6.責任を取れ

万年筆の扱いは難しく、中でインクが固まっていたら、分解して洗浄しなければならない。


「申し訳ございません、お客様。こちらでお買い上げいただいた時は黒のインクをお使いだったと思うのですが、その後、インクの色を変えてお使いではなかったでしょうか?」


舌も言葉も噛みそうになりながら、私はマニュアル通りの質問をした。


「紺のインクを使ったが?」

「紺色でございますね。黒のインクと紺のインクが混ざった場合、インクが固まってしまう場合がございます」


この答えも、マニュアル通りで、今の私ができる事はここまでだった。


「少々、お待ちください」


私はそう言いながら頭を下げて、入り口正面のディスプレイをしている先輩を呼んだ。


「すみません。お願いします」


私が小声で言うと、作業中の先輩は一瞬嫌そうな顔をしてから、笑顔でカウンターに入り、声をワントーン上げて「いらっしゃいませ」と柔らかく一礼した。そして笑顔で男性客と話し込み、男性客は笑顔で店を出て行った。


「洗浄してくるから、ちょっとよろしく」


そう言って万年筆を手にした先輩は、店の奥に消えた。困り顔で来店した客を、笑顔で帰らせるのは、やはりプロだと思う。この店に就職した際、言われたことがある。


『入店時のお客様の顔を見なさい。笑顔で入ってくる人がほとんどだけれど、全員がそうではない。難しい顔で入店したお客様を笑顔で帰らせるのが、本当の接客。笑顔で来店されたお客様を、より笑顔で帰らせるのは真の接客』


厳しい言葉だったが、妙に腑に落ちて、感動さえしたのを覚えている。しかし今の自分は、その理想の接客にいまだ近づいたことさえない。いつでも、自分が笑顔になることに必死だ。

 先輩がいない店内で、先ほどから紙の辺りに客が集中している。紙を吟味している様子なので、私は焦った。紙の種類の多さが売りの店なので、紙についての質問が多いのだ。紙の種類については、本の中表紙を思い出せば分かりやすいかもしれない。少しキラキラしているシャイニーや、色が混じり合ったマーブルなど、様々な種類の紙があり、それに色がある。つまり、紙の種類と色の組み合わせは膨大なのだ。私が見分けられる色だけでも、「白」には三種類あった。「白」、「雪」、「象牙」だ。以前、「浅黄色の画用紙下さい」と言われたので、私が指定された紙を持っていくと、急に怒鳴られたことがある。そのまま言えば「バカにしてんのか? 薄い青なんか持ち出しやがって。浅黄だって言ってんだろ?」というものだった。私はこのお客さんが「浅黄」の文字から推測して、「薄い黄色」を想像していると気付いた。謝りながら、色見本を取出し、浅黄は黄色ではなく青っぽい色だと説明した。また、自分の使っている紙と同じものが欲しいが、厚さが分からないというお客さんも、多い。紙の厚さを量る器具があり、グリップを握って離すと紙を器具が挟んで、紙の厚さが分かる仕組みだ。店で取り扱っている紙は九〇キロ、一三五キロ、一八〇キロの三種類で、それより厚いとボール紙になる。キロ数が大きいほど紙は厚くなり、普通のコピー用紙は九〇キロくらいだ。


「すいませーん」


先輩がいない間に呼ばれてしまった。嫌な予感ほどよく当たる。汗と不安で私はもう既にいっぱいいっぱいだ。プールの底に、つま先がやっと届いて何とか呼吸をしている状態だった。


「A4と四つ切って、同じサイズですか?」


私は初歩的な質問に安堵し、首を軽く振って「いえ」と答える。


「A4やB5は、A1とB1という紙がもとにあります。それらを半分ずつにしていったサイズが、A4やB5となります。四つ切と八つ切りは、元のサイズの紙がありまして、それに何回歯を落としたかで大きさが変わります」


私は身振り手振りを交えて説明した。本当はA0やB0というもっと大きな紙があるのだが、この店で扱っている紙の大きさはA1とB1からだった。


「あ、そうなの? どうも」

「はい。また何かありましたら、お声掛けください」


私が一礼してカウンターに戻ると、先輩が戻ってきてカウンターにいてくれた。


「コンテナ、早く片づけて」

「はい。ありがとうございます」


私はプラスティック製のたたんだコンテナを、事務所の外に積み上げた。私がカウンターに戻ると、先輩が出入り口のディスプレイ作りに戻ってしまった。店に入ってすぐの印象は大切だ。単に奥にあった物や新作を並べる事よりも、常にお客さんが「新鮮さ」を感じさせることができるからだ。古いけれど、常に新しい店ということで、常連客が増える仕組みになっている。まだ桜の時期なのに、もう雛祭りに合わせて女の子向けの商品に入れ替えている。女の子だけではなく、女性向けの、ブランドとコラボしたおしゃれなボールペンや、ノートもあった。背伸びしたい女の子を意識してなのか、小さくて扱いが簡単なプチ万年筆が、一番前のケースの中で輝いている。

 そんな事を考えながらカウンターに立っていた私の前に、一人の男性がのそりとやってきて「コピー」とだけ言った。私が「はい」と言うと、男性は三枚の紙をカウンターに置いて、「各三〇枚」といって店を出て行ってしまった。すると先ほど紙を吟味していたお客さんたちが、次々と会計に訪れた。私は忙しさにかまけて、コピーを頼まれたことをすっかり忘れてしまった。男性は昼ごろに再び来店し、レジで財布を開いた。


「いくらだ? 領収書もくれよ。いつも通りでいいから」


そう言われた私は、ここでコピーを頼まれていたことを思い出して、パニックになりながら、頭を下げていた。


「すみません、今コピーするので、少々お待ちいただけますか?」


男性の顔が真っ赤になり、鬼の形相となる。大声で私は男性から叱責されることとなった。


「お前が返事したんだろ! 責任取れ! ふざけるな!」


私が泣きそうになりながら怒鳴られている間、先輩がコピーをそろえて、謝罪しながらコピーを渡した。涙目になっている私に変わって、先輩が顔で対応してくれた。


「二度と来ないからな、こんな店! そんな奴、辞めさせろ!」


そう捨て台詞を残して去って行ったのは、大口の常連さんだったらしく、社長と常務が菓子折りを持って頭を下げに行ったと、後になって知った。私は辞めたいと何度も思った。しかしあの内定のない日々を思い出すと、どうしてもこの店にしがみついていなければならないと思った。私はいつも店のトラブルメーカーで、問題児だった。

 そして、眠らない日々は、さらに続いた。ぼうっとすることが多くなり、集中力は低下した。注意力も散漫となり、仕事が手につかない状態となり、物覚えも悪くなった。そんな中、社長に呼び出され、私生活で何かあったのかとたずねられた。悪夢に悩まされること以外は、平穏な日々を過ごしている。そう答えると、社長は私の代わりに、アルバイトの学生を雇うことにしたと告げた。その学生がいる内に、休むなり病院に行くなりの対処を求められた。

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