宿題・4

 ジェラベルドはもう一度ラウラの寝室へ向かった。ほろ酔いのシノとトートもついてきた。二人には、まずは口を挟まないで見守ってくれと頼んである。

 ノックをしても名前を呼んでも返事がないのは昼間と同じだったが、今度は開けようとすると鍵をかけられた。

 よほどラウラを怒らせてしまったらしい。それでも、引き下がるわけにはいかない。

「ラウラエレナ、嫌なら開けなくていい。でも、聞いてくれ」

 部屋の中は静まり返って、ラウラがベッドに戻る足音は聞こえなかった。きっと、このドア越しにラウラがいるはずだ。一つ深呼吸をして、ジェラベルドは娘に語りかけた。

「お前の言う通りだ。お父さんは……俺は、臆病者だ。たった一回やられただけで、赤竜と戦うのが嫌になった。怪我は痛いし、右腕もいまだに動かない。……でも、何よりつらかったのは、お前と離れ離れだったことだ」

 重傷を負って生死の境をさまよい、激痛と高熱に喘いでいたジェラベルドが快復できたのは、娘の存在があったからだ。もしもラウラがいなかったら、あのまま帰らぬ人になっていたに違いない。

「昨日、お前と久しぶりに会えて、俺は嬉しかった。本当に、嬉しかった。もう、お前と、離れたくない。だから、討伐団は辞める。人様に自慢できるような、格好いい英雄ではなくなるが、お前といられるなら、俺は、どうでもいい。……すまんな、ラウラ。こんな父親で」

 言いながら、ジェラベルドは不思議な感覚に囚われていた。

 娘に話しているはずなのに、まるでソフィシアに不器用に愛を語っていた頃に戻ったかのようだった。彼女がいまにもドアを開けて、「そこまで言うなら、仕方ないわね」と、勝気な笑顔で出てきそうな気がして、言葉が出なくなった――そしてジェラベルドは悟った。ラウラは、いつまでも自分と亡き妻とを繋いでいてくれるのだと。

 しばし目を伏せ、額をドアに押しつけて長く息を吐いた後、ようやくジェラベルドは言った。

「ラウラ、お腹は、空いてないか?」

「すいてない」

 昼間と同じ、ぶっきらぼうな答えだった。

「そうか」

 ジェラベルドはドアに背を向けた。

「お師匠様……」

 心配そうに見上げるトートの頭に、ジェラベルドは優しく手を置いた。

「悪いが、明日からは、部屋に食事を届けてやってくれないか」

 トートがうつむいた。ラウラを説得することはできなかった。やはり俺は父親失格なのかもしれない――ジェラベルドが肩を落としかけたそのとき、

「私に代われ」

 唐突にシノの鋭い声が響いた。ジェラベルドを押しのけ、ずい、とドアの前に出たシノの顔はすっかり朱に染まり、目が据わっている。ジェラベルドの感傷は一気に吹き飛んだ。

「ラウラ、私だ! シノ・フィングレイが来てやったぞ! 私は今日、ジェラベルドと一緒に寝る!」

「はあ?」

 ジェラベルドとトートが同時に声を上げた。

「お……おい、何を言い出すんだシノ」

「シノさん、少々飲み過ぎなのでは……」

 焦る男たちを尻目に、シノはさらに声を張り上げた。

「お前も私と一緒に寝たければ、さっさと部屋から出て来い!」

 そしてジェラベルドのほうを向き、小声で言った。

「私にとっても、ラウラは娘のようなものだ。口出しくらいさせろ。……眠くなってきた。私は先に寝るぞ」

 シノはすたすたと立ち去って行く。その足取りは確かだ。

 鍵が回る音がして、ドアが開いた。

「シノちゃんがそういうなら、しょうがないんだもん……」

 丸一日ぶりに部屋から出てきたラウラは、ふてくされた表情でジェラベルドを見上げた。その口の端に、何か黄色いものがついている。しゃがんでみると甘い香りがした。卵プディングだ。トートはこっそり、部屋に食事を運ばせていたに違いない。もちろん、ジェラベルドはそれを咎めなかった。

「おとーさんじゃなくて、シノちゃんといっしょにねるんだからね」

「もちろんだ」

 ジェラベルドは優しく頷いた。

「早く行かないと、シノに置いていかれるぞ」

「うん」

 ラウラはシノを追って走り出した。しかし廊下の角まで行くと立ち止まり、くるりと振り返って言った。

「おとーさん、ごめんなさい」

 そして逃げるように走り去った。かろうじて聞こえるくらいの謝罪を、ジェラベルドは左手を振って受け入れた。トートに出された宿題は完了した。明日からは魔法の授業も再開だ。

「素直じゃないですねえ」

 トートがにこにこしながら言った。

「困った娘だが、親にとっては、可愛いものだ」

「もちろんラウラちゃんもですけど、シノさんも」

 ジェラベルドは、シノが夕食を口実にわざわざ来てくれたことかと思ったが、トートが言っているのは別のことだった。

「昨日から思ってたんですけど、『そうか』って、お師匠様の口癖ですよね? 言いたいことはあるけど言えないとき、何て言っていいか分からないとき、びっくりしたとき……とにかく、とっさに言葉が出ないときに、よくおっしゃってますよね」

「そうか?」

「ほら、それ!」トートが指さす。

「お気づきになりませんでしたか? シノさんも、お師匠様が討伐団を辞めるって聞いたとき、同じ反応をなさいましたよ。なんだか、お師匠様そっくりだなって思ったんですけど」

 確かに、あのときシノは「そうか」としか言わなかったが、ジェラベルドはそれを単なる受諾の意味としか捉えていなかった。

「実はかなり動揺してたのかもしれませんよ、シノさんも」

「……そうか」

 結局それしか言えず、トートに笑われた。

「それじゃあ、僕もそろそろ部屋に戻ります。おやすみなさい」

「待て」

 ジェラベルドはトートを呼び止めた。

「お前も、一緒に寝ないか?」

「えっ……い、いいんですか?」

 それはトートが初めて、ジェラベルドに子どもらしい戸惑いを見せた瞬間だった。自分やシノでは亡くした両親の代わりにはならないが、トートを久しぶりにあのベッドで眠らせてやりたかった。

「もしラウラに蹴られても、許してやってくれ」

「はい!」

 トートは青い瞳を輝かせ、満面の笑みで頷いた。


***


 大きなベッドは、四人が寝転がってもなおゆとりがあった。

 ジェラベルドとシノの間で、トートとラウラがこちらを向いてすやすやと眠っている。月明かりの中、ジェラベルドはその寝顔を温かな気持ちで見つめていた。心なしか、子どもたちの口元に笑みが浮かんで見える。ジェラベルドにしても、こんなに満たされた夜は久しぶりだ。

 シノは背を向けて眠っていた。少女のような寝顔を見ずに済んで、ジェラベルドは安心していた。野営をしたとき、シノの近くで眠ったことは何度もあるが、さすがに同じベッドの上で寝たのは初めてのことだ。

 ――実はかなり動揺してたのかもしれませんよ、シノさんも。

 まさか、とジェラベルドは思っている。シノは赤竜と戦っているときでさえ冷静沈着で、常に堂々としていた。自分が団を辞めることが、シノに大した影響を与えるとは思えなかった。

 けれども、もしシノが動揺していたらと想像すると、申し訳なさの反面誇らしさを感じずにはいられない。自分が唯一シノを動揺させた男であればいいと、心の底では望んでいるのだろうか。そんな自分が、少し滑稽だった。

 ソフィシアのことは、きっと一生忘れられない。ならば、シノへのこの思いは、いったい何なのだろう。その答えを、ジェラベルドはずっと見つけられずにいる。

 これも、俺に課された宿題だろうか。

「ううん……」

 シノが寝返りを打ち、こちらへ向いて転がってくる。その顔を見る前に、ジェラベルドは目を閉じた。

 いまはただ、心地よい眠気に身を任せるべきだ。この宿題は、急がずゆっくり考えたい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る