七章 夢

38.世界は、変えられない。

 今日の仕事を終えた俺は、白衣をハンガーに掛け、病院を後にした。白衣の下はいつも普段着だった。スーツを白衣の下に着てくる人もいたが、それが権威づけのように感じて、俺は苦手だった。俺は他人の心と向き合うためにも、自分がリラックスできるかっこうでいたかった。車に乗り込むと、いつになく車内はひんやりとしている。ただ、手が震えているのは、寒さのためではない。緊張で手が小刻みに震えているのが分かった。いつからこんなことで震えるような弱気な人間になったのか、と自嘲がもれる。俺は目を閉じて、溜息を一つ吐き、ハンドルを握り直す。緊張と、武者震いの両方だと、俺は自分自身に言い聞かせ、アクセルを踏んだ。


 夕闇の中で車を走らせ、俺が向かったのは、閉館時間間際の県立図書館だった。県立の図書館が、こんに遅い時間になるまで開いているとは、今回のことで調べるまで、正直知らなかった。図書館内は、薄暗くてひんやりとした空気が満ちている。そんな誰もいない図書館を有する建物は、鄙びた水族館に似ていた。中にはもうほとんど人がいなかった。後一時間ほどで閉館だから、残っている人に司書が声をかけて帰宅を促した後かもしれない。俺は荷物をコインロッカーに預けることもせず、カウンターの前に立った。若い男が怪訝そうに俺を見上げる。閉館間際に、ロッカーも利用しない利用者に、腹を立てているのかもしれない。盗難防止のため、ここの図書館ではロッカーで荷物を預け、透明なビニール鞄に貴重品を入れて持ち歩くのが規則だった。男にはまだ幼さが残る。もしかしたら大学生のアルバイトかもしれない。それとも研修中の新米か。


「司書の森崎さんはいらっしゃいますか?」


 俺が物腰柔らかく言って笑顔を見せると、男は完全に警戒を解いた。ただそれだけで、森崎が、少なくてもこの男にとって好意的な人物だと分かる。男は納得したような顔をして、「少々お待ちください」と言って、カウンターの奥に消えた。「森崎さん、お客様です」という男の小さい声に対して、女の声が返ってきた。どうやら女は、先ほどの若い男を先に帰らせようとしているようだ。その間にも、利用者が一人、また一人、と帰っていく。近くには高校もある。受験生なのか高校生が多かった。


「じゃあ、確認して、電気だけ消して帰りますよ」


 女の帰宅を促す言葉に、男の嬉しそうな声がそう応じて、カウンターの中から男が出てくる。俺に対して頭を軽く下げた男は、「今来るそうです」と言って駆けていく。軽快な足音が二階に上がっていく。県立と言うだけあって、蔵書数がけた違いに多い。書籍が二階の方まで本で埋め尽くされている。二階は郷土資料と絵本の配下になっていると、図書館の地図が示していた。しばらくして、二階の照明がブロックごとに消えていく。もう二階には誰もいなかったのだろう。森崎はまだ出て来ない。まるで息をひそめて、何かを待っているかのように、物音一つ立てなかった。それは水中から水面に落ちてくる餌を静かに狙う、獰猛な肉食魚のようだ。暗くなった二階から男が降りてきて、一階の奥に消えたかと思うと、またブロックごとに照明が消されていった。暗くなった図書館の中で、カウンターとその前だけが、煌々と明るかった。冬の日照時間は短い。夕闇はもう既に、夜の闇に溶けて消えていた。あたかも生き物がいない巨大な水槽の前に立っている様だと、俺は思った。「お疲れ様でした」という声がして、男は黒いリュックを背負って、図書館から去って行った。帰り際に、男は俺に軽く会釈した。俺もこれに返す。おそらく、カウンターの奥に残っているのは、森崎だけだ。いや、もしかしたらこの建物の中に残っているのは、森崎だけなのかもしれない。


 男の足音が消えると、こつこつという硬い足音が、近づいてきた。カウンターの奥のドアがわずかな軋みと共に、ゆっくりと開かれる。一人の女がカウンターの奥から出て来た。チェックのストールを身にまとい、首からネームプレートを下げている。そこには「森崎透」と印字されていた。ベージュのシャツに、紺色のフレアスカートをはいていた森崎は、思ったよりも華奢な体つきをしていた。しかし、今の俺にはそんなことは関係ない。日頃患者に診察が遅いだの、言うことが失礼だのと、罵声を浴びせかけられても、怒りなど覚えたためしのない俺が、今日は明らかに腹を立てていた。


「どうして、お前が司書なんかやってんだよ?」


たっぷりと皮肉を込めて、俺は森崎に言った。


「東京と違って働く場所が少なくてね。司書だって立派な職業だよ」


 森崎は「それとも、職業差別か?」と小首を傾げる。そのきれいに形作られた赤い唇は、笑うように歪んでいた。ファンデーションもアイシャドウも、作り物のようで、俺は人形と話しているような気分になった。俺は震える唇をかみしめて、拳を握っていた。口の中に、血の味がするほどだった。こんなところで、こんな形で再会するとは、夢にも思わなかった。


「でも、司書には世界の常識は変えられない」


 いや、変えられるかもしれない。例えば、無名の本をある地方の小さな書店が、力を入れて売り出したところ、全国的なベストセラーになったことがある。これはある意味において、世間の目をその本に集中させることで、小さな世界を変えたと言えるだろう。だが、森崎が目指したのは、「ある意味で」とか、「世間的に」とか、そう言った意味の世界ではない。本当の世界の常識を変えたかったのだ。森崎は鼻で笑ってうなずいた。そして、真っ直ぐ見つめる俺の視線を受け流すように、視線を移し、「そうだね」とつぶやいた。その表情は俺の知らない女の顔だった。悲しげでいて妖艶で、散りゆく桜、もしくは降り始めの雪を思わせた。こんなか弱そうな森崎を、俺は知らない。


「世界の常識の壁は思った以上に高くて、厚かったんだ」


 俺は、その言葉に絶望と諦観を読み取った。力強く、前に進んでいた優秀な若い森崎を、何がそんなふうにしたのか。世界の常識の壁の高さや厚さを、森崎が見誤ったとは思えない。その高さも厚さも、知っていて、ひたすらに上を目指していたのが、森崎だったはずだ。


「どうして、お前がこんなことを?」


 怒りに任せて、叫びそうになるのを、俺は必死にこらえた。


「何のことだ?」


 この森崎の一言で、俺の怒りはピークを迎えた。森崎自身、自分が何をやったのかはもう分かっているはずだ。それなのに、こうしてしらを切られるとは思っていなかった。何より、森崎が俺にそんな言葉を投げかけること自体、想定外だった。


「お前! 自分が何をやったかぐらい、分かっているだろう⁈」

「何を言っているんだ? 俺はお前に謎解きのヒントをやったじゃないか」

「俺を、ミスリードするために、だろ? 解決できる病だと思わせるために、だろ?」


 そう自分で言って、俺ははたと気が付く。ちょっと待て。おかしい。確かにミスリードして、俺に病の解決方法を教えたのは、目の前にいる女だ。しかしそれと同時に、俺たちは本当の解決策につながる物も得ている。あの本の情報だ。あの本の情報がなければ、俺とあの青年は、本の拡散や絵の拡散の意味に気付けなかった。つまり、この女の行動は、矛盾している。隠れながらも、見つけて欲しがっているような感覚が伝わる。まるで子供の鬼ごっこで、最後まで見つからなかった子供のような。


「お前、まさか、見つけてほしかったのか? 止めて欲しかったのか?」


 森崎は俺の言葉の最後の方にかぶせるように、言いきる。まるで、たった一筋の希望に縋るような声になる。そうであってほしいと、思わず願ってしまった。森崎の中にはまだ良心の呵責があって、森崎自身も俺に今回の事を見つけてもらい、出来るなら止めて欲しかったのだと。そして、見つけてもらい、止めてもらうために、俺を適任者として選んでくれたのだと。


「今度こそ、世界を変えるんだ」


 それは、固い意志を感じさせる言葉であると同時に、狂気に満ちていた。背筋に虫が這っているように、ぞわぞわとする。


「犠牲者を出してもか?」

「お前がそれを言うのか? 医学は一体何人の人間を死なせれば、世界を変えられる? どうやって新しい薬を作る? 最終的には人体実験だろ?」


森崎がまとう狂気に、俺はもう限界だった。


「抽象的な事じゃなくて、もっと具体的に説明してくれよ! お前は一体、何がしたいんだ? どうして俺の患者にあんなひどいことを?」

「人間は二つの時間に支配されている。起きている時間と、眠っている時間だ。しかしもしも、眠りながらにして起きている時間と同じように時間が使えたら?」

「そんなことは無理だ」


人間はイルカではない。人間の脳は確かに他の動物より大きいかもしれないが、他の動物よりもよく機能してくれるわけでもない。イルカが脳を半分ずつ眠らせるようなことは、同じ哺乳類でも人間にはできないのだ。何故ならイルカは水中で睡眠をとるため、脳を完全に眠らせてしまうと、窒息して死んでしまうからだ。陸に上がって完全に肺呼吸になった人間には、もはや必要のない機能だ。


「大体、臓器移植の専門だったお前が、どうして睡眠に手を出した? しかも、文系的にではなく!」

「そこだよ。文系の学問にはお金がかかる。でも、研究費はそうそう得られない。文系にはその価値について説明を求める財団や企業が、理、工、医の分野には自ら投資する。不公平だと思わないか?」

「それで復讐か? それが本当の目的なのか?」


 俺の頭に真っ先に浮かんだのは、自分を追いやった「学問そのもの」への復讐だった。文系の学問をないがしろにすれば、恐ろしいことができるという脅迫。だから睡眠と言う人類にとって国も民族も関係なく、普遍的で関心が高いものを利用して見せたのだ。


「ぼんぼんには分からないだろうな。俺は研究のために借りた金で押しつぶされる先輩を、何人も見てきた。これは復讐ではなく、世界が文系の研究に目を向ける好機なんだよ」

「チャンス、だと?」


森崎はうなずいて、続けた。


「資本主義体制下では、文化は余分な装飾のようなものだとされている。つまり、人間の生命存続に関わらないお飾りというわけだ。多くの文化人類学者は、このように世間一般に見られていることを自覚しているから、恐ろしい『文化』という語句を使わない。そうでなければ、意図的に『文化』という言葉を避けている。しかし文化人類学者が文化への関りを捨てるのであれば、他に何をするって言うんだ? 人類学は科学に対して異議を唱える必然性はないが、科学主義に対しては抗議する理由があるんだ」


 はっきり言って、議論になると俺は森崎についていけなくなる。森崎が言っていることは一体どういうことなのか。それを見透かしたように、森崎は言った。


「科学がいかに文系の議論に左右されてきたのか、という書籍もある。実際新しい伝染病のパンデミックが起きた時、召集されたのは医系の科学者たちだったが、決定権は政治家にあった。政治は文化であり、文化は政治だ。つまり、最終的に文化が医系の議論を元に、物事を決めていったんだ。だから、文系のことを何も知らないくせに、お飾りだとか趣味の世界だとか言っている奴等を、俺は許すことはできない」


 そう言って、森崎であったはずの則田は俺に問う。




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