41.思わぬ伏兵

「中島、幸……」


俺はぽかんと口を開けて、幸の言い分を聞いていた。俺も研究に近い立場にいて、昔の則田を知っているから、則田のペースに乗せられ、同情してしまっていた。しかし一般的な常識を持った人間の感情論に照らし合わせれば、則田に同情の余地などありはしないのだ。俺は幸の言動を目の前にして、その当たり前のことに、心臓を射ぬかれた心地がした。論理は冷静さを求められる。だから、俺も則田も、幸のように感情的になることはなかった。知識あっても常識なし、とはよく言ったものだ。幸のこの行動こそが、人間の常識だった。俺と則田は、そんなことすら忘れていたのだ。お互い、感情を表に出すことが難しい歳で、立場だった。しかし、人間は感情を解放してもいいのだと、幸が教えてくれた。俺は、怒ってもいいのだ。憤りを感じるのも当然なのだ。悲しんで、嘆いて、喚けばよかった。そうしていたら、則田も「森崎楓」にならずに済んでいたのかもしれない。


「しぶとかったね」


顔を真っ赤にしている幸に対して、則田はどこまでもポーカーフェイスだ。


「やっぱりあの無言電話は、お前か? 気味悪いことしやがって!」

「居酒屋で、ぼんぼんが置いて行ったスマホから抜いたんだよ。そして、言う通りだよ。俺はただの落ちこぼれだ。何にもなれなかった、抜け殻でしかない」

「は? 何開き直って、わけわかんねぇこと言ってんだよ? お前は生まれてから死ぬまで、ずっと則田透だろうが!」


俺は、思わず笑ってしまった。そして則田もつられて笑った。確かにそうだ。人間は名前を与えられた瞬間から、その名前を個人のものとして生きていく。どんな職業に就こうと、その職業はただの肩書でしかない。自分を証明するのは、自分の名前だけだ。だから、「何ものにもなれない」のは、当然なのだ。則田は、則田透にしかなれない。名字が変わっても、その存在自体は変わらないのだ。


「バカと天才は紙一重とは、言ったもんだな」

「清川先生まで、何言ってんすか?」


幸は納得いかない様子で、やっと則田の襟を放した。


「悪い、悪い。と、言うわけで、則田、自首しろ。たぶん彼は今までのやり取りを録音していただろうから」


幸はボイスレコーダーを取り出す。則田の表情が固まった。そして長く息を吐き出して、笑った。


「思わぬ伏兵がいたものだな」


則田はそうため息交じりに言って、バッグを手にする。


「今日は疲れた。警察には明日行ってくるよ。それでいいよな、ぼんぼん?」


まるで、近所のスパーにでも行くような口調で、則田は俺に口約束した。


「ああ。俺としては、早い方が助かるがな」


則田はバッグを肩から掛けて、「じゃあな」と言って図書館を出て行った。これで則田とはもう二度と会えないかもしれないと言うのに、何ともあっさりとした別れだった。俺は則田の背中を、ずっと見ていたが、やがてため息をついた。「終わった」と思うのと同時に、「これからだ」という想いが強くなっていた。まずは手始めに、この闖入者をどうにかしなければならないだろう。


「俺も帰りたいが、病院まで送るよ」


俺は幸の肩を叩いた。


「え? 何で俺なんですか? 則田は?」

「君、公立から抜け出して来たんだから、今頃病院では大騒ぎになっているよ。少しは入院患者の自覚を持つんだな」


俺は笑いをかみ殺しながら言ったが、幸は則田のことを心配していた。


「止めなくていいんですか? 自殺とか逃げたりとか、しないんですか?」

「自殺? あいつが?」


今度こそ、俺は笑った。自殺するほどの人間が、今回のような事を起こすだろうか。良心の呵責なんてもので自殺するほど、則田の精神力は柔ではない。それに、きっと則田にはもう、日本中いや、世界中を探しても逃げ込める場所などないのだ。則田はおそらく、背水の陣で今回の事態を引き起こしたのだろうから。


「テレビドラマの見過ぎだ」


俺はあきれ顔でそう言った。幸はまだ怒りが収まらない様子だった。


「何で笑うんですか?」

「いや、若いって素晴らしいと思っただけだよ」

「バカにしないで下さい」

「ほら、病院帰るぞ」


俺はまだ興奮気味の幸を自分の車の助手席に押し込んで、公立病院に向かった。やはり公立病院のスタッフ一同は、俺が幸を連れ出したと思っており、俺はこっぴどく怒られることになった。

 則田の思惑は、おそらく失敗するだろう。コピーした獏は、所詮コピーだし、さらにデータ化されれば劣化する。それに獏は、幸が患者から受けるインスピレーションから描いたものでなければ、薬としての役割は果たせず、結果として睡眠遊行は発生しない。本によって広がった獏によって、病が増えるだろうが、SNSと違ってまだ歯止めが効く可能性がある。版元を抑え、図書館に本を廃棄してもらえば、確実に本は減る。幸いなことに、自費出版ということで、重版もなく、あまり売れていないようだ。

 則田は後日、大手寝具メーカーから不明瞭な金の流れがあったとして、警察に連行された。実は則田は、東京の大学でそれなりの地位に就いていた。しかし、精神的な病気を理由に、長期休暇をとって、地元で今回の「事件」を起こしたのだ。円満離婚出なかった理由も、則田の多忙の為のすれ違いや、給料格差が背景としてあったようだ。自分の希望が潰えても、後進に夢を託すことが出来なかったのは、自分の学生の質の低下にあったようだ。研究室で、一人で頭を抱える則田の様子が、目に浮かぶ。

それでもわざわざ俺のところに来たということは、「事件」を「実験」の段階で、俺に止めてほしかったのではないかと、考えられる。この考えには、俺の願望も混ざっているのかもしれないが。

 ともあれ、今回の「実験」で、死者は一人も出なかった。そして「悪夢病」も、ピークを過ぎたようだった。俺のところに来る患者も、以前に比べれば減ってきたし、症状も軽い。

 このまま則田が逮捕されれば、俺や幸から見れば別件逮捕となるが、静観するしかない。映は俺と幸の必死の説得と、則田の説明によって、めでたく俺の病院に移され、疑いは晴れた。しかし映は、自ら眠るのを拒んだ。ひどいPTSDの診断をした俺は、幸にも映の状態を伝えた。


「人って、眠らないとどうなるんですか?」

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