第2章 宿題

宿題・1

第2章 宿題


 父娘喧嘩の翌朝、朝食の席にラウラは現れなかった。

「『おとーさんがあやまるまで、ラウラごはんたべないもん』……だそうだ」

 シノは投げやりにラウラの口真似をしたが、声が低いせいで全然似ていない。赤竜討伐団の仕事に間に合わなくなるので、シノは仕方なく布団に潜り込んだままのラウラを置いてきた。

「誰に似たのだ、あの強情さは」

「俺のわけないだろう」

「なら母親譲りか」

 シノは深々と頷いた。

「あり得る。お前もソフィシアを口説き落とすのにはずいぶん苦労していたようだしな」

 いきなり亡き妻の名前を出されて、ジェラベルドは危うく牛乳を噴き出しそうになった。ときどきシノは真顔で余計なことを言う。

「その話、実に興味深いですね? お師匠様」

 トートがらんらんと目を輝かせた。他人の色恋沙汰にやたら食いつくところは、父親のソーラスにそっくりだ。ジェラベルドはパンを口いっぱいに詰め込んで、それ以上の返答を拒否した。

「ラウラちゃんには、後で部屋に食事を届けておきます」

「駄目だ。ラウラのわがままに付き合う必要はない」

 ジェラベルドはトートにきっぱりと言った。

 いくらラウラが子どもでも、せっかく用意された食事を食べないとは許せなかった。食べ物を粗末にするのは大嫌いだ。ジェラベルドはラウラの分まで全部自分の皿に移して食べてやった。

「昼には、腹を空かせて出てくるだろう」

 しかしながら、ジェラベルドの予想は外れた。

 トートとの剣の稽古が終わって昼食の時間になっても、ラウラは部屋にこもったままだった。娘は父親が思っているより、はるかに強情だったのである。


***


 昼食の後、ジェラベルドは地下一階にある「書斎」に招かれた。

 地下なのにうっすらと明るいのは、おそらく魔法の力だろう。四方の壁には本棚がびっしりと並び、広くはない部屋をさらに狭くしている。床には白い塗料でいびつな紋様が大きく描かれている。どんな魔法が発動する魔法陣なのか、ジェラベルドには見当もつかない。

 ハーン邸にはこの部屋以外にもたくさんの「書斎」があり、トートいわく「書斎の中では比較的片付いているほう」とのことだが、それでも床や机の上には本が山積みになっていた。

「あれこれと文献をあさっているうちに、いつの間にかこうなっちゃってたみたいで」

 トートがぺろりと舌を出す。

「使用人に片付けてもらったらどうです?」

 ジェラベルドは敬語でトートに話しかけた。午前中とは師弟が逆転し、トートに魔法を教えてもらう時間だ。

「そういうわけにもいかないんですよ。研究の秘密保持のために、本には僕以外が触ると発火する魔法をかけているんです」

 本に伸ばしかけた左手を慌てて引っ込めたジェラベルドを見て、トートは「冗談ですよ」と笑った。

 ジェラベルドは作文をトートに見せた。昨日の深夜まで苦心して書いたものだ。自分の書いた文章を他人に読んでもらうのが、これほど緊張するものだとは知らなかった。

「『運命を見誤るな』かあ。良い言葉ですね。ところどころ綴りの間違いはありますが、よく書けていますよ、お師匠様」

「ありがとうございます、ハーン博士」

「トートでいいです」

 トートからまずまずの評価をもらい、ジェラベルドはひとまず胸を撫で下ろした。

 教えられるほうなのに「お師匠様」と呼ばれるのはどうも居心地が悪いが、「いちいち呼び方を変えるとややこしいでしょう?」というのがトートの意見だ。昨日「剣士の心構え」として「これからは俺を師匠と呼べ」などと言ったことを、ジェラベルドは後悔した。

「ですが、ひとつだけ気になる点があります」

「何でしょうか、博士」

「トートでいいですって。もちろん、ラウラちゃんのことですよ」

「それは、授業とは関係ない……」

 反論しかけたジェラベルドを、トートは人差し指一本で制した。

「お師匠様、僕が昨日お教えした『魔道士の心構え・その三』は何でしたか?」

「……『魔道士に雑念は禁物』、ですか」

「その通り。魔道士はいついかなるときでも冷静でいなければ、魔法を使いこなすことはできません」

 トートは偉そうに言うが、実際はジェラベルドが教えた「剣士に邪念は禁物」をもじっただけである。

「いいんですか? ちゃんと仲直りしなくて」

「ラウラには、反省が必要です。私に雑念など、ありません」

「そうでしょうか? お師匠様、本当はもうラウラちゃんのことが心配になってきているんじゃありませんか?」

「……」

 ジェラベルドは口をつぐんだ。嘘をついても顔に出る人間は、正直になるか黙るかしかない。ラウラを甘やかしてはいけないとは思っても、心を鬼にするのはなかなか難しいものだ。

「少なくとも、僕はラウラちゃんが心配だなあ。ラウラちゃん、このままじゃ病気になっちゃいますよ。こんなに雑念だらけの僕では、授業どころかサナティア城の結界を維持できないかもしれません。もし僕の平常心が乱れて結界が崩れたときにちょうど赤竜が来たら大惨事ですよ? もしもそんなことになったら、お師匠様のせいですからね」

「そんな大袈裟な……」

 魔道士のトートに言われると、本当に起こりそうに思えるのが恐ろしい。

「いいえ! まずはラウラちゃんと仲直りして、僕を安心させてください。それが次の宿題です。仲直りするまで、僕の授業はなしです」

 困惑する四十歳の弟子に、九歳の師匠はにっこり笑って温情を示した。

「安心してください、お師匠様。もちろん僕もお力添えいたしますから」

 トートは小さな手でジェラベルドの左手を引いた。

「こちらへ立って……いや、しゃがんでください」と言われるままに、ジェラベルドは床に描かれた紋様の中央部で膝を折った。視線がトートと同じくらいの高さになる。

 トートは何やら早口で呪文を唱えながら、ジェラベルドの額の上に手をかざした。床の白い紋様が、天井に向かってまっすぐ光を放ちジェラベルドを包み込んだかと思うと、すぐに消えた。

「いまの魔法は?」

「『雄弁ゆうべん魔法』といって、言葉が滑らかになる魔法です。サナティア王が民衆の前で演説をなさるときも、毎回魔道士にこの魔法をかけさせてから臨まれるのですよ。お師匠様も、いまならきっとラウラちゃんを説得できるはずです」

「私には、これといって魔法が効いている実感がありませんが……」

 トートは「それです!」とすかさず言った。

「お師匠様、普段より断然滑らかに話せていますよ! いまは授業ではないので、敬語ではなく普通に、僕に自己紹介してください」

「えー……俺はジェラベルド・バルナランドだ。今年で四十歳になる。赤竜討伐団の副団長を辞めて、いまは魔法の勉強中だ。出身は王都の西端、シヴァーク地区。俺にはラウラという一人娘が……」

 確かに魔法は効いているようだ。ところが突然、ジェラベルドは硬直したように黙ってしまった。

「どうされました、お師匠様?」

「魔法をかけられてもこの程度なら、普段の俺はいったいどれだけ喋るのが下手なのだろうと思ってな……」

「あ、えーと……」

 普段から能弁なトートのほうが、言葉に詰まってしまった。

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