2.天才

 そこは天才の集まりのような場所だった。とにかく、特出した個性とずば抜けた感性が、みなぎっていた。若くて、強くて、何より自分の作品のコンセプトをしっかり表現できることに長けた人々が、一心不乱に才能をぶつけ合っていた。私のように浮足立っている人は、いなかった。皆、既に目標があり、地に足がついていた。企画立案から、地元企業とのコラボ企画のアポイントメントや運営までを、一人でこなしていくような、行動力と熱意も兼ね備え、もはや地元にとって即戦力として、迎えられている人も多かった。大学生は「学生」とはつくけれど、もう社会人なのだと痛感させられる。真摯な態度と仕事への責任感に満ちた眼差し、そして真剣な討議が新しい芸術を生み出し、社会に還元され、世界に必要とされるモノが産まれていく。もしかしたら、ここは芸術大学ではなく、芸術企画会社なのではないかと思われるほどだ。対人関係に苦手意識があった私には、そんな熱意も行動力も、まして地元に必要にされる企画力もなかった。まるで皆が手の届かない存在であり、私は幼稚園で成長が止まってしまっていたのかと思うくらいだった。授業内容すら理解できず、私はついて行くのが困難に思えた。一日で多くの課題がいっぺんに出る。それを皆、平然とこなして期限内に提出していく。私はほとんど期限ぎりぎりで、息も絶え絶えで、やっとのことで期限に間に合わせることが常だった。スケッチブックや下書き用のクロッキーを、常に持ち歩いている状態だった。それでも周りの人に追いつくどころか、徐々に置いて行かれるような感覚で、毎日挫折しそうになった。


 そんな中、学内展覧会のイベントポスターを、私が所属するコースの一年生が作ることになった。このイベントポスターは、毎年一年生が作り、学内外に日頃の成果を見てもらう機会でもあった。このポスターに選ばれる人は、本当に才能がある人だと期待されていた。このポスターで採用されたOBの中には、現在某芸術大学の教授を務める人や、世界的に有名なイラストレーターなどがいるという。そんなポスターの企画に、私が所属するコースの一年生全員が作品を提出する。もちろん、その中から採用されるのは、一名のみだ。私はこのポスター展の話しを耳にしたとき、ここは弱肉強食の世界なのだと、改めて思った。入学前に思い描いていた同類や仲間はおらず、皆がライバルだった。脆くも崩れ去った幻想に、鉛筆が止まり、また一枚クロッキーを破り捨てた。自分に才能がないから、余計な事ばかり考えてしまう。そして大学にごまを擦るようなデザインばかりが浮かび、再びクロッキーを破った。同じコースの人ならどう描くかを考え、コンセプトを考え、結局落ち着くのは自己嫌悪だった。大学に提出する期限が迫り、私が提出したのは、小学生の年長が描くような、単純で短絡的な、どこかで見たようなポスターだった。この絵が、同じコースの人々の絵と同じまな板の上で調理されるのが、たまらなく恥ずかしかった。


 当然、私のポスターは採用されなかった。採用されたのは、私には思いつかないような、奇抜な色遣いと構図の作品だった。もはや同じ歳の人が描いたとは思えず、悔しささえ湧いてこなかった。私が審査員だったとしても、これを選ぶだろうという、圧倒的な絵だった。一度イカ墨でカンバスに描いた絵を、わざと破壊し、雑に元通りに戻した後、パソコンで読み込んで文字を浮き立たせたポスターだった。これだけ手間をかけたのに、製作時間はたったの一日で、下書きすらしていなかったと、審査員を務めた先生が解説する。それを私はただ、他人事のように聞いていた。自分がこの絵と比べられていたことなど、頭からすっかり抜け落ちていた。おそらく、このポスターの前で膝を折ったのは、私だけではなかっただろう。構図やアイディアだけでなく、ポスターのためにイカを買って捌き、カンバスに向かうという行動は、誰も思いつかないし、思いついても絶対に作品にできないだろう。奇抜なアイディアが人の目を引き、計算されつくした構図で魅せ、最後はメッセージを心に残す。プロだって、きっとここまでは出来なかったに違いない。暴力的な手法を、パソコンというデジタルと融合させているところも、評価が高かった。全てが圧倒的な力の差を、たった一枚のポスターで見せ付けられたのだ。


 不採用となった他のポスターは、十把一絡げにされてパネル展示されることになった。一方、採用された一作だけが、印刷に回され、市内の文化施設や店の軒先に貼り出されることになった。大学の構内に入った直後出迎える巨大なポスターを見て、私は立ち止まった。学内のライバルや、しのぎを削るような選別や評価など、まるでなかったかのように、その巨大ポスターは堂々と人々を出迎えていた。学生だけでなく、一般の人も多く訪れる作品展。きっと学生だけでなく、一般の人もこの絵に圧倒されるだろう。純粋で好奇心の塊のように見えたそのポスターから、目が離せなかった。私の絵に対する姿勢は、いつの頃から他人の評価だけを気にするようになったのか。絵を純粋に楽しんでいた頃の私の姿は、もうどこにもなかった。いや。そもそも私の絵は、一人の寂しさを紛らわせるだけのものだった。つまりは一人ぼっちの自分という現実から、逃避するだけに描かれてきたものだ。初めから私の絵は、美大生の器には小さすぎたのだ。それなのに、このポスターからは打算的なものは、全く伝わってこなかった。ただ、本当に絵が好きで、描くことを考えるよりも先に手が動いているという雰囲気が、真正面から伝わってくる。天才だ、と私は思った。絵のレベルが軒並み高い美大において、頭一つ分飛び出た人が、私と同じコースに在籍している。こういう人でない限り、絵でお金を得ていくことはできない。私はポスターの下に小さく印字された作者名を目でなぞった。「中島幸」という漢字に、さらに小さい文字で「なかじまこう」とルビがふってあった。男女の区別がつかない名前だと思った。


 私は自分がちっぽけで、価値のない人間のように思えてきた。同じ一年生で、同じコースで、こんなにも遠くにいる人がいる。嫉妬なんて入り込む余地もないくらい、私はその絵が好きだった。小学生の頃を思い出して、涙が出た。私は「痛い女」のままだ。漫画家なんて大風呂敷を広げておいて、結局イラストレーターにすぐに鞍替えして、甘い考えのまま、絵で食べていこうとしていた。才能もないくせに、努力もしない。そんな自分が嫌だった。私は入り口の巨大ポスターに背を向けてトイレに入り、声を殺して泣いた。泣き止んで歩みを進めても、いたるところに中島幸のポスターが張り出されている。まるでポスターに追い詰められるようで、逃げ場がなかった。


 とうとう私は廊下に貼り出されているポスターの前で屈んで、泣いた。他人の刺すような視線が痛い。時々蹴られて、邪魔だと罵声を浴びせられる。男の声や女の声に混じって、男か女か分からない声も聞こえた。一般公開日だから、子供の声や老人の声もした。皆が私を責めている。こんなところで屈んで泣いていれば、通行の妨げになることは、百も承知だ。それなのに、ある男性が、私につまずいて謝ってきた。私のせいで転びそうになって、他人から笑われていたのに、男性は私を気遣った。


「ごめん、えと、気分が悪い? だったら、ごめん」


 私は男性の優しさに、戸惑っていた。遠くにいる男性の知人らしき声が、男性を下の名前で呼んだ。


「おい、幸。何やってんだよ? ナンパか?」

「違うよ。悪い、先行ってて」


 私の脳裏に、小さな文字の羅列が浮かんだ。「中島幸」という文字だ。同名なんて、男女問わずにいるだろう。それなのに私は、この男性がポスターの作者だと直感的に思った。そしてその直感は、当たっていた。


「中島、幸さん?」


 泣きはらした私がそう言って幸の顔を見上げると、幸は渋い顔をして、ポスターを見た。そしておもむろに、廊下に貼ってあったポスターを破り始めた。紙がザザザという悲鳴をあげて、中央部分がなくなった。大部分を失ったポスターは、もう破れた紙屑でしかなかった。幸は口を開けて佇む私を気にも留めず、破った紙を乱雑に丸めて、燃えるごみのゴミ箱に捨ててしまった。そして悪戯が成功した悪ガキみたいに、屈託のない笑顔で私を見た。


「こっちの方が、芸術的で面白いね」

 確かに斬新な芸術作品にも見えなくはないが、これはポスターだ。テープで留めてあった四つの角を残して消えたポスターは、その役割を破棄してしまったかのように見えた。


「怒られますよ?」


本気で私は心配していたのに、本人は全く意に介さず、白い歯を見せて笑った。


「あっちこっちに貼り過ぎだから、一枚くらい許してくれるよ。大体、学校側も悪趣味だ。人の気分を害する絵なんて選んでさ。嫌がらせかよって思わない?」


「気分を害する? 私には才能の塊にしか見えませんけど?」


 遠く高い場所にいるはずだった幸に、意図せずして出会い、私は混乱した。しかも初対面の男性に対して、自分が臆せず話していることが不思議だった。そして、思い当る。この幸という男性からは、他人との壁を感じないから、人見知りの自分でも通常通りに話せているのだと。相手の心に土足で入り込むようなことはせず、距離は適切に取っているが、相手を拒む壁はない。それなのに、とても自然体で、他人を尊重していることも感じられる。こんな人に出会ったのは、初めてだ。才能がある人とは、偏屈で頑固で、ちょっと変わった人だというイメージがあったが、幸はそんなイメージとは真逆だった。


「そうかな? 俺はあの人の絵が好きだったな。誰だっけ? 俺、絵はイメージで覚えられるけど、人名覚えるの苦手なんだ。ほら、この辺りの伝統芸能みたいな名前の人、いたじゃん?」


 幸の言葉に、私の胸はトクンと跳ねて、淡い期待が首をもたげる。私の名前は黒森映。そしてこの辺りの有名な伝統芸能と言えば、一つしかない。


「黒森歌舞伎?」

「ああ、そう、それ! よく分かったね」

「私の苗字、だったもので」


 私が俯いて、赤くなった顔を、セミロングの黒髪で隠すように言うと、幸は大げさなくらい目を丸くした。


「俺のポスターで、気分悪くした?」


 猫のような目が、笑いながら私に問いかける。幸の瞳はカラーコンタクトをしていないのに、普通の人より色が薄かった。元から色素が薄いのか、髪の色も赤茶色で、猫が人間になったようだった。私は慌てて目を擦って、正直に泣いていた理由を話した。


「中島さんとの力の差を感じ過ぎて、現実に打ちのめされました」

「幸でいいよ。ねえ、もしかして、学食行くところだった?」


 私が屈んでいた廊下の先には、大きなカフェテリアがあり、学生からは「学食」と呼ばれていた。私は特に学食に行く予定はなかったのだが、頷いていた。この才能の塊と一緒にいたら、きっと私も感化されて、なかったはずの才能が刺激されるのではないかと言う打算と、憧れの人ともっと話してみたいというミーハーな感情が混在していた。


「じゃあ、一緒に行かない? 話ししてみたいし」

「はい」





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