刺青・5
翌日、ジェラベルドの質素な一人住まいに、白塗りの美しい馬車が訪れた。
シノの予告通り、フィングレイ家の使者が縁談を持ってきたのだ。ジェラベルドは髪を整え、
「お初にお目にかかります、ジェラベルド様。私はフィングレイ家で執事を務めております、ローカスタと申します」
使者は白髪交じりの上品な中年男性だった。ローカスタはまず羽根つきの黒い帽子を脱いで丁寧に一礼し、休日に押しかけた非礼を詫びた。粗末な木の丸椅子に座らされたうえ、ジェラベルドは茶の用意すら失念していたが、「どうぞお構いなく」とそれを侮ることもなかった。
「シノから話は聞いています。身に余るお話で大変ありがたいのですが、お断りさせてください」
相手が話を始めるより先に、ジェラベルドは用意していた答えを切り出した。
「シノお嬢様に頼まれたのですね?」
ローカスタはわずかな不快感すら示さなかった。
「シノお嬢様がご自分のことを、男女の愛を解しない人間だと考えていらっしゃることは私も存じ上げています」
その言葉で、ジェラベルドは昨日のシノの言葉が嘘ではなかったことを知った。シノが自分に本心を打ち明けてくれたことをありがたく思うと同時に、やはりどうしてもこの結婚は断らなければならないのだと悟った。
「……シノが望んでいないのに結婚しても、お互いに不幸せになるだけです」
それは自分を納得させるために、一晩中何度も言い聞かせた言葉だった。
「本当にそうでしょうか?」
黒い瞳に笑みをたたえたまま、ローカスタがやんわりと疑義を呈した。
「若い人は、まだご自分のことをよく知らないものです。いまのお嬢様には愛が分からなくとも、いつかあなたのことを愛するようになるかもしれませんよ。現に、お嬢様はあなたのことを大変信頼していらっしゃるようですし」
「しかし……」
「シノお嬢様の言い分は、どうぞいったんお忘れになってください。肝心なのは、あなたご自身のお気持ちです。ジェラベルド様、あなたにシノお嬢様を奥様にと望まれる気持ちはおありですか?」
ジェラベルドは返答に窮した。もとより器用に嘘をつけるような性分ではない。ローカスタが言うように、いつかシノに愛される日が来る可能性にすがりつきたい気持ちもあった。
そのときふと、ジェラベルドはシノの視線を感じた気がした。もちろんシノの姿はない。ここにいるのは執事ひとりだ。ローカスタの表情は変わらず穏やかだったが、真剣そのものだった。
ジェラベルドは長い息を吐き、膝の上で拳を固めた。そしてローカスタを見つめ返し、黙って深く頷いた。
それなら、と言いかけたローカスタを制し、ジェラベルドは続けた。
「……だからこそ、この結婚は、お受けできません。シノには、自分が思うように生きてほしいです。シノのために、俺に何かできることがあるとしたら、それは夫としてではない。相棒として、ともに赤竜と戦うことです」
ジェラベルドはシノに聞かせているつもりで、しかし絶対にシノには打ち明けられない本心をローカスタに語った。胸の内ではたまらなく切ないのに、同時に自分が正しい選択をしていると確信してもいた。
「本当に……本当に、それでよろしいのですか?」
ローカスタの口元からは笑みが消えていた。
「将来、お嬢様が心変わりなさって別の殿方とご結婚なさることもあり得るのですよ。もしもそうなったら、あなたはきっと後悔なさるのではありませんか?」
「シノが自分で決めた相手なら、それ以上にめでたいことはないです。……それに、その頃には、俺だってきっと心変わりしています」
少しくらいは強がりも混ざっていたかもしれない。それでも、最後には笑みさえこぼれた。
ローカスタも微笑を返し、さらなる説得を諦めて席を立った。
「本日は貴重なお時間をいただきましてありがとうございました。……お嬢様は、あなたのような方に出会えて本当に幸せですね。どうかジェラベルド様にも、良きご縁がありますように」
使者が馬車に乗り込むとき、見送りに出たジェラベルドが告げた。
「こちらこそ、わざわざご足労いただきありがとうございました。……フィングレイ卿」
ローカスタと名乗っていたはずの男は、本当の名を呼ばれると目を瞬かせて喜んだ。その黒い瞳は、確かにシノによく似ていた。
「これからも、うちのお嬢様をよろしく頼みますよ」
「はい」
シノが気取らない性格なのは、きっとこの人に育てられたからなのだろう。フィングレイ卿が優雅に帽子を浮かせると、馬車がゆっくりと動き出した。その姿が見えなくなるまで、ジェラベルドは深々と頭を下げていた。
***
二十年の長きにわたって、二人はともに戦ってきた。
やがてシノは赤竜討伐団の団長に、ジェラベルドは副団長に任命された。二人の努力の甲斐あって、いまや赤竜討伐団は王都の英雄として尊敬されている。ジェラベルドが赤竜討伐団の仕事を誇りに思えるようになったのは、シノのおかげだ。
ジェラベルドは三十三歳のとき結婚し、娘のラウラも生まれたが、妻のソフィシアは四年前に流行病で亡くなった。シノはずっと独身のままだ。ジェラベルドに会って以来、フィングレイ卿は娘の婿探しをやめたらしい。
シノはいま三十八歳だが、二十年経ってもまったく老けていない。少なくともジェラベルドにはそう思える。その胸に刺青があるのかどうかは、知らないままだ。
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