良き友・4
まさか、本当に赤竜が来るとは。客人たちは大混乱に陥った。悲鳴を上げても、みなどこに逃げればいいのか分からず壁際で押し合いになるだけだ。赤竜が一声吼えるたびに、人々は怯えて震え上がった。
「ここは引き受ける。お前たちは全員を外に避難させて、火を消せ」
ジェラベルドは部下たちに指示しながら剣の柄に手をかけた。その右腕に、ソフィシアがすがりつく。見上げる青い瞳が、恐怖で震えていた。
「ご両親と一緒に逃げろ。……これが、俺の仕事だ」
ジェラベルドは燭台の柄を力任せにへし折った。それをドレス姿のまま走ってくるシノに投げてよこす。ジェラベルドも剣を抜き、二人でバルコニーへ飛び出す。赤竜が前肢を叩きつけ、
シノが燭台の柄を槍代わりに振り回し、赤竜の喉へ突き刺した。鱗の少ない喉の皮膚は柔らかく、赤竜は首を振って激怒している。だが赤竜の巨体からすれば、致命傷にはなり得ない。やはり眉間を狙わなければなるまい。赤竜の頭はすぐ真上に見えていた。しかし
「ジェラベルド、無理はするな!」
シノはドレスを翻し、赤竜の頭突きをかわす。言われるまでもなく無理は承知だ。だが早く赤竜を倒して、身重のソフィシアを安心させたかった。
側頭部に生えた赤竜の角が、硬い外壁に引っかかってがりがりと傷をつける。さすが貴族の屋敷だけあって、庶民のあばら屋のように簡単に崩れはしない。
首の動きが鈍った。ジェラベルドはすかさずバルコニーの柵を蹴って跳躍し、赤竜の正面から眉間に剣を突き立てた。
赤竜は口から止めどなくどす黒い血と悲鳴をまき散らしながら、最期の悪あがきをするように首を激しく振り回す。
ジェラベルドの視界も目まぐるしく回転した。身体ごと壁に叩きつけられそうになったとき、思わず剣の柄を離してしまった。
ジェラベルドの身体は高々と放り上げられた。そのまま地面に落ちていたら命はなかったが、幸いバルコニーの上だった。
背中から落ちて息が詰まったものの、頭は軽く打っただけですんだ。赤竜が倒れる大きな震動が伝わって、どうにか自分の務めは果たし仰せたらしいと知る。
目が回ってすぐに起き上がれないでいると、誰かの指先が肩に触れた。シノかと思ったが、そこにいた女性は金髪だった。純白のドレスが赤竜の血で汚れるのも構わず、ジェラベルドの傍に腰を下ろしている。逃げろと言ったのに、そこにいたのか。
清らかな滴が、優しくジェラベルドの頬を打つ。彼女は泣いていた。
「ソフィシア」
ようやく視界が定まった。目と目が合ったとき、ソフィシアは弾かれたように立ち上がり、野次馬を押しのけて部屋から出て行ってしまった。アルビアン卿が娘の後を追う。ジェラベルドもどうにか立ち上がった。とても嫌な予感がする。
「早く行け。この場は私に任せろ」
シノが言ってくれた。ジェラベルドが広間を出ると、東側の一番奥の部屋から嗚咽と怒鳴り声が響いてきた。――どういうことなんだ、ソフィシア!
ジェラベルドは声のする部屋へ急ぎ、ノックも忘れてドアを開けた。
頭を抱えてぐったりと椅子にもたれかかっているアルビアン夫人と、顔を真っ赤にしているアルビアン卿、そして床の上で顔を覆って泣くソフィシア。ジェラベルドはソフィシアが何をしたのかを一目で理解した。
「ジェラベルド様」
アルビアン卿はがたがた震えてジェラベルドの前に
「わ、私は、何とお恥ずかしいことを……! 娘が身ごもっているなどとはつゆ知らず、あなた様にお引き合わせするなど……」
その後も謝罪と弁解の言葉がしどろもどろに続いたが、ジェラベルドの耳には入らない。
このまま何もしなければ、目の前で泣いている女性との縁が今日限りで終わるのだ。
「……俺は……」
ジェラベルドが口を開くと、アルビアン卿は押し黙った。顔を上げたソフィシアは怯えた目をしている。
何と言葉を続けるのが適切なのか、ジェラベルドには分からなかった。言える言葉は、ごく短い。
「俺は……ソフィシアと、結婚したい」
ええっ、とアルビアン卿が声を裏返らせた。
「それは、何より嬉しいお申し出ですが、でも……い、いいんですか」
「ぜひ」
「……でしたら、私どもにはお断りする理由はありません。娘をよろしくお願いします」
父の返答を聞くと、ソフィシアは喜ぶどころか眉を吊り上げて猛然と立ち上がり、ジェラベルドを思い切り突き飛ばして部屋を出て行った。「待ってくれ」と言っても待ってくれない。
広間の前を横切るとき、シノたち討伐団の仲間が、使用人たちに手を貸して荒れた広間を片付けていた。「頑張れよ」とシノが目だけで語る。
ソフィシアは西側の一番奥の部屋へ逃げ込んで、ジェラベルドが開ける前に鍵をかけてしまった。
「ここを開けてくれ」
「嫌よ」返事はすぐドアの向こう側から聞こえた。
「お忘れなら言いますけど、私は妊娠しているのよ」
「そんなことは、分かっている」
「じゃあどういうつもり? 竜殺しの英雄さんは、人助けで結婚までしてくれるの? 『子どもがいても構わない』なんて、あなたに言われる筋合いはないわよ。なぜこの子が、あなたなんかに許可されなければならないの? あなたが現れる前から、この子は私のお腹の中にいるのよ!」
ソフィシアの言う通りだった。生まれてくる子どもについて、ジェラベルドには何の権限も持たなかった。
「助けてほしいのは、俺のほうだ。このまま帰ったら、お前とは、もう会うこともない。お前が元気な子どもを産んだのか、男か女か、何と名づけたのか、俺は一生知ることもない。それが、嫌でたまらないんだ」
愛しているなどとは言えなかった。言葉を多く知らないジェラベルドは、愛が意味するところもまた知らなかった。同情ではないと言い切れる自信さえもない。ただこの人と離れたくないと思う、それだけが確かだった。
「やめて」ソフィシアが強くドアを叩いた。
「あなたのそういうところが嫌いだわ。どうして、もっと偉そうにしないのよ? 俺は赤竜討伐団の英雄だってふんぞり返って、私のこともふしだらな年増だって馬鹿にしてくれればよかったのに。そうしたら、私だって……」
ソフィシアはそこで言葉を呑んだ。何と言おうと、ソフィシアに拒否する権利はない。貴族の結婚とは、そういうものだ。
「ひどいわ、ジェラベルド!」
「すまんな。本当に、すまん。……ソフィシア、頼むから、俺もお前の家族に入れてくれないか」
ソフィシアは気が強い女だ。きっとこれからも何度も怒られるのだろう。そのたびに何度も謝るのだろう。正直なところ、少しくらいは気が重い。
「……そこまで言うなら、仕方ないわね」
鍵の回る音がして、ドアがゆっくりと開く。ソフィシアは、濡れたままの瞳で勝気に笑った。
「でも、一つだけ条件があるわ。私たちを遺して死なないと誓って」
「約束はできない。努力はする」
「何よそれ。あなたって本当に……まあ、いいわ」
ソフィシアが右手を差し出した。
貴族のやり方は知らない。庶民のやり方なら、きょうだいたちの結婚式で何度も見た。
ジェラベルドは跪き、ソフィシアの手に唇を寄せた。それで終わりだった。きつく抱きしめ合ったり、燃えるようなくちづけを交わしたりする間柄ではない。これは貴族のしきたり通り、親と婿が勝手に決めた結婚だ。
少なくとも、ジェラベルドはそう信じていた。
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