重ね名・4
霧深い冬を迎え、いよいよ産み月がやってきた。小さくてか弱いソフィシアの身体の中で、お腹だけが不釣り合いに膨れ上がっているさまはジェラベルドを不安にさせた。
ジェラベルドは近所の婦人方に自分が仕事で不在の間は妻の面倒を見てくれるよう頼んだ。手間賃を出すつもりでいたが、女たちは笑って辞退した。彼女らにとって、すでにソフィシアは友人のひとりだった。男が余計な気を揉まなくても、女同士で助け合って生きているのだ。
「ジェラベルドさんは、よほど奥様のことを愛してらっしゃるのですね」
向かいの家のネリーさんに言われて、ジェラベルドは恥ずかしくなった。
こんな時期に限って、赤竜はしょっちゅう山から降りてきた。産み月のはじめに立て続けに三度、赤竜はサナティアの各地に現れて暴れた。そのたびにジェラベルドは、シノとともに出撃しなければならなかった。妻のソフィシアよりも、シノと過ごす時間のほうが長いくらいだった。シノが始めた新しい訓練によって、赤竜討伐団全体の戦力は向上しつつあったが、まだ団長と副団長抜きで首尾良く赤竜を倒すのは難しかった。
そして、四度目の襲来は真夜中だった。
鐘の音に眠りを妨げられて、ジェラベルドは素早くベッドから出た。
ソフィシアが、眠い目をこすりながら上体を起こした。装備を整えたジェラベルドが「行ってくる」と手短に伝えたとき、ようやく彼女は事態を把握したらしかった。
「今日は、非番なんじゃなかったの?」
「赤竜がすぐ近くまで来ているようだ。寝ているわけには……」
突然ソフィシアが下腹を押さえて顔をしかめた。鳴り止まぬ不吉な警鐘が赤子を脅かしたのだろうか。顔色を変えたジェラベルドに、彼女は気丈にもこう言った。
「ネリーさんを呼んだら、赤竜を倒しに行って。……それが、あなたの仕事なんでしょ?」
「……すまん」
ジェラベルドは家の外へ飛び出した。外は松明の光が灯されて明るかった。ティアラク地区の住民たちが、寝間着のまま心配そうに空を見上げている。その中にネリー夫人を見つけると、ジェラベルドは叫んだ。
「ソフィシアを頼む! 産まれそうなんだ!」
夫人は目を見開いて何度も頷いてくれた。
人々がどよめいた。赤竜の影が、不吉な流星のように東の空を横切ったのだ。
ジェラベルドは駆け出した。振り向くな、赤竜を倒すことだけ考えろと自分に言い聞かせながら。
赤竜は大きな屋敷の上に降り立ち、はるか下の人間たちを
庭の隅では屋敷の主たるグーラ卿の一家が身を寄せ合い、恐怖と冬の夜の寒さに打ち震えている。卿は「赤竜討伐団など解散すべき」と主張している側の貴族だが、それでも等しく助けるのが討伐団の務めだ。
シノはすでに到着していた。深夜番をしていた八人の剣士隊と五人の射手隊を従えて、屋上を見上げている。夜の暗さにも慣れて、赤竜の顔がよく見えた。いつ見ても醜いが、その夜は一段と憎たらしく思えた。
「なぜさっさと屋根に登らない?」
ジェラベルドの問いに、シノは呆れた様子で首を振った。
「『討伐団の連中をうちの屋根に登らせては、グーラ家の誇りが傷つく』んだそうだ」
ジェラベルドは鼻で笑った。
「グーラ卿のお言葉は、俺には『赤竜を下におびき寄せろ』と聞こえるな」
「私も同感だ。――打ち方用意! 始め!」
シノの号令で、射手隊が次々に赤竜めがけて矢を放った。赤竜はしばらくたかる蠅を追い払うような仕草で矢を払おうとしていたが、だんだん苛立ってきたのか翼を広げて高く舞い上がり、ひとつ、ふたつ羽ばたくと射手隊目がけて急滑降してくる。グーラ卿が甲高い悲鳴を上げた。
「総員散開!」
シノが叫ぶ。ジェラベルドも剣を抜いた。
「剣士に雑念は禁物」、いかなるときも平常心を保つようにと師匠には教えられてきたが、このときばかりは非常に機嫌が悪かった。赤竜のせいで安眠を妨げられ、産気づいた妻を置いてくる羽目になったのだ。――その報いは、存分に受けさせてやらねば。
赤竜が池に突っ込む。激しく
闘志はかえって燃え上がる。寒さをものともせず池の中へ飛び込み、赤竜の腹に何度も斬りかかった。
生臭い血が池の中へ流れ出す。怒った赤竜が両腕を振り回した。血の混ざった水がジェラベルドの目に入った。その隙に、背中を赤竜の尾に打たれた。尾の動きは鈍かったが、それでも激痛が走って池の中へ押し倒された。
シノが飛び込んできてくれなければ、そのまま赤竜に踏み潰されていたかもしれない。臭い水をいくらか飲んで、思わずえずいた。
「落ち着け、ジェラベルド! お前らしくもないぞ!」
シノの剣が赤竜の爪を弾いた。腰まで水に浸かりながら、シノはジェラベルドに手を差し伸べる。
「すまん」ジェラベルドはむせながら言った。「子どもが、産まれそうなんだ」
「何だと!?」シノが目の色を変えて怒鳴る。「それを早く言え! さっさと片付けるぞ!」
「ああ、そうしよう」
ジェラベルドは思わず笑った。いますぐ帰れと言わないところがシノらしいし、言ってほしくもない。
――俺は赤竜討伐団の剣士だ。赤竜を倒すのが、俺の仕事だ。
「俺が登る」
「任せた」
ジェラベルドは赤竜の尾に取りついた。ぬめる赤い鱗が、てらてらと松明の灯りを反射している。その背を一歩一歩、
赤竜はいま仲間の剣先に気を取られ、背筋を這い上る違和感には気づいていない。動きの鈍い後背部を越え、両翼の間にさしかかる。
ぐっと背が盛り上がった。山型に突出した背骨にしがみつき、転がり落ちそうになるのをこらえる。しかし、真の難所はここからだ。
赤竜は頭角を振り回して敵を攻撃する。幅の狭い首を登るときが一番振り落とされやすい。眼下ではシノがあえて動きを止めた。獲物を確実に仕留めるため、赤竜はしばし視線を固定する性質がある。そのわずかな時間に、勝負がかかっている。
ジェラベルドはすかさず跳び上がり、赤竜の眉間目がけて剣を振り下ろした。剣先が皮膚を突き破る手応えは、大きな達成感とわずかな不快感を同時にもたらす。
王都の守護者。忌まわしい竜殺し。そのどちらも正しい。
すぐに剣を抜かねば、額の肉がぎゅっと収縮してしまう。おびただしい血が噴き出し、ジェラベルドだけでなくシノたちにも降り注ぐ。
赤竜の頭から飛び降りると、背中の
今日も、赤竜を倒した。これまでと同じように。
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