39.目には見えない

「人間は二つの時間に支配されている。起きている時間と、眠っている時間だ。しかしもしも、眠りながらにして起きている時間と同じように時間が使えたら?」

「そんなことは無理だ。大体、臓器移植の専門だったお前が、どうして睡眠に手を出した? しかも、文系的にではなく!」

「そこだよ。文系の学問にはお金がかかる。でも、研究費はそうそう得られない。文系にはその価値について説明を求める財団や企業が、理、工、医の分野には自ら投資する。不公平だと思わないか?」

「それで復讐か? それが本当の目的なのか?」


俺の頭に真っ先に浮かんだのは、自分を追いやった「学問そのもの」への復讐だった。文系の学問をないがしろにすれば、恐ろしいことができるという脅迫。だから睡眠と言う人類にとって国も民族も関係なく、普遍的で関心が高いものを利用して見せたのだ。


「ぼんぼんには分からないだろうな。俺は研究のために借りた金で押しつぶされる先輩を、何人も見てきた。これは復讐ではなく、世界が文系の研究に目を向ける好機なんだよ」

「チャンス、だと?」


森崎はうなずいて、俺に問う。


「そうだよ。なあ、ぼんぼん。精神って目に見えるのか?」

「見えるわけないだろ」

「精霊だって、見えるわけじゃない。じゃあ、細菌や細胞は、目に見えるのか?」

「顕微鏡を使えば、見える」

「そう、肉眼では見ることはできない。神様だって見えない」

「何が言いたい?」


俺は子供でも分かりそうな当たり前の質問に、苛々していた。しかし次の森崎の言葉に、瞠目することとなる。


「同じ目に見えない物を扱いながら、どうして研究の待遇に差ができる?」

「それは……」


俺は、答えに詰まった。確かに、いつから日本人は科学偏重気味になったのか。幽霊は目に見えないからいないと決めつける一方で、何故同じく目に見えない病原体を恐れるようになったのか。顕微鏡を使って目に見えるからか。その顕微鏡に何か仕掛けられていて、全くこの世に存在しない物を見せられているという可能性を、その危険性を、いつから考えなくなったのか。大学時代の授業を思い出す。臓器移植がカニバリズムと変わらない行為だと、知らしめたあいつの顔を思い出す。


「俺は文系の研究分野発展のために、病を作って見せただけだ。もっとも皮肉なことに、病を発見してくれたのは、お前たち医師とメディアというわけだったが」


俺は、できれば森崎を助けるつもりでいた。救いたいと思った。しかし何も言い返せなった。森崎は、東京の大学院で、地獄を見たに違いない。それは他人から見れば、ただの残酷な現実だったのかもしれない。だが森崎はその現実に戦いを挑み、破れたのだ。他人が挑もうともせず、見てみぬふりをしてきた現実に、森崎は挑んだ。変えようと努力した。寝食を忘れ、たった一人で、知識と経験だけを武器として、世界を変えるために奔走したのだ。しかし、頑張れば頑張るだけ、絶望が返ってくるという社会のシステムに気付いてしまった。ある者は「出る杭は打たれる」という諺で返しただろう。またある者は「諦めろ。お前の力不足だ」という厳しい言葉を投げつけただろう。そんな中で、研究を手放した森崎のことを、世間は嘲笑しただろう。「身の程知らずのイカロスだ」と、後ろ指をさしただろう。今、おそらく森崎が感じた絶望とは全く違う絶望を、俺は感じている。無力感と絶望がこんなに似ていることに、今、気が付いた。


「中島幸が、獏を描いたのは、偶然だったのか?」


俺はもう、怒りに任せて叫ぶ気にもならなかった。


「いや、五年ほど前、近くの美大で獏を描きそうな奴を探して、見つけたのが中島幸という学生だった。ポスターを見て、利用しようと観察していた。中島幸に恋人がいることも、知っていた。だから黒森映は最初に悪夢を見てもらおうとした。美大生なら恋人のために絵を描くだろうと思ったから。だが、先に何人か悪夢を見てしまった。誤差の範囲内だが」


用意周到な計画だったというわけだ。それでも誤差が出た。データの範疇で言うならば、他の三人は間違いなく誤差だっただろう。森崎には、人間を個人として見るということすらできなくなっていたのだ。その「誤差」で、どれだけ人が傷つき、苦しみ、痛みを抱え、不安になり、悲しんでいたかなど、考えられなくなっているのだ。それは人間の根幹的なところが、すっぽりと抜け落ちているように思えた。


「俺の所には、仮病で入院したんだな?」


俺を利用したんだな、という言葉は出て来なかった。俺は、化け物と対峙しているのだ。人間の皮をかぶりながら、人間にはなり切れず、かといってもう化け物にもなれないまがいものの化け物だ。人間ではないから、人間の感情は理解できず、化け物にもなりきれなかったから、その力だけを持て余している。何て、悲しい化け物だろう。


「そうだよ。どんな状態になるのかは見当がついていたからな」

「入院して、黒森さん以外と接触して、観察していたのか?」

「そう。退院後の方が、重要だったから」


つまり、俺に病気が治ったと勘違いさせ、人を殺させる方が重要だった、という意味だ。


「獏を拡散させたのは?」


あれだけ約束したじゃないか。俺はお前を信用していたから、コピーを渡したというのに。それとも、信用した俺が馬鹿だったのか? 俺は最初からお前に利用されるためだけに動いていた、ただの駒なのか。お前にとって俺はそれだけの価値しかなかったのか。俺はお前を信じて、慕って、尊敬して、憧れて、誇りにさえ思っていたのに。


「もちろん俺だよ。四人の経過から、世界に病を同時リリースした。SNS社会の賜物だよ。一度拡散したものはもう、完全に消すことは不可能に近いからな」


聞きたくない、と俺は自分の両耳をふさいで、うずくまりたかった。しかし俺はそれができなかった。


「世界中の人々が苦しみ、罪のない人が殺人を犯すことになる」

「処罰は出来ない」

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