重ね名・3

 ジェラベルドとソフィシアは、サナティアの中心街からやや北のティアラク地区へと移り住んだ。庶民が多く住むごちゃごちゃした住宅街で、赤竜討伐団の営舎にも歩いて行ける距離である。

 新居はソーラスからの結婚祝いである。ハーン邸の使用人に貸していた家を無償で譲ってくれたのだ。二階建てで小さな部屋が四つあるだけの、煉瓦造りのこぢんまりとした家だが、天井は十分高くてジェラベルドも窮屈しないし、よほど子どもが増えない限り手狭にはならないだろう。

 子どもが生まれるまでは実家で過ごしてはどうか、というジェラベルドの提案を、ソフィシアは頑として受け入れなかった。いわく、「子どもが生まれるまでに、この家の台所で料理の練習をしたい」とのこと。どうしても自分で作れるようになりたいらしい。

 貴族の娘として生まれたソフィシアが、近所の主婦たちに頭を下げて教えを乞うた。もとより世話好きな女たちは、王都の英雄たるジェラベルドの新妻に喜んで力を貸してくれた。ジェラベルドにしても、自分が留守の間ソフィシアの様子を見てくれる人がいるのはありがたかった。

 普段は討伐団の仕事に出ているジェラベルドに協力できることは、なるべく「夕餉時」には家に帰って料理の味見役になることくらいだった。

 ソフィシアの料理は、なかなか上達しなかった。

「我慢しなくていいのよ。まずいときはまずいと、はっきり言ってちょうだい」

 自分でそう言ったくせに、本当に「まずい」と言うとソフィシアは機嫌を悪くした。かと言って「旨い」と言おうものなら、「下手な嘘をつかないで! あなたのそういうところが嫌い!」と怒られ、「他人に気を遣いすぎだ」「自己主張が足りない」云々と、ジェラベルドの人間性にまで説教が及ぶ。

 どうすればいいんだ、とジェラベルドは困惑した。自己主張も何も、「食べられるものが作れればいい」と言っていた頃に比べればはるかにましな料理ができているのだから、何の不満もないのに。

 心が折れそうになっていたソフィシアを救ったのは、意外にも天敵だったはずのシノだった。

「旨い! お前は料理の天才だな!」

 結婚してからひと月半が経った頃、ジェラベルドが討伐団の仕事から帰るときに、シノが新居を見たいと言ってついてきたことがある。シノは嫌がるソフィシアを無視してスープの味見をした。

「見え透いた嘘はやめて」

「嘘なものか。旨いものを旨いと言っているだけだ」

 シノは断言した。シノの味覚はほかの人とは違うのだ。シノとソフィシアが言い合っているうちに、ジェラベルドはこっそり塩をひとつまみ足した。

「シノの言うことが嘘かどうか、自分で確かめたらどうだ?」

 ほどよい塩加減になったスープは、ソフィシアを俄然やる気にさせた。人間というのは、心の持ちようでいかようにも変わるものだ。その日から、ソフィシアの料理は一気に上達し始めた。

「旨い」

 ジェラベルドが心の底からそう言えるようになるまで、さほど時間はかからなかった。その料理はソース煮だった。野菜や果物を煮詰めて作った黒褐色のソースを入れて、肉や野菜を煮込んだもので、ジェラベルドの母フィオミラの得意料理でもあった。初めは味のしないスープや焦げたトウモロコシ粥を作っていたソフィシアも、いつの間にかちょうどいい火加減と味加減を体得していた。

「本当? 良かったわ」

 同じ食卓を挟むソフィシアも、「香りもいいし、ほどよい酸味が肉の生臭さを消してくれているわね」などと自画自賛している。よく「旨い」以外の言葉がすらすら言えるものだと、ジェラベルドは感心した。

「これで、子どもにも美味しいものを食べさせてあげられるわ」

「ついでに、俺にも食わせてくれると助かる」

「ええ、少し余分に作るから分けてあげてもいいわよ」

 ソフィシアの努力は、生まれてくる子どものためであって夫のためではない。ジェラベルドは苦笑しながら、ちぎったパンで皿に残ったソースを残さずすくい取った。

「俺がいない間、何か困ったことはなかったか?」

「そうね……洗濯をするときに、屈むのがつらくなってきたわ」

 料理だけでなく、ソフィシアは掃除も洗濯もしてくれる。赤竜の血で汚れた制服もだ。もちろんジェラベルドはやらなくていいと言ったが、ソフィシアはちゃんと家事を覚えたいと言って聞かなかった。

「明日からは代わる」

 ジェラベルドが食器を手に立ち上がったとき、ソフィシアも一緒に立った。

「待って。皿の片付けくらいできるわ」

「なら、頼もう。……でも、無理はするな」

 分かってる、と妻は言う。彼女はまだ、完全には心を許してくれていない。

 ソフィシアの頑なさについて、ジェラベルドはこう考えていた――ヴォルフィスが戦死してから、まだ十月とつきと経っていないのだ。恋人がソフィシアに遺した子は、腹の中で亡き父の面影を母親の記憶に留め続ける。生まれた後も同じだろう。そこに自分が入り込む余地はないのだ――それが大きな見当違いだったと知るのは、玉のように美しい赤ん坊、ラウラが生まれるときだった。

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