7.一度なくしたら

 解雇通告の前段階のようなものだった。私は来たばかりの道を引き返す途中、県立図書館に足を向けた。幸に何と切り出せばいいか分からず、私は内定が決まった時の幸の笑顔を思い出しながら、夢占いのコーナーに吸い寄せられていた。何冊か見た結果、私は睡眠についての雑学本と、小説などを借りて、帰宅した。夜遅くに返って来た幸に、私はその雑学本を見せながら切り出した。


「何でそんな本を借りたかっていうとね、私、最近眠れていなかったの。ごめんなさい、黙っていて。でも、怖い夢で眠れなくなるなんて、子供みたいで恥ずかしかったし、その内治ると思っていたし。幸も忙しそうだったから」


私は気怠そうに、しかし早口で言った。


「映、落ち着いて。俺もごめん。映が眠れていないことは、薄々感じてたけど、映が否定したから、黙ってることにしたんだ。ごめんね、映が大変な思いをしている時に」


私は幸の優しい言葉に胸が苦しくなって、子供がするように大きく首を振って泣いた。落ち着いてから、ダイニングテーブルに向かい合って座った。紅茶がおそろいのマグカップから、湯気を立てている。無音と言うわけではないが、静かだった。幸は私が借りてきた雑学本を読んでいたが、すぐに閉じた。幸の猫のような目が、私を映している。


「まず、会社には治療に専念するために、ちゃんと休暇を申請した方がいいと思う」

「もう、私の居場所なんてないわ。そんなことしたら、確実にクビよ!」


ヒステリックな私の反応に、幸は首肯した。幸は誰にでも優しいから、最初から相手を頭ごなしに否定したり、異論を唱えたりしない。育ちの良さからなのか、いつも落ち着いていて、どこか品性を感じる。


「気持ちは分かるけど、社長さんは本当に映を心配してくれているのかもしれない。新入社員じゃなくて、短期のアルバイトを雇っているから」


客観的な事実だけを、幸は優しく述べる。


「それはそうだけど、今のままでもお荷物状態なのに、休むだなんて」

「映。仕事はまた探せるけど、映の体や心は一度なくなったら、もう探せない。少し落ち着いて、冷静に考えてみる方がいいよ。どっちが大切か、分かるよね?」

「仕事だって、私には大切よ。幸だって知っているでしょう? 私が内定をもらうまで、どんなに苦しくて辛い思いをしていたのか。もうあんな毎日はごめんよ!」

「大学への求人が全てではないよ。ハローワークに行って、自分に合った職を探せばいい。大学は業績の関係もあるから、優良企業に多くの学生を入れたいからね」


そう穏やかに言って、幸はマグカップに口をつける。苛立っている自分が稚拙で馬鹿馬鹿しく感じられる。


「もしも映が働くのが辛い時は、俺が大学を辞めて働……」

「それだけは駄目!」


私は幸の言葉を遮り、机を叩いて、叫んでいた。私のマグカップの水面が揺れた。それなのに幸は優しい表情のまま、私の次の言葉を待ってくれていた。


「分かった。明日、会社とちゃんと話をしてくる。早く原因を見つけて治すわ」

「映」


いくぶん、幸の言葉に力が入った。


「早く、じゃないよ。ゆっくり、しっかり、治すんだよ。明日はちゃんと社長さんに話をする。俺も出来るだけ映と一緒にいる。それから、寝具を新しくしてみよう。この本は面白かった。質の良い眠りにするには、自分に合った寝具を使わないとね。『邯鄲の枕』じゃないけど、一理あると思う。ヒーリングミュージックとか、アロマとか、リラックスできるようにしてみようよ」


『邯鄲の枕』とは、私が借りてきた本の中にあった、十八世紀後半の小説だ。唐代の伝記に収められている「沈中期」が原典の作品で、夢を商うという内容だ。夢の長さに応じた値段表を張り出し、夢(至福の時)を長く味わいたいなら、高値の枕でならないといううたい文句で、主人公が新商売を始める。それはまるで、私たちがレンタルDVDを夜に見る感覚だろうか。しかしこんな陽気な小説が紹介されている一方で、悪夢を食べる獏という生き物が登場したり、五臓の疲れから夢を見るという認識が広まったりしたのも、同じころだとされていた。


「分かった。やってみる」


翌日私は会社に赴き、社長と二人だけで話をした。社長は終始和やかな雰囲気を醸していたが、私の話を肯定はしてくれなかった。健康の自己管理がなっていないと釘を刺したうえで、病院の診断書を会社に提出することや、長期間の治療が必要な場合には雇用継続が難しいと伝えられた。私はその条件を飲むことしかできなかった。文具も百円均一で買える時代に、小さな企業が生き残るためには、コストカットは仕方ない選択だろう。そして、一番のコストカットは、やはり人件費なのだ。店の方からは、先輩と新しく入ったアルバイトの人と思われる笑い声が響いていた。店の雰囲気が和やかだと、私は追い目を感じた。私が出社している時には、余裕がなくてぎすぎすした雰囲気だったからだ。ひがみではないが、新しいアルバイトの人は、接客業に向いているのだろう。私は目を真っ赤にして洟をすすっていた。社長の言い方から、おそらくもう私が雇用継続されることがないということが、伝わってきたからだ。

アパートに帰ると、驚きで涙が止まった。アパートは、すっかり模様替えされていて、一瞬、自分が帰る家を間違えたのかと思ったからだ。そしてそこには、大学に行ったはずの幸の姿があった。


「どうしたの? 大学は?」


部屋は全て緑を基調とする物に変わっていた。カーテンも小物も、全て。家電製品は緑色のマスキングテープで飾られ、ベッドは新しくなっていた。しかも、そのベッドを見て私は言葉を失った。大手の高級寝具メーカーのタグがあったからだ。しかもベッドだけではなく、マットレスも布団も、枕も、全てそのメーカーの物だった。総額いくらだったかは、聞く勇気が持てなかった。そんな私の気持ちを見透かすように、幸は笑った。


「これは全部両親のお古だよ。電話で映のことを相談したら、すぐに知り合いの引越し屋を寄こすんだから、俺もびっくりしたよ」

「でも、これ、新品に近くない?」


幸の両親は二人とも公務員で、比較的裕福な家庭だとは聞いていた。しかしそうは言っても、日本屈指の寝具メーカーの物がこれほどそろっていると、圧巻である。


「大学院は一年休学しようと思ってる。今日、教授には話して来たから、事務手続きは明日やってくる。大丈夫。休学であって退学じゃないから」


幸はベッドの隅に腰掛けて、あっけらかんと言ったが、私は開いた口がふさがらない。

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