言い訳・5
ソフィシアと出会ってから三十日目、三度目の訪問だった。
「それでは、どうぞごゆっくり。ソフィシア、また明日ね」
馬車上のアルビアン夫妻は相変わらずにこにこしていた。
ジェラベルドは頬が引きつりそうになるのをこらえて、走り去る馬車を笑顔で見送った。隣に立つソフィシアも同じ表情をしている。夫妻の顔が見えなくなると、二人は同時に大きなため息をついた。
赤竜討伐団は八日働くごとに二日の非番、つまり休日がある。休みが巡ってくるたびに、ソフィシアは両親に連れられてジェラベルドの家にやって来た。迎えが来るのは、一晩明けてからだ。
二人が気の重い休日を過ごしているとも知らず、アルビアン夫妻は心底嬉しそうだった。ジェラベルドとソフィシアはすっかり相思相愛で、結婚は決まったものと思い込んでいる。ジェラベルドは「訳ありの娘を押しつけようとしている」などと邪推した自分を恥じた。彼らは純粋に娘の幸福を願う良き父母なのだ。
「ああ、吐きそう」
ソフィシアが額の汗を拭う。
とりあえずソフィシアを家の中に招き入れた。最初の日にソフィシアのドレスと赤竜討伐団の制服を並べて干した壁には、いま制服だけが吊るされている。滴り落ちる水を受ける金盥に溜まった水が、赤黒く濁っている。ソフィシアは露骨に顔をしかめた。
「……昨日は、出撃だったからな」
これがジェラベルドの
「あなたと結婚する女性は、赤竜の血で汚れた制服を洗わされるのね。お気の毒だわ」
「そうだな。気の毒だから、自分で洗うことにする。……適当に、座れ」
ソフィシアは椅子に腰かけた。水色のワンピースの裾がふわりと広がる。ソフィシアの白い肌と金髪によく似合っているが、お洒落というより少し膨らんできたお腹を目立たせないための服装だろう。
「ご両親には、まだ気づかれてないのか」
「幸せ太りだと思ってるみたい。気づいたとしても、あなたの子だと勘違いしそう」
「それは、困る」
「困ってるのは私のほうよ。お腹にヴォルフィスの子がいるなんて知ったら、父も母も卒倒しちゃうわ。頃合いを見計らってちゃんと話そうと思っていたのに、あなたのせいでこんなことになったんですからね」
「うむ……すまん」
ジェラベルドはおとなしく謝った。ソフィシアが妊娠を隠していたことは、責める気にはなれない。
「気分が悪いなら、薬湯でも淹れよう」
「ええ、いただくわ」
今日のソフィシアは素直に言った。ソーラスの薬湯をひと口飲んで目を丸くする。
「俺も、二日酔いのときによく飲む。全然苦くないのに、胸がすっとするだろう」
「そうね……不思議だわ。こんなに飲みやすい薬湯は初めて」
「今日は、それを調合した友人から、昼食に招待されている。……俺たちのことは、親同士が勝手に盛り上がっているだけだと伝えてある。行くか?」
「それは何よりだわ」
薬湯を飲み干して、ソフィシアは言った。
「あなたとこの狭い家で二人きりじゃ、息が詰まって死んでしまうわ。ぜひ伺いましょう」
ジェラベルドが手を差し伸べると、ソフィシアは不服そうに細い腕を絡ませてきた。
特に会話を交わすこともなく、つんとすまして街を連れられていたソフィシアだが、大貴族の豪邸が立ち並ぶ中心街に足を踏み入れるとだんだん顔つきが変わってきた。ハーン邸の巨大な門の前でベルを鳴らしたとき、彼女の顔はすっかり青ざめていた。
「どうした、具合が悪いのか?」
「そうじゃないけど」ソフィシアは小声で言う。「どうして、あなたみたいな人がこんな上流階級の方とお近づきになれるのよ。赤竜討伐団の英雄だから?」
「いや。ソーラスは、子どもの頃からの友達だ」
門も、正面玄関の扉も、ひとりでに開いた。大理石の床に金で魔法陣らしき紋様が彫り込まれているのを見ると、ソフィシアはいよいよ身を固くした。
「いらっしゃーい!」
ソーラスが大きな腹を揺らして駆け寄ってきた。
「ソフィシアちゃんでしょ? 僕ソーラス! よろしくね。さっそくご飯にしよう。僕、もうお腹ペコペコなんだよねー」
大貴族の当主夫妻を前にすっかり緊張しているソフィシアに、ソーラスは明るく笑いかけた。彼は堅苦しい挨拶や前置きが嫌いで、誰に対しても平等に微笑みかける男だった。
大食堂には、ソーラスの妻ペルルと、その胸に抱かれた息子のトートが待っていた。
当時ソーラスは結婚三年目に入ったばかりで、トートはまだ一歳半だった。
ジェラベルドの顔を見ると、トートは「ジェラビ、いらしゃーい」とにこにこ手を振った。まだ数回しか会っていないのに、トートはすでに父親の友人の顔と名前を憶えていた。驚くほど賢い子どもだ。「天才児かもしれないよ!」などとソーラスはにやついていたが、まさにその通りだったとは本気で思っていなかったろう。
食卓は両端に座った人同士の顔が見えないほど長く、その隅を囲むだけで事足りる。大人四人と乳離れ中の子どもには多すぎる量の料理が続々と出てくるさまを、ソフィシアは目を点にして見つめていた。
「さあソフィシアさん、遠慮せずにいっぱい食べてよね!」
ペルルも夫に似て陽気で、そしてふくよかだった。ソフィシアの緊張も、少しずつほぐれていく。
「それにしても、二人とも大変だよね。親御さんの手前、仲良くしないわけにもいかないしさー」
当主のソーラス自ら、真っ赤なスープを注ぎ分けながら言う。
「これ、トマトっていう新種の野菜なんだ。珍しいでしょ。たぶん身体にいいよ」
「おっしゃる通りですわ。私、本当に困ってますの。うちの両親がすっかり舞い上がっちゃって」
ソフィシアはトマトが気に入ったようで、お世辞ではなくしきりに「おいしい」とつぶやいていた。
「でも両親が勘違いするのも仕方ないと思いません? 私、顔を合わせたその日にいきなりこの人の家に連れて帰られたんですもの」
「ええっ!」
ソーラスが目を飛び出さんばかりに見開いた。
「大胆なことするなあ! ジェラビー、僕その話聞いてないよ」
「あら、ソーラスさんに話してなかったの?」
ソフィシアも驚いたようだ。
話すわけないだろう、とジェラベルドは内心思う。家に連れ帰った理由も話さなければならなくなるからだ。未婚の女性が妊娠していることを勝手に言いふらすほど、無神経な男ではないつもりだ。
「それは……なりゆきで仕方なく連れて帰っただけだ。何もしていない。紛らわしい言い方をするな」
なあんだ、とソーラスは椅子に座り直した。
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