二章 悪夢

5.いらっしゃいませ

私たちは二人で一緒に、ダブルベッドを使っていた。当然夜には二人で眠っていたが、実はそうではなかった。私は毎晩悪夢を見るようになり、夜中に何度も目が覚めていた。その悪夢は毎晩同じものを見ている気がしているのだが、目覚めるとその具体的な内容は忘れてしまっている。ただ、目覚めは最悪と言ってよかった。ただ怖いという感情だけが、脳だけではなく、体中を支配していた。起きた時には冷や汗でパジャマがぐっしょりと濡れ、心臓が早鐘を打っている。その上、激しく息も乱れている。まるで全力疾走して、何かから逃げていたようだった。夢の中とは言え、自分の身に何が起こっているのか不安だった。生温かい不気味な気配だけが、背中に貼りついているようだ。一体何を私は見ていたのか。何度自問してみても、何一つ分からずに混乱するばかりだ。

疲れている幸は安眠しているようだったので、私はそれを邪魔するのが嫌で、このことを黙っていた。しかしある朝、一緒に食事をとろうとしていた幸が言った。


「映。ちょっと気になってたんだけど」

「え? 何?」


 寝起きの幸の問いに、私はなるべく自然聞こえるように答えた。


「最近、よく眠れている? 疲れてない?」

「どうしたの、急に」


 幸にいきなり睡眠について言及された私は、いっそ正直に全て話してしまおうかと思ったが、ただでさえ忙しい幸に心配させたくなかった。私は無理に唇の先を引き上げて、目を細めた。


「大丈夫。私より幸は大丈夫? 遅くまで作業していて」

「俺のことはいいよ。なんだか最近、映がぼうっとしているから心配なんだ。不調を感じたら、すぐに医者に見てもらった方がいいよ」


 幸にしては珍しく、声に怒りが滲んでいた。本気で私のことを心配してくれていることは嬉しいが、まだ店に出て二か月くらいしか経っていないのに、休暇を取るとは言い出せなかった。接客も知識も未熟で、閉店後の勉強会まで参加しているので、一度休んでしまうと、取り返しがつかないほど、他の人と差が開いてしまう気もした。いくら不調と言ってもただの夢だ。眠りが浅いせいで休むなんて、非常識だと白い目で見られるのが落ちだろう。


「分かった。そうする」


 私と幸は、一緒に玄関を出た。二人の朝は早い。一緒に大学前まで歩き、バス停で幸と別れ、私はバスに乗って駅まで行く。今年は雨の日が多く、空気はじめッとしていて、バスの窓は曇りっぱなしだ。それでも人の熱気で曇ったガラスの窓からは、そびえ立つビル群が林立しているのが分かる。満員電車ならぬ満員バスに乗り、駅のバスプールで降りる。そこから徒歩で二十分歩くと、私が勤める文具店がある。

天井まで積み上げられた抽斗式の棚には、大きなサイズの紙や、普段あまり売れないが需要のある背表紙などが入っている。これらを取るためには梯子が必要だったため、足元は派手ではないスニーカーだった。スニーカーの底は、色が付いていない物と決まっている。床を足で擦った時に、跡が残るのを防ぐためだ。壁にぎっちり並べられたファイルは静電気で埃を吸いつけるため、黒く汚れている。それに、店の前面に陳列されたガラス張りのショーケースにも、埃や砂が薄く積もっている。それらの掃除や、紙などの荷物を運ぶため、制服がない代わりにエプロンが用意されていた。私服にエプロンを着て、足元はスニーカーだから、通勤時には私が出勤途中だと思っていない人も多いに違いない。いつまでも大学生気分では困るのは分かっているが、制服がないということで、私を自分を常に甘やかしている気がした。そのためか、この店の店員だという帰属意識も、薄い部分もあった。


「おはようございます」


 私は出来るだけ大きな声で挨拶をするが、すぐに注意される。


「挨拶しながら入って来てって、前にも言ったでしょ? それに、朝は掃除から入るのに、もう少し早く来られないの?」


 先輩店員が、苛々しながら毎回同じことを言う。


「すみません」


 挨拶はしたが、私の声質のせいか、聞き取ってもらえないことが多かった。私の声は女性としては低めで、小さい。これでも精一杯の音量なのだが、そんなことは言い訳にしかならない。掃除があるから駅から走って来るのだが、どうしても間に合わなかった。タイムカードを押して、慌てて店のエプロンをつけながらモップを取りに行く。床を掃除し、集めたゴミを掃除機で吸う。その日の日差しに合わせて、ロールカーテンの高さを調節する。紙が日焼けすると色が飛んでしまうため、売り物にならなくなる。まだ春と言っても、日差しに油断はできない。ここまで終えたら、もう開店の準備だ。近くに高校があるため、学生のために早めに開店時間が設定されていた。お客さんの動きを見ながら、ガラスを拭き、それと同時に文具を綺麗に並べる。欠品がないかチェックして、不足分をショウケースの下の棚から補充して、それでも足りなければ倉庫に走って取りに行く。そろそろお客さんが会計に向かいそうなタイミングを見て、レジに入って笑顔を作る。


「いらっしゃいませ。お預かりします」


 いつも緊張して、表情が硬くなってしまう。引きつった私の笑顔の下にあるネームプレートからは、いつまでたっても「研修中」の文字が取れないままだ。商品の名前と個数を読み上げながら、バーコードをスキャンして、合計金額を告げる。バーコードがない商品は、いまだに手で打つしかなかった。お客さんがお金を取り出すまでに、袋に商品を入れて、次回から使える割引券を選んでレジの横に置き、お釣りと一緒に渡す。


「ありがとうございます。またお越しくださいませ」


 私を遠くから先輩がにらんでいると思ったら、読み上げに時間がかかり過ぎていると注意された。


「ノート一冊と鉛筆五本で、何でそんなに時間がかかるの? それに皆に言われてるけど、その顔! 不満でもあるの?」

「いえ、ありません。すみません」


 生まれつききつい顔なのだ。釣り上がり気味の目と低い声が、不服そうな印象を与えるらしい。無理に笑おうとすると、どうしても怒っているように見られてしまう。もしくは、何か不本意そうな表情になる。しかも、鉛筆のばら売りは、まだ種類と値段を覚えていなかった。そのため私はレジの横の表で、一本一本金額を確認しなければならない。一本四十二円の鉛筆があれば、一本一四〇円という高価な鉛筆もある。薄利多売の文具店では、わずかなミスが売り上げに響いてしまう。


「コピー用紙の補充と、新しいシールが来たからお願い。私は正面やるから、お客さ

んだけは目を離さないように」

「はい。取って来ます」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る