二章 悪夢

5.いらっしゃいませ

 私たちは二人で眠っていたが、実はそうではなかった。私は毎晩悪夢を見るようになり、夜に目が覚めていた。その悪夢は毎晩同じものを見ている気がしているのだが、目覚めると忘れていた。ただ、目覚めは最悪と言ってよかった。ただ怖いという感情だけが、脳だけではなく、体中を支配していた。疲れている幸は安眠しているようだったので、私はこのことを黙っていた。しかしある朝、一緒に食事をとろうとしていた幸が言った。


「映。ちょっと気になってたんだけど」

「え? 何?」


寝起きの幸の問いに、私はなるべく自然聞こえるように答えた。


「最近、よく眠れている? 疲れてない?」

「どうしたの、急に」


睡眠のことを言われた私は、いっそ正直に全て話してしまおうかと思ったが、ただでさえ忙しい幸に心配させたくなかった。私は無理に唇の先を引き上げて、目を細めた。


「大丈夫。私より幸は大丈夫? 遅くまで作業していて」

「俺のことはいいよ。なんだか最近、映がぼうっとしているから心配なんだ。不調を感じたら、すぐに医者に見てもらった方がいいよ」


幸にしては珍しく、声に怒りが滲んでいた。本気で私のことを心配してくれていることは嬉しいが、まだ店に出て二か月くらいしか経っていないのに、休むとは言い出せなかった。


「分かった。そうする」


私と幸は、一緒に玄関を出た。二人の朝は早い。一緒に大学前まで歩き、バス停で幸と別れ、私はバスに乗って駅まで行く。満員電車ならぬ満員バスに乗り、駅のバスプールで降りる。そこから徒歩で二十分歩くと、私が勤める文具店がある。

 天井まで積み上げられた棚には、大きなサイズの紙や、普段あまり売れないが需要のある背表紙などが入っている。これらを取るためには梯子が必要だったため、足元は派手ではないスニーカーだった。壁にぎっちり並べられたファイルは静電気で埃を吸いつけるため、黒く汚れている。それに、店の前面に陳列されたガラス張りのショーケースにも、埃や砂が薄く積もっている。それらの掃除や、紙などの荷物を運ぶため、制服がない代わりにエプロンが用意されていた。


「おはようございます」


私は出来るだけ大きな声で挨拶をするが、すぐに注意される。


「挨拶しながら入って来てって、前にも言ったでしょ? それに、朝は掃除から入るのに、もう少し早く来られないの?」


先輩店員が、苛々しながら毎回同じことを言う。


「すみません」


挨拶はしたが、私の声質のせいか、聞き取ってもらえないことが多かった。掃除があるから走って来るのだが、どうしても間に合わなかった。タイムカードを押して、慌てて店のエプロンをつけながらモップを取りに行く。床を掃除し、集めたゴミを掃除機で吸う。その日の日差しに合わせて、ロールカーテンの高さを調節する。紙が日焼けすると色が飛んでしまうため、売り物にならなくなる。まだ春と言っても、日差しに油断はできない。ここまで終えたら、もう開店の準備だ。近くに高校があるため、学生のために早めに開店時間が設定されていた。お客さんの動きを見ながら、ガラスを拭き、それと同時に文具を綺麗に並べる。欠品がないかチェックして、不足分をショウケースの下の棚から補充して、それでも足りなければ倉庫に走って取りに行く。そろそろお客さんが会計に向かいそうなタイミングを見て、レジに入って笑顔を作る。


「いらっしゃいませ。お預かりします」


いつも緊張して、表情が硬くなってしまう。商品の名前と個数を読み上げながら、スキャンして、合計金額を告げる。お客さんがお金を取り出すまでに、袋に商品を入れて、次回から使える割引券を選んでレジの横に置き、お釣りと一緒に渡す。


「ありがとうございます。またお越しくださいませ」


私を遠くから先輩がにらんでいると思ったら、読み上げに時間がかかり過ぎていると注意された。


「ノート一冊と鉛筆五本で、何でそんなに時間がかかるの? それに皆に言われてるけど、その顔! 不満でもあるの?」

「いえ、ありません。すみません」


生まれつききつい顔なのだ。釣り上がり気味の目と低い声が、そういった印象を与えるらしい。無理に笑おうとすると、どうしても怒っているように見られてしまう。もしくは、何か不本意な表情になる。しかも、鉛筆のばら売りは、まだ種類と値段を覚えていなかった。そのため私はレジの横の表で、一本一本金額を確認しなければならない。一本四十二円の鉛筆があれば、一本一四〇円という高価な鉛筆もある。薄利多売の文具店では、わずかなミスが売り上げに響いてしまう。


「コピー用紙の補充と、新しいシールが来たからお願い。私は正面やるから、お客さんだけは目を離さないように」

「はい。取って来ます」


私は倉庫に行って、A4のコピー用紙五百枚入り四締めが入った段ボール箱を、二つ抱える。かなり力のいる作業だが、台車は店内では邪魔になる。A4の用紙がスタンダードになってから、コピー用紙はA4が特に売れるようになった。スマホやタブレットが普及した現在でも、コピー用紙の需要はなくならなかった。しかし、学校で紙の教材を使わなくなったら、きっと社会に出てからも使わなくなるのだろう。現在の紙に至るまで、気の遠くなるほどの年月をかけて、私たち人間は文字を書き続けている。粘土板や石版、羊皮紙や竹など、文字に限れば、その媒体は常に変化している。そんな事を考えていたら、段ボールの開け口から箱を破る際に、指を段ボールの端で切ってしまった。カッターや彫刻刀、ハサミや包丁など今までいろんなもので指を切ってきたが、紙は地味に痛くて、段ボールは特に痛かった。紙に血が付くと商品にならなくなるので、ポケットに常備してあるバンドエイドを貼り、一締めずつ重ねて売り場に出す。段ボール箱を潰してゴミ置き場に置き、事務室で折り畳み式のコンテナを持ってくる。中には新商品のシールが入っている。品番と品数を伝票と照らし合わせると、全部合っていた。シール売り場にコンテナごと運び入れ、箱からシールを出して、フックにかけていく。立体的なクラフトシールは、結婚式やお祝いごとに使うために買っていく人が多い。ただ立体的であるために、掛けるのに苦労する。店員泣かせの商品でもある。コンテナをたたんでいると、「黒森さん!」という先輩の鋭い声がした。振り返ると、レジカウンターに男性のお客さんが立っていた。


「すみません。お待たせしました」


私はコンテナを足元に隠して頭を下げたが、お客さんは何も商品を持って来ていなかった。白髪交じりのそのお客さんは、私のネームプレートの新人マークを、じろりとにらんだ。


「君しかいないのか?」


そう言いながら男性は、ポケットから一本の万年筆を取り出した。


「これ、ここで買ったんだが、インクを入れ替えても書けなくなったんだよ。壊れていたんじゃないだろうな?」

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