39.目には見えない
「なあ、ぼんぼん。精神って目に見えるのか?」
「見えるわけないだろ」
いきなり話を振られて、動揺した。吐き捨てるような口調になったのは、精神の状態が肉眼で見えたなら、どんなに診察がやりやすいのかと常々思って来たからなのかもしれない。ここで、森崎の議論は切り替わる。
「精霊だって、見えるわけじゃない。じゃあ、細菌や細胞は、目に見えるのか?」
「顕微鏡を使えば、見える」
「そう、肉眼では見ることはできない。神様だって見えない」
「何が言いたい?」
俺は子供でも分かりそうな当たり前の質問の数々に、苛々していた。しかし次の森崎の言葉に、瞠目することとなる。
「同じ目に見えない物を扱いながら、どうして研究の待遇に差ができる?」
「それは……」
俺は、答えに詰まった。確かに、いつから日本人は科学偏重気味になったのか。幽霊は目に見えないからいないと決めつける一方で、何故同じく目に見えない病原体を恐れるようになったのか。顕微鏡を使って目に見えるからか。その顕微鏡に何か仕掛けられていて、全くこの世に存在しない物を見せられているという可能性を、その危険性を、いつから考えなくなったのか。大学時代の授業を思い出す。臓器移植がカニバリズムと変わらない行為だと、知らしめたあいつの顔を思い出す。人間は良くも悪くも、視力に依存している生き物だ。見えている物を信じ、見えないモノは信じない。可視と不可視を常に気にして、顕微鏡や望遠鏡を発明して可視化の範囲を広げてきた。しかしそれも、結局は視力偏重主義なのかもしれない。そうは言っても、人間は蛇のように赤外線を見ることはできない。人間の視力が優れているわけではないのに、人間は道具を使った視界だけで全てを論じている。もしかしたら、則田が言いたいのは、そう言うことなのかもしれない。科学偏重主義は、視力偏重主義に通じている。だから、現在の人間のように奢っている。そして文系のように目に見えないモノを扱うことには、すぐに反感を持ち、評価しない。
「俺は文系の研究分野発展のために、病を作って見せただけだ。もっとも、病を発見してくれたのは、お前たち医師とメディアというわけだったが」
俺は、できれば森崎を助けるつもりでいた。救いたいと思った。しかし何も言い返せなった。森崎は、東京の大学院で、地獄を見たに違いない。それは他人から見れば、ただの残酷な現実だったのかもしれない。だが森崎はその現実に戦いを挑み、破れたのだ。他人が挑もうともせず、見てみぬふりをしてきた現実に、森崎は挑んだ。変えようと努力した。寝食を忘れ、たった一人で、知識と経験だけを武器として、世界を変えるために奔走したのだ。しかし、頑張れば頑張るだけ、絶望が返ってくるという社会のシステムに気付いてしまった。ある者は「出る杭は打たれる」という諺で返しただろう。またある者は「諦めろ。お前の力不足だ」という厳しい言葉を投げつけただろう。そんな中で、研究を手放した森崎のことを、世間は嘲笑しただろう。「身の程知らずのイカロスだ」と、後ろ指をさしただろう。今、おそらく森崎が感じた絶望とは全く違う絶望を、俺は感じている。無力感と絶望がこんなに似ていることに、今、気が付いた。
「中島幸が、獏を描いたのは、偶然だったのか?」
俺はもう、怒りに任せて叫ぶ気にもならなかった。
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