初弟子・3

 ジェラベルドは返答に詰まった。ステーキがなかなか嚙み切れないふりをして、答えを考える時間を稼ぐ。

 ひと月前のその日も、ジェラベルドはシノとともに、仲間を率いてサナティア郊外へと出撃した。ジェラベルドたちが到着したとき、赤竜はすでに家々を破壊し、農作業中の老人二人を食い殺していた。

「……赤竜を、怖いと思ったことは、なかった」

 ジェラベルドはようやくステーキを飲み込み、ひと月前に戦った赤竜の姿を思い返した。

 赤竜の両手に生えた三本の爪は湾曲していて、おそらく料理長が鹿をさばくのに使ったナイフより長いだろう。何しろ赤竜自体が、この部屋には入りきらぬほど巨大で(そう表現すればトートにも伝わったのだろうか、とジェラベルドは頭の片隅で思った)、しかも凶暴なのだ。

 それでもジェラベルドが赤竜を恐れなかったのは、腕に自信があったからだ。二十年以上にわたって赤竜と戦い、常に勝ってきた。鋭い爪や太い尾から繰り出される攻撃をかわしながら赤竜に近づき、その脳天に剣を突き立てて仕留めることができていた。

 だからといって油断したことは一度もない。だがあの日は思ったように身体が反応せず、一瞬だけ回避が遅れてしまった。赤竜の爪がジェラベルドの身体をかすめた。かすめただけで、瀕死の重傷だった。三日三晩意識が戻らず、目覚めた後も十日以上焼けつくような激痛と熱にうなされた。

 ――いまでは、俺は赤竜が怖い。

 その言葉はジェラベルドの心の中ではっきりと形をとったが、トートには言えなかった。

 代わりに、こう切り出す。

「頼みがある。……いや、お願いが、あります」

 ジェラベルドはトートに向き直った。突然かしこまった口調になった「お師匠様」に、トートが目を丸くする。

「俺に……いや、私に、魔法を教えていただきたいのです」

「魔法? ……どうしてまた?」

「傷が癒えたら、王城事務官の試験を受けたいのです。合格するには、基礎魔法の知識が必要なので」

「でも、赤竜討伐団は? 復帰なさるのではないのですか?」

 トートの問いに、ジェラベルドは静かに首を振った。

 床に臥せっている間、ずっと考えていたことだった。

 赤竜の攻撃をかわしきれなかったのは、自分が老いはじめている証拠だ。

 老いとは、踏竜靴シュピクート滑空翅ヴィンシューテに重さを感じて動きが遅れたことだけを言うのではない。その重さを些細なものとして見過ごした判断力の衰えこそ、最も恐れるべき老いなのだ。討伐団に復帰しても今度こそ命を落とすかもしれないし、部下を危険に晒すかもしれない。老いを自覚してしまった以上、もう赤竜と戦うことはできない。

 それに、ジェラベルドにはラウラがいる。娘が大人になるまでちゃんと育てるのが父親の務めだ。だから早いうちに、別の仕事を手につけておくべきなのではないか。命がけの赤竜討伐団とは別の、安全で安定した、長く続けられる仕事を。

「できれば、ずっと、英雄でいたかったのですが」

 ほとんど独り言のような返答になった。トートが悲しげに眉を曇らせる。ジェラベルドは自然と少年に微笑みかけていた。右頬がずきずき痛んで、目尻にはわずかに涙がにじんだ。

「……分かりました。『昼餉時』と『御用納ごようおさめ時』の間、僕の手が空いているときでよければ。授業料は、報酬から差し引かせていただきますからね」

「よろしくお願いいたします、トートビアス・ハーン博士」

 ジェラベルドが深々と頭を下げた。「師匠への礼儀」を尽くす中年の初弟子に、トートはにっこりと笑う。

「甘くないですよ、僕は」

 実はこの聡明な少年こそ、稀代の大魔道士と名高いハーン博士その人なのである。亡き父の魔法研究を引き継ぎ、サナティアの結界をひとりで支えている少年の才は、九歳にしてすでに父親よりも秀でていた。

 昼食後、さっそくハーン博士の個人授業が始まった。

 まず博士は、ジェラベルドに魔道士の心構えを諭し、基本の呪文や魔法陣をいくつか教えた。ジェラベルドは謙虚な態度で耳を傾けた。授業の仕上げに百回の呪文書き取りを命じたところ、五十回を過ぎてもジェラベルドの筆跡はほとんど乱れなかった――と、そう上手くはいかなかった。

「字がふにゃふにゃなのは左手だから仕方ないとしても……こことここは綴りが違いますし、ここは単語がまるっと一語抜けてますよ」

「む……面目ない。読み書きは、昔から苦手で」

 博士はもじゃもじゃの頭を抱えて「うーん」と唸った。彼の初弟子は、なかなか手がかかりそうだ。

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