第3章 師匠と弟子

師匠と弟子・1

第3章 師匠と弟子


 毎朝「目覚まし時」になると、時守ときもりがサナティア城の高塔で鐘を打ち鳴らす。

 最初はのんびり、カン、カン、カーン、カン、カン、カーン。しばらく経ってもう一度。最初より少し速い鐘が、城下の人々を二度寝から救う。それでも目覚めぬ者のために、三度、四度、五度。繰り返されるたびに鐘の鳴るテンポは速くなり、六回目の代わりに「朝餉時」を報せる大鐘がゴロンゴロンと鳴る。

 王のしもべがこの時間まで寝ていたなら、朝食は諦めなくてはならないだろう。その後「御用始め時」がやってきて、各々の持ち場について一斉に仕事を始めなければならないのだから。赤竜討伐団もまた、王のしもべである。

 赤竜討伐団を辞めた後も、ジェラベルドは「目覚まし時」の最初の鐘よりも少し早く目覚めていた。

 師匠の教えの中に「剣士たるもの、早起きすべし」などというものは特になかったと記憶している。ジェラベルドは子どもの頃から早起きだった。畑仕事は明るいうちでないとできないからだ。討伐団へ入ってからの二十年は、畑仕事の代わりにひとりで剣を振るうか身体を鍛えるのが日課になった。

 ハーン邸に来て初めの頃は、ラウラが目覚めるまで枕の役目を務めていた。左腕や肩にすがりつく娘の小さな頭の重さを感じ、時には愛くるしい寝顔を眺めてうっとりしているうちに二度寝して、気づけば「朝餉時」を迎えている。それはジェラベルドがこれまで知らなかった、穏やかで幸福な時間ではあった。

 それでも傷がだいぶ癒え、右腕の三角巾と頬の膏薬が取れると、じっとしているのがつらくなってくる。ハーン邸で寝起きし始めてから月がひと巡りした頃、ジェラベルドはラウラを起こさぬようにそっとベッドから抜け出した。

 ジェラベルドは赤竜討伐団を辞めてから、整髪も髭剃りも前よりずっといい加減になった。けれども染みついた剣士の日課だけは、赤竜の爪でも断ち切ることができなかったようである。

 少し前に採寸した剣術指南用の服が出来上がっていた。最初の日にジェラベルドが色褪せた紺の服を着ていたので、トートが新しいものをと発注してくれたものだ。稽古用の服に頓着しないジェラベルドには、必要ないものだと思っていたのだが。

「ジェラベルドさんに、剣術のお師匠様っぽい服を作ってあげてください」というトートの曖昧な注文は、さぞかし仕立職人を悩ませたことと思う。羽織物は、赤竜討伐団の制服と同じ黒だった。薄くて柔らかいがしっかりした毛織の生地で、襟元や袖口には銀糸の刺繍が入っている。

 上等な服にいささか気後れしつつ、ジェラベルドは訓練用の剣を取って庭へ出た。軽く身体をほぐし、まずは縦にひと振り、次いで横にひと薙ぎ。そして素早く十字に振ってみる。意外に動きやすい。剣を振るうたび長い裾が揺れるのはなかなか良い気分だ。素振りと型通りの所作を何度も繰り返す。少しは筋肉や関節がだるくなったが、心地よいと言える程度の疲れだった。思ったほど身体はなまっていないようだ。

 ふとジェラベルドは連剣舞のまねごとをしてみたくなった。連剣舞スヴェタンゼは、毎年夏の建国記念祭や、新王の即位など大きな祝い事の日に近衛兵団が行う伝統行事である。練兵場に三百人を超える近衛兵が整然と並び、勇壮な音楽に合わせて一糸乱れぬ剣舞を披露するさまは壮観だ。もちろん赤竜討伐団は参加しないが、子どもの頃に元近衛兵だった師匠が戯れに振付の一部を教えてくれていた。振付のひとつひとつが、サナティアの歴史を表現しているという。

 ジェラベルドは精神を剣先に集中させた。

 足の動きは右、左。身を翻しながら剣を下から上へ、つむじ風が巻き起こるごとく。

 右、右、右。力強く踏み込みつつ斜め上から振り下ろす剣の軌跡は、天から降り注ぐ稲妻だ。

 左足を踏み込んで腰を落とし、そのままぐるりと三回円を描く。円はサナティアを表現している。

 最後に勢いよく立ち上がって剣先を空へまっすぐ向けた。王の誕生だ。

 ――ぴし、と右肩に痛みが走る。しまった、調子に乗り過ぎた。

「すごーい! おとーさん、かっこいい!」

 ジェラベルドがどうにか剣を取り落とさずに堪えたのは、いつの間にか背後に観客がいたからである。

 ラウラが寝間着姿のままで駆け寄ってきた。ベッドからこっそり抜け出してきたので怒っていないか心配だったが、むしろラウラは父親の快復を喜んでくれていた。

 羽織の裾を掴んで「もういっかいやって!」とねだる娘に、ジェラベルドは「ラウラが、明日も早起きできたらな」と約束した。自然と笑顔がこぼれる。頬の傷跡は一生消えないが、もう痛みを感じることはない。

 トートも一緒だった。こちらは、すでに着替えを済ませている。見慣れた茶色のローブだ。

「本当によくお似合いですね、お師匠様」

「俺には、立派すぎる気もするが……」

「いいじゃないですか、王都の英雄ジェラベルド・バルナランドなんですから。お師匠様はもっとご自分がなさってきたことを誇るべきですよ」

 ラウラが隣で「そーだそーだ!」と声を上げる。

 英雄と呼ばれて悪い気はしないが、さすがにこの計らいは過分だ。屋敷に住まわせてもらい、仕事も与えてもらい、魔法も(これは有料だが)教えてもらっている。これ以上与えてもらうのは申し訳ない。

「トート、いろいろと世話になって、本当にすまない」

「いいんですよ。僕のほうこそ、お役に立てて嬉しいです」

「お陰様でずいぶん怪我も良くなった。家に帰れる日も近そうだ」

「帰るの?」とラウラが言う。ジェラベルドはしゃがみ込んで娘に視線を合わせ「そうだよ」と答えた。

「おうちに帰って、またお父さんと二人で暮らすんだ」

 住み込みでの剣術指南は、元々傷が癒えるまでという約束だ。トートの厚意にいつまでも甘えるわけにはいかない。それに、ここでの豊かな生活をラウラに慣れさせたくはなかった。貴族の暮らしは、本来自分たちの暮らしではないのだ。

「目覚まし時」五回目の速い鐘が鳴る。ジェラベルドは剣を鞘に収めてラウラを抱え上げた。

「もうすぐ朝ごはんの時間だ。着替えてきなさい」

「おうちにかえっても、トートといっしょにあそべる?」

 ラウラの問いには、トートが答えた。

「いつでもおいでよ。僕も遊びに行きたいな」

「うん。ときどきなら、おとーさんをかしてあげてもいいよー」

 幼いラウラには何の屈託もない。けれどもジェラベルドは見ていた。父親に抱え上げられたラウラを見上げるトートの青い瞳は、寂しげに翳っていたのを。

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