42.明晰夢

退院した幸が、素朴な疑問を投げかける。もう則田とのことが嘘だったかのように、主治医と患者の「家族」の関係に戻っていた。外では雪が降っていた。


「人がどうなるかは実験できないから、分かっていない。ラットの実験では、二から

三週間で死亡することが分かっている。おそらく人間もそうでしょう」


このラットは、死ぬまでが実に悲惨だったということは、伏せておいた。衰弱した上に尾や手足の皮膚に潰瘍や角質化が現れて、死んだのだ。つまり尾や手足が、ぐちゅぐちゅ、ごわごわになっていた。この過程も、人間も同じだと考えられる。女性である黒森さんには、耳に入れてほしくなかった。


「薬とか、何かいい方法はないんでしょうか?」

「一つの方法として、明晰夢を取り入れてみようと思っています」


一九九二年のリヨン大学のジュペーらによる研究である。海外では、PTSDの治療で良い結果が出ている。


「明晰夢とは、悪夢のシナリオを書き換えようとするものです。第一に、これは夢だ、と気づくこと。第二に、夢の中に侵入すること。第三に、夢をコントロールすること。この三点が必要とされています。第一段階の、これは夢だ、と気づいた夢を明晰夢と呼びます」

「本当にそんなことが可能なんですか?」

「夢であることに気付く方法として、記憶による明晰夢誘導方が開発されています」

「もう方法が確立されているんですか?」

「はい。レム睡眠でも覚醒時のように脳が機能していることから、これを利用して悪夢治療を行っている事例があります。この方法はPTSDによって悪夢を見る患者に有効でした。一九九七年には、悪夢に悩む五人に対して行われ、一年後には四人の症状がほぼ消失し、残り一人も頻度が減少したという報告もあります」

「じゃあ、映もその方法なら……?」

「可能性があります」

「清川先生、映をよろしくお願いします」

「頼まれなくても、彼女は私の患者です」


俺は無表情のまま言った。


「はい」


幸はわずかに口角を上げて、俺に深々と頭を下げて、診察室を出て行った。患者に俺がこだわるのは、おそらく、今の幸のような顔が見たいからだ。患者やその家族が、希望を見つけた瞬間に、その瞳に宿る光り。それは本当に長いトンネルを抜けたかのような顔になる。特に精神的な病の場合、そのトンネルは長く、暗さも尋常ではない。患者だけでなく、周りの人間も疲れ切った顔で、俺の所にやってくる。しかも精神を病んだというだけで、差別の対象になる。治療が上手くいったからと言って、全てが解決するわけではない。それでも俺は、かすかな光を見るために、ここに存在している。俺の存在価値は、患者の存在なのだ。

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