうか」

「さあ、どうでしょう」

 トートは肩をすくめた。

「ご本人に直接お尋ねになってはいかがです?」

「う、うむ……」

 急に恥ずかしくなってきて、ジェラベルドは答えを拒んだ。ひとつ咳払いをした後で、机上の黒い小箱に向かって解錠魔法の練習を始める。「トートの箱」、開け。

 鍵穴のない小箱の蓋が、ぱかっと明るい音を立てて開いた。

「もう、お師匠様って、本当に……」

 トートが杖を振ると、床の上で無造作に放置されていた本たちが、翼を広げた鳥のようにばさばさと飛び立つ。埃が巻き上がって、ジェラベルドは咳き込んだ。

「こら、何をするんだ、トート」

 本たちは椅子に座ったジェラベルドの隣に次々と積みあがっていく。トートは靴を脱いで、その上に登った。

 トートの顔がジェラベルドよりも少し上にある。ジェラベルドが視線を上げると、いつも知的な青い瞳が、年相応にいたずらっぽくきらめいた。

「実は僕も、やってみたかったんですよね。『よしよし、悩める弟子よ!』って」

 小さな手が伸びてきて、ジェラベルドの頭を撫でる。不思議と心が安らいだ。十代の頃から周りの誰よりも背が高かったジェラベルドにとって、それは久しぶりの感覚だった。

 トートが本を動かしたせいで、書斎がいつもより広く感じた。長年本が積みっぱなしだったらしい床は色が違っていて、隠されていた紋様があらわになっている。

 ふと、ジェラベルドはその紋様に既視感を覚えた。大きさの違うたくさんの円と楕円、直線が連なって、重なり合ったふたつとない白い模様。ところどころに書き込まれた文字は、ソーラスの筆跡に似ている。

 ――これは、何だ? 俺はこれを、どこで見たんだ?

 毛虫のような模様だ、と思った瞬間、既視感の正体も明らかになった。

 結界塔シェルトヴェアの魔法陣だ。ホークダインが見せてくれた事故の調査報告書に載っていたのと同じものだ。ただ違うのは、その右上に同じく白い塗料で、ソーラスとは違う筆跡の短い文章が書き足されていることだった。

「お師匠様、何を見てるんです?」

 トートが本の上から降りて、そして、息を呑んだ。


 お父さん、お母さん、今度は僕も旅行に連れて行ってね。トート


 覚えたての文字を一生懸命書いたらしい、不慣れで愛くるしい筆跡は、調査報告書にあった赤い×印の位置とまったく同じ場所に書かれていた。

 ――魔法陣の形状や書き記す呪文に少しでも違いが生じると、力場が狂います。

 ――結界魔法は、魔法陣に少しの乱れもあってはならない。

 ホークダインの言葉が、ソーラスが本の中に書き残した一文が、赤竜襲来の鐘よりも重く響いた。

 事故から六年、聡明に成長したトートは、その魔法陣が何の効力を持つものなのか、これだけの落書きをすればどういう影響を及ぼすのか、――三歳の頃の自分がいったい何をしたのか、一目で分かってしまったようだった。

「これは……ニーリャの結界塔シェルトヴェアを制御していた魔法陣ですね。この位置に落書きをしたら、力場が狂って結界塔シェルトヴェアに大きな衝撃が加わったはずです。……もしかして、山上からの落石ではなかったんじゃありませんか? お師匠様はご存知だったんですか?」

 真実はあまりにも唐突に顔を出したが、驚くべきことに、トートは涙ひとつ流さず、なおも冷静さを保っていた。ジェラベルドのほうがよほど混乱していた。問いに答えることすらできず、ただ呆然とトートを見つめるほかなかった。

「……どうやら僕は、お師匠様の家族どころか、師匠にも、弟子にもなる資格がないみたいですね。だって僕がお師匠様のお友だちを、殺したんですから」

 ジェラベルドが我に返ったのは、トートの口元に自嘲の笑みが浮かんだからだった。ようやく自分が、トートをどんな目で見ていたかを悟った。

「ジェラベルド・バルナランド、今日限りであなたを解雇します。僕から魔法を教えるのも、おしまいにしましょう。今日中に、ラウラちゃんと一緒におうちへ帰ってください」

「トート!」

 トートは青い瞳を閉ざした。彼が縦に杖を動かすと、風が巻き起こってジェラベルドの身体を押し返した。分厚い本すら紙切れ同様に舞い上がって渦を巻く。すさまじい風圧に抗えず、声すら出すことができない。そのまま書斎から押し出されると扉が閉まった。

「トート……!」

 扉に触れた瞬間、掌に鋭い痛みが走る。皮膚が横一文字に薄く裂けて、血がにじみ出ていた。

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