40.誤差の範囲内


「いや、五年ほど前、近くの美大で獏を描きそうな奴を探して、見つけたのが中島幸という学生だった。ポスターを見て、利用しようと観察していた。中島幸に恋人がいることも、知っていた。だから黒森映は最初に悪夢を見てもらおうとした。美大生なら恋人のために絵を描くだろうと思ったから。だが、先に何人か悪夢を見てしまった。誤差の範囲内だが」


 用意周到な計画だったというわけだ。それでも誤差が出た。データの範疇で言うならば、他の三人は間違いなく誤差だっただろう。森崎には、人間を個人として見るということすらできなくなっていたのだ。その「誤差」で、どれだけ人が傷つき、苦しみ、痛みを抱え、不安になり、悲しんでいたかなど、考えられなくなっているのだ。それは人間の根幹的なところが、すっぽりと抜け落ちているように思えた。学問そのものに取りつかれたように。もしくは、自らが生み出した怨嗟に囚われてしまったように。


「俺の所には、仮病で入院したんだな?」


 俺を利用したんだな、という言葉は出て来なかった。俺は、化け物と対峙しているのだ。人間の皮をかぶりながら、人間にはなり切れず、かといってもう化け物にもなれないまがいものの化け物だ。人間ではないから、人間の感情は理解できず、化け物にもなりきれなかったから、その力だけを持て余している。何て醜く、悲しい化け物だろう。まるで、夢を食べるという伝説上の化け物みたいだった。


「そうだよ。どんな状態になるのかは見当がついていたからな」

「入院して、黒森さん以外と接触して、観察していたのか?」

「そう。退院後の方が、重要だったから」


 つまり、俺に病気が治ったと勘違いさせ、人を殺させる方が重要だった、という意味だ。俺は森崎にとって、ただの手の上で転がされるコマの一つだった。


「獏を拡散させたのは?」


 あれだけ約束したじゃないか。俺はお前を信用していたから、コピーを渡したというのに。それとも、信用した俺が馬鹿だったのか? 俺は最初からお前に利用されるためだけに動いていた、ただの駒なのか。お前にとって俺はそれだけの価値しかなかったのか。俺はお前を信じて、慕って、尊敬して、憧れて、誇りにさえ思っていたのに。


「もちろん俺だよ。四人の経過から、世界に病を同時リリースした。SNS社会の賜物だよ。一度拡散したものはもう、完全に消すことは不可能に近いからな」


 聞きたくない、と俺は自分の両耳をふさいで、うずくまりたかった。しかし俺はそれができなかった。デジタルタトゥーという言葉が浮かぶ。文字通り、デジタル化され、拡散されたものは、無責任な発信者が削除したとしても、ネットの海に漂い続ける。つまり、永遠にこの病を根絶することはできない。


「世界中の人々が苦しみ、罪のない人が殺人を犯すことになる」

「処罰は出来ない」


 俺は溜息を吐いた。そういう問題ではないのだと言っても、もう無駄なのだろうな、と思った。俺が言いたかったのは、お前の保身の問題ではなく、人が人を無意識に殺さねばならないという問題についてだったのに。お前の想像力は、良心と共に失われたのか。病棟で森崎は、「悪夢病」の患者たちを近くで見ている。それぞれが嘆き、苦しむさまを、肌で感じることも出来たはずだ。そして想像などしなくても、人を無意識の内に殺してしまうことの恐ろしさも、理解できるはずだ。そこには倫理的な問題よりも根源的な、罪悪感や処罰感情などが生まれ。より一層患者たちを苦しめることになる。他者をただの情報源としか見ていない森崎は、ただそれだけで研究者失格だ。何を語ろうとも、他者への配慮がなければ、薄っぺらく、空虚に響く。


「お前、三年前に離婚してるな。夫の名字をそのまま使っていたんだな?」


 本当はお前のプライベートなんて、知りたくなかった。でも、そうしなければ何故三年前に出版された本が、今になって急に流通し始めたのかが不明のままになってしまう。俺は刑事でも探偵でもない。ただの精神科医だ。患者の家族構成は治療にとって重要だが、患者がどうしても話したくない場合や、隠していることについて、根掘り葉掘り厳しく追及することはない。俺にお前とその旦那について調べさせるなんて、残酷なことだ。しかしこのことをもし今のお前に伝えても、その残酷さを理解できないだろうな。


「それの何がいけない?」

「何の問題もないよ。ただ、睡眠遊行を装って元旦那さんを殺すのは、犯罪だ」


 もう、あの居酒屋の時には戻れない。二人で酒を飲んで気軽に話すことも、もうない。あの時の情報交換のように、黒か白か、グレーかどうかなんて、考えることもない。森崎はもう既に黒い側に立っている。越えてはいけない一線を、越えてしまっている。


「遊行睡眠状態だったか、そうでなかったか、誰が判断できる?」

「少し、お前の周辺を調べたが、円満離婚じゃなかったらしいな」


 子どものいない二人が、何故円満に離婚できなかったのか。それは、お前に経済力がなかったからだ。学問と言うものを見失ったお前は、働くどころの騒ぎではなかった。そんなお前は夫とケンカが絶えなくなった。しかし金銭的に余裕がなかったお前は離婚を拒否した。さっき言っていた、「研究のために借りた金で押しつぶされる先輩」とは、お前自身のことでもあったんだろう。研究にはお金がかかる。何千万も借金をしたという話を、俺も修士時代によく聞いていた。


「なるほど。俺に殺害の動機があったと言いたいんだな?」

「そういうことだ。そして判断だってつくし、罪にも問える」


 森崎は鼻で笑う。


「人は通常とは違った行為をした場合、やはり通常とは異なる行動をとってしまうものなんだよ」

「御忠告ありがとう」

「文系研究発展のためなら、元夫殺害も、誤差の範囲内か?」

「恨みはあっても、殺意はないよ。俺は純粋に学問のためにやったんだ」

「じゃあ、寝具メーカーから助成金を得た時に申告しなかったのは何故だ?」


一瞬、森崎の目が見ひらかれたが、すぐに微笑に変わる。


「すごいな。そこまで調べられるなんて、思ってなかったよ。研究にはお金がかかる。少なからず、皆やっていることだよ」

「お前、卑怯者だったんだな」


 その単語を人に対して使うことになるとは、思ってもみなかった。それも、自分の大切な人に対して、使う日がこようとは、時間の流れは本当に残酷だ。


「卑怯?」


 森崎の俺を見る目が、見たことのない生き物を見ている目つきに変わる。そして森崎は訳が分からないと言うように、首を傾げた。


「ある時は研究のため、ある時は世界のためと大義を語るくせに、やっていることは、大手寝具メーカーと金儲け。いつからそんな小悪党に成り下がったんだ? お前には、似合わないよ」


 それは俺の幻想だったのかもしれない。森崎に似合うのは、正義であり、希望であり、向上心であり、いい意味での野心だと、俺が勝手に決めつけていたのかもしれない。だから「似合わない」という言葉は、適切なものではない。


「何とでも言え。世界はこれで文献研究の大切さに気付くだろう。その結果俺が汚名を着るなら、本望だよ」

「お前、変わったな。居酒屋で俺と謎解きしていたお前は、すごく楽しそうだった。純粋に、知的ゲームを楽しんでいるようだった」


 いや、変わったのは俺の方かもしれない。俺の見方が変わっただけで、実は森崎は本質的に何か問題を抱えていて、それを外に出さなかっただけかもしれない。「変わった」と言えるほど、俺は森崎について知っているわけではない。


「俺を変えたのは、世界だよ」


 寂しそうに、森崎は笑う。俺は患者のために鬼になる覚悟でいる。黒森さんのような被害者を二度と出すべきではない。分かっていたが、声が震えた。その言葉を森崎に言いたくなくて、躊躇する自分がいる事が滑稽だった。


「自首しろ、則田」

「警察にどう説明する? 夢を操って人を殺させました、とでも? そんなものは誰も信じないよ、ぼんぼん」


 森崎――、旧姓則田透がそう言った瞬間、闇の中から声がした。まるで、闇そのものが声を荒げたかのような、憎しみのこもった声だった。俺はその声に聞き覚えがあったが、そんな汚い言葉や激しい口調を、その青年が使うことを想像できなかった。


「ふざけるな!」


 薄暗い中から現れたのは、病院にいるはずの中島幸だった。病院が用意した薄手のパジャマに、公立病院の名前が入ったスリッパといういでたちだった。この寒空の中、明らかに悪目立ちしていただろうに、どうやってここまで来たのか。タクシーと電車を使えば、病院からこの県立図書館まではそう遠くはないが、どこかで怪しまれなかったことが奇跡的だった。


「抜け出して来たのか?」


 俺は溜息をついて頭を抱えた。これで公立病院を俺は完全に敵に回したことになる。きっと公立病院では、俺が幸を車で連れ出したと考えるだろう。そんな俺に幸は目もくれない。幸が見据えていたのは、則田だけだった。


「独りよがりの暴論吐きやがって! 何が世界のための研究だよ? 映が苦しんでいた時の表情や言葉を見て、聞いてからものを言え! 元夫を殺したかったら、勝手に自分で殺して刑務所行けよ。金が欲しけりゃ、誰だって働くしかないんだ! 自分で選んだ道で、自分の限界感じたからって、逃げてきただけのくせに、何言ってんだよ、馬鹿野郎!」


 閉鎖病棟で見た穏やかな青年の姿はもうそこにはなかった。則田の首を締め上げるように、則田のシャツの襟をつかんで怒りをぶつける。


「中島、幸……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る