父と子・4
二日後、ジェラベルドは「茶飲み時」にシノの家――フィングレイ邸へ足を運んだ。
シノは今日非番のはずだ。ハーン邸とはかなり近く、何と言ってシノを呼び出そうか考えているうちに着いてしまった。
実は、ひとりでフィングレイ邸を訪れたことはほとんどない。ここに来るのは、ラウラをシノに預かってもらうときくらいだ。
フィングレイ邸はハーン邸に負けず劣らず大きいが、ソーラスの好みが反映されて当世風なハーン邸とは対照的に古めかしく、格調高かった。両端に獅子の像が配置された外門をくぐると、真四角い墨色の建物が目に飛び込む。季節の花が咲く明るい庭園に取り囲まれていなければ、近づくのがためらわれるような荘厳さである。
よく見知った執事が、ジェラベルドを出迎えてくれた。彼こそが本物のローカスタだ。かつてシノとの縁談を持ち込んだ紳士よりも、小柄で肉づきがいい。
「申し訳ありません。あいにくシノお嬢様は出かけておりまして」
ローカスタが教えてくれた。ここ数日でフィングレイ卿の体調は急激に悪化し、シノは胸の病に詳しい医者やよく効く薬を求めて自らサナティア内外を奔走しているのだという。
シノがハーン邸に来なくなったのは、ジェラベルドが怒らせたせいではなかった。だからといって安堵するどころではない。病状が思わしくないフィングレイ卿と、父を救おうと必死なシノを思うとむしろ苦しかった。
「よかったら、旦那様にお会いになってくださいませ」
「……私のような庶民が、個人的にフィングレイ卿にお会いしては、失礼では……」
そう答えるとローカスタは目を細めて「とっくの昔に、個人的にお会いしているじゃありませんか」と微笑む。その言葉に甘えて、ジェラベルドは屋敷の中へ入った。
招かれた先は、フィングレイ卿の寝室だった。客間で茶飲み話ができるような容態ではないのだ。それでもフィングレイ卿はジェラベルドのために
「よく来てくれましたね」
はっきりとした声だった。フィングレイ卿は見るからにやつれているのに、その目は穏やかな知性の輝きを失っていなかった。ジェラベルドは枕元へ跪き、出ない言葉の代わりに痩せ細った白い手を握った。
「わざわざ来てくださったのに、シノが留守にしていてすみませんでしたね。私と違って、シノはまだ諦めていないようです。私の言うことなんて、ちっとも聞いてはくれなくて。あの子はいつもそうなんです……昔から、そういう子でした」
「……お許しください」
ジェラベルドは反射的に口走っていた。二十年前にシノと結婚しなかったことが、二人にとっては最良の選択だったとしても、フィングレイ卿にとっては望んだ結果ではなかったはずだ。
「あなたが謝ることなど何もありませんよ、ジェラベルド。あなたのおかげで、私は大きな過ちを犯さずにすんだのです。あなたに出会って、私はシノの婿探しをやめることができたのですから」
フィングレイ卿は大きく息を吐いた。一瞬だけ引きつった眉には、隠しきれない病の苦しみが表れてはいたものの、決して微笑を崩すことはなかった。病床にあっても、誰に対しても平等に、穏やかに接しようとする卿の態度は気高く尊かった。
「あのとき、あなたは正しい選択をした。この二十年、シノを見ていてそう思うのです」
「それは……違う、と思います」
ジェラベルドは首を振った。確かにあのときは、自分の選択は正しいのだと信じた。けれども本当は、正しさなどは二の次で、自分の心が選ぶべきと感じたほうを選んだだけだ。
「いまの自分を、過去のせいにしなくてすんでいるだけです」
いつだって同じだ。正しいほうの選択肢をゆっくりと見極める時間など与えられない。正しさはせいぜい後で埋め合わせるしかない。
「運命を見誤るな」という師の教えに、四十歳になったジェラベルドはもう一つ別の意味を読み取っていた。――すなわち、何が正しいのかにこだわって、何も選び取らないまま時機を逃してはならない、と。
「……ありがとう、ジェラベルド。会えてよかった」
弱々しくジェラベルドの手を握り返すフィングレイ卿の黒い瞳は、濡れて光っていた。
「これからも、シノをよろしく頼みますよ」
もう二度とこの人と言葉を交わすことはないのだという確信めいた予感が、ジェラベルドの返事を一瞬遅らせた。
「……こちらこそ、これからも、よろしくお願いします」
どうにかそう口にした。今生の別れにしては間が抜けていたが、それでも無言のままよりはましだった。
フィングレイ卿の部屋を出たとき、ローカスタが「明日はハーン邸にお伺いするように、シノお嬢様にお伝えしておきます」と言ってくれた。彼の気遣いのおかげで、悲しい気分がいくらか慰められる。
玄関先から物音が聞こえてきた。ローカスタが急いで向かう。シノが帰ってきたのかと思ったが、そこにいたのはロアン・フィングレイとその妻ヘルデラルメ、つまりシノの弟夫妻である。いつもは屋敷の奥で生活している彼らと出会うのは初めてだった。
「あら、お客様? ずいぶんと背の高い方だこと」
いち早く口を開いたのは妻のほうだった。ジェラベルドが膝を折ろうとするのを、ロアンが止めた。もう王族ではないヘルデラルメに、そこまでの礼を尽くす必要はないのだ。
「ジェラベルドさんですね。お会いできて光栄です」
ロアンの顔立ちは、シノとよく似ていた。姉と違うのは、鼻の下で綺麗に整えられた髭だ。赤竜討伐団と違って、近衛兵団の剣士は髭を生やしている者が多い。よく言えば物腰柔らかな好青年だが、下がり気味の眉の下でぱちぱちと瞬きの多い目からは、シノから聞いた通りの気弱な人柄が窺えなくもない。
「ああ、あなたが、あの?」
一方で、ヘルデラルメは高慢さを隠そうともしなかった。濃く描かれた眉の下で、緑の目が爛々と光っている。宝石が細かくちりばめられた赤紫色のドレスが、生まれつき高貴な女性の威圧感を増していた。
「良かったですわね。赤竜のおかげで、フィングレイ家のお嬢様と仲良くなれて」
「よさないか、ヘルデ」
ロアンが眉を曇らせて妻をたしなめると、ヘルデラルメは意地の悪い笑みを残して立ち去っていく。なるほど、シノとこの人の馬が合うわけがない。
「すみません……どうか近いうちに、またいらしてください」
ぺこぺこと頭を下げるロアンが気の毒だった。
シノは親が決めた結婚を回避できたが、ロアンは違った。王女の結婚相手は王が決める。婿に選ばれることは最高の名誉で、断る余地はない。シノの仕事に理解のないお姫様と暮らすのは、さぞかし気苦労が多いことだろう。
帰り道で、ジェラベルドは明日シノが来てくれたら何を話そうかと考えた。けれどもやはりハーン邸は近すぎて、考えがまとまる前に帰り着いてしまった。
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