6.責任を取れ
私は倉庫に行って、A4のコピー用紙五百枚入り四締めが入った段ボール箱を、二つ抱える。かなり力のいる作業だが、台車は店内では邪魔になる。A4の用紙がスタンダードになってから、コピー用紙はA4が特に売れるようになった。スマホやタブレットが普及した現在でも、コピー用紙の需要はなくならなかった。しかし、学校で紙の教材を使わなくなったら、きっと社会に出てからも使わなくなるのだろう。現在の紙に至るまで、気の遠くなるほどの年月をかけて、私たち人間は文字を書き続けている。粘土板や石版、羊皮紙や竹など、文字に限れば、その媒体は常に変化している。そんな事を考えていたら、段ボールの開け口から箱を破る際に、指を段ボールの端で切ってしまった。カッターや彫刻刀、ハサミや包丁など今までいろんなもので指を切ってきたが、紙は地味に痛くて、段ボールは特に痛かった。紙に血が付くと商品にならなくなるので、ポケットに常備してあるバンドエイドを貼り、一締めずつ重ねて売り場に出す。段ボール箱を潰してゴミ置き場に置き、事務室で折り畳み式のコンテナを持ってくる。中には新商品のシールが入っている。品番と品数を伝票と照らし合わせると、全部合っていた。シール売り場にコンテナごと運び入れ、箱からシールを出して、フックにかけていく。立体的なクラフトシールは、結婚式やお祝いごとに使うために買っていく人が多い。ただ立体的であるために、掛けるのに苦労する。店員泣かせの商品でもある。コンテナをたたんでいると、「黒森さん!」という先輩の鋭い声がした。振り返ると、レジカウンターに男性のお客さんが立っていた。
「すみません。お待たせしました」
私はコンテナを足元に隠して頭を下げたが、お客さんは何も商品を持って来ていなかった。白髪交じりのそのお客さんは、私のネームプレートの新人マークを、じろりとにらんだ。
「君しかいないのか?」
そう言いながら男性は、ポケットから一本の万年筆を取り出した。
「これ、ここで買ったんだが、インクを入れ替えても書けなくなったんだよ。壊れていたんじゃないだろうな?」
万年筆の扱いは難しく、中でインクが固まっていたら、分解して洗浄しなければならない。
「申し訳ございません、お客様。こちらでお買い上げいただいた時は黒のインクをお使いだったと思うのですが、その後、インクの色を変えてお使いではなかったでしょうか?」
舌も言葉も噛みそうになりながら、私はマニュアル通りの質問をした。
「紺のインクを使ったが?」
「紺色でございますね。黒のインクと紺のインクが混ざった場合、インクが固まってしまう場合がございます」
この答えも、マニュアル通りで、今の私ができる事はここまでだった。
「少々、お待ちください」
私はそう言いながら頭を下げて、入り口正面のディスプレイをしている先輩を呼んだ。
「すみません。お願いします」
私が小声で言うと、作業中の先輩は一瞬嫌そうな顔をしてから、笑顔でカウンターに入り、声をワントーン上げて「いらっしゃいませ」と柔らかく一礼した。まるで私に向かって嫌そうな顔をした後とは思えなかった。その一連の言動が、凛としていていかにも「出来る女」を演出している。お客さんも、ぎこちないマニュアルだけの言葉より、先輩のような滑らかな接客の方が楽しそうだ。先輩は笑顔で男性客と話し込み、男性客は笑顔で店を出て行った。
「洗浄してくるから、ちょっとよろしく」
そう言って万年筆を手にした先輩は、店の奥に消えた。困った顔で来店した客を、笑顔で帰らせるのは、やはりプロだと思う。この店に就職した際、言われたことがある。
『入店時のお客様の顔を見なさい。笑顔で入ってくる人がほとんどだけれど、全員がそうではない。難しい顔で入店したお客様を笑顔で帰らせるのが、本当の接客。笑顔で来店されたお客様を、より笑顔で帰らせるのは真の接客』
厳しい言葉だったが、妙に腑に落ちて、感動さえしたのを覚えている。しかし今の自分は、その理想の接客にいまだ近づいたことさえない。いつでも、自分が笑顔になることに必死だ。
先輩がいない店内で、先ほどから紙の辺りに客が集中している。紙を吟味している様子なので、私は焦った。紙の種類の多さが売りの店なので、紙についての質問が多いのだ。紙の種類については、本の中表紙を思い出せば分かりやすいかもしれない。少しキラキラしているシャイニーや、色が混じり合ったマーブルなど、様々な種類の紙があり、それに色がある。つまり、紙の種類と色の組み合わせは膨大なのだ。私が見分けられる色だけでも、「白」には三種類あった。「白」、「雪」、「象牙」だ。以前、「浅黄色の画用紙下さい」と言われたので、私が指定された紙を持っていくと、急に怒鳴られたことがある。そのまま言えば「バカにしてんのか? 薄い青なんか持ち出しやがって。浅黄だって言ってんだろ?」というものだった。私はこのお客さんが「浅黄」の文字から推測して、「薄い黄色」を想像していると気付いた。謝りながら、色見本を取出し、浅黄は黄色ではなく青っぽい色だと説明した。また、自分の使っている紙と同じものが欲しいが、厚さが分からないというお客さんも、多い。紙の厚さを量る器具があり、グリップを握って離すと紙を器具が挟んで、紙の厚さが分かる仕組みだ。店で取り扱っている紙は九〇キロ、一三五キロ、一八〇キロの三種類で、それより厚いとボール紙になる。キロ数が大きいほど紙は厚くなり、普通のコピー用紙は九〇キロくらいだ。
「すいませーん」
紙のコーナーにいた人からの声だった。先輩がいない間に呼ばれてしまった。嫌な予感ほどよく当たる。汗と不安で私はもう既にプールの底に、つま先がやっと届いて何とか呼吸をしている状態だった。万年筆の洗浄は時間がかかるため、ここは私一人で何とか対応しなければならない。
「A4と四つ切って、同じサイズですか?」
私は初歩的な質問に安堵し、首を軽く振って「いえ」と答える。
「A4やB5は、A1とB1という紙がもとにあります。それらを半分ずつにしていったサイズが、A4やB5となります。四つ切と八つ切りは、元は新聞紙サイズで、それに何回歯を落としたかで大きさが変わります」
私は身振り手振りを交えて説明した。
「あ、そうなの? どうも」
最後にお礼を言われたものの、そのお客さんは首を傾げて不審そうな表情をしていた。確信はないが、ちらりと私のネームプレートの「研修中」の文字を目で追われて気がした。もしかしたら、この店員では話にならないと思ったのかもしれない。
「はい。また何かありましたら、お声掛けください」
私が一礼してカウンターに戻ると、先輩が戻ってきてカウンターにいてくれた。
「コンテナ、早く片づけて」
「はい。ありがとうございます」
私はプラスティック製のたたんだコンテナを、事務所の外に積み上げた。私がカウンターに戻ると、先輩が出入り口のディスプレイ作りに戻ってしまった。店に入ってすぐの印象は大切だ。単に奥にあった物や新作を並べる事よりも、常にお客さんが「新鮮さ」を感じさせることができるからだ。古いけれど、常に新しい店ということで、常連客が増える仕組みになっている。まだ桜の時期が終わったばかりなのに、もう雛祭りに合わせて女の子向けの商品に入れ替えている。女の子だけではなく、女性向けの、ブランドとコラボしたおしゃれなボールペンや、ノートもあった。背伸びしたい女の子を意識してなのか、小さくて扱いが簡単なプチ万年筆が、一番前のケースの中で輝いている。
そんな事を考えながらカウンターに立っていた私の前に、一人の男性がのそりとやってきて「コピー」とだけ言った。私が「はい」と言うと、男性は三枚の紙をカウンターに置いて、「各三〇枚」といって店を出て行ってしまった。すると先ほど紙を吟味していたお客さんたちが、次々と会計に訪れた。私は忙しさにかまけて、コピーを頼まれたことをすっかり忘れてしまった。男性は昼ごろに再び来店し、レジで財布を開いた。
「いくらだ? 領収書もくれよ。いつも通りでいいから」
そう言われた私は、ここでコピーを頼まれていたことを思い出して、パニックになりながら、頭を下げていた。いつも通りということは、常連客だ。私はその言葉でコピーを頼まれていたことを思い出し、文字通り血の気が引いた。
「すみません、今コピーするので、少々お待ちいただけますか?」
男性の顔が真っ赤になり、鬼の形相となる。大声で私は男性から叱責されることとなった。
「お前が返事したんだろ! 責任取れ! ふざけるな!」
私が泣きそうになりながら怒鳴られている間、先輩がコピーをそろえて、謝罪しながらコピーを渡した。涙目になっている私に変わって、先輩が笑顔で対応してくれた。
「二度と来ないからな、こんな店! そんな奴、辞めさせろ!」
そう私を指さして、捨て台詞を残して去って行ったのは、大口の常連さんだったらしく、社長と常務が菓子折りを持って頭を下げに行ったと、後になって知った。私は辞めたいと何度も思った。しかしあの内定のない日々を思い出すと、どうしてもこの店にしがみついていなければならないと思った。私はいつも店のトラブルメーカーで、問題児だった。
そして、眠れない日々は、さらに続いた。
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