21.一つの可能性
俺はマイクのスイッチを押して、番号を読み上げた。ややあって、ノックして入室したのは化粧っ気もなく、全身男物で固めた、あの則田透だった。そのいでたちも、大学の頃から変わっていない。名前と性別のギャップもそのままだ。出会ったのが互いに十八歳で、現在は共に三十四歳。その年月を感じさせないほど、則田は若々しく、大学生の時のまま時間が止まっているかのような錯覚を感じた。
「おまっ、何で……?」
情けないことに、あまりの驚愕に声が詰まった。
「俺だって、好きで来たわけじゃねぇよ。病気なんだから、仕方ないだろ。今は実家に戻ってるんだ。ぼんぼんは変わらないな」
思わず言葉を失った俺に、則田は笑いながら急かす。
「さっさと仕事しろ」
「あ、ああ。紹介状には毎日悪夢を見るとありますが、どんな時に見ますか?」
「眠る時だな」
「眠ってすぐ?」
「それが、現実だか幻だか夢だか分からないから、いつ夢なのか分からないんだ」
「区別がつかない?」
則田はこくりとうなずいた。近くで同じ目線になると、不眠状態が長く続いているせいか、目が充血し、頬はこけ、顔は青白かった。
「病名は?」
俺を試すように、則田は言う。俺はそれを無視して質問を重ねる。
「起きている時も、幻覚はありますか?」
「ちょっとある。虫とか、救急車のサイレンとか」
「入院していただきたいのですが……」
「入院? そんなにひどいのか?」
「いえ。他の患者さんに比べれば、落ち着いている方です。ただ、似た症状の患者さんがいて、経過観察中なので」
「ああ、そういうこと。じゃあ、俺も入院して、治療に専念するよ」
「そうですか。では、係りの者に案内させますので、待合室でお待ちください」
「可能性としては、統合失調症の入眠時幻覚か?」
則田は悪戯に笑って、椅子から立ち上がる。
「一つの可能性としては」
「じゃあ、ぼんぼんの世話になる」
そう言って則田は診察室を出て行き、その日のうちに入院した。統合失調症には、確かに入眠時幻覚というものがある。眠りが浅い内に見る幻覚で、夜の薬を飲み忘れた患者がよく陥る症状だ。統合失調症は現在完治できず、薬を一生飲み続けなければならない。そのため、入眠時幻覚も何度か経験する患者が多い。則田が統合失調症の患者だというには、わずかに違和感があった。話のテンポが、大学時と変わらないということが一番の要因だ。統合失調症の患者たちは、話すテンポが緩慢になりやすい。症状が重ければ重いほど、呂律が回りにくい感覚を覚えるという。則田にはその様子が見られなかった。だが、今の俺には、悪夢を見続けるという症状を、無視できない理由があった。
すでに、田沼清吉と白河廉の二人が、則田と同じような症状で入院している。今までは男性がストレスに弱く、そのために発症していると考えていた。しかし則田という三十代の女性まで発症したとなると、原因究明は振り出しに戻るかもしれない。そして、則田が入院した次の日には、深見雫が同じ病状で入院した。つまり、男性だけが罹る病気という説は、もはや成り立たなくなったのだ。深見雫の入院によって、「則田は例外」という逃げ道もなくなった。俺は頭を抱えるしかなかった。
病棟からの報告では、則田は同じ病気の三人とよく一緒にいて、相手の話を聞いて、何かをメモしているらしい。それは俺の役割だから止めろ、と言いたいのだが、人類学者の職業病だと考え直し、放っておくことにした。則田が専攻している文化人類学は、フィールド・ワークと呼ばれる実地調査を行うことが多いらしい。その土地の人々と有効かつ、友好な関係を築き、情報提供者となってもらい、その情報をもとに分析、考察を加えるのだという。情報提供者をインフォーマントと呼ぶらしいが、則田はあまりその単語を使いたがらない。対等な関係を現地の人々と築くので、一方的な呼称の押し付けはしたくないのだという。初めは言葉も通じない人々と対等な関係を築けるような則田が、ストレスに弱いとは考えられなかったが、文系には文系の苦労もあるのだろう。
四人とも、入院してからの経過は良好だった。特に白河廉と深見雫の幼い子供二名は、ストレスを受けていたと考えられる場所から引き離されたことで、恐怖や不安が軽減されたと考えられた。田沼は相変わらずいつも深刻な顔をしていて、治療を焦っている。その「焦り」が一番よくないと言っても、聞き入れてもらえなかった。
その内、則田は「夢を最近見なくなった」と言って、平然とするようになったため、一般病棟で経過を見た後、通院に切り替えた。この時点では、この「悪夢病」とも言える病は、ストレスが原因であり、則田と同じように、時が経てば治癒が期待できると考えていた。そんな中、黒森映が入院してきたのだ。黒森映の病状は、他の患者よりもひどかった。進行性の病なら、明らかに他の四人よりも進行していたと言える。
しかし、黒森映の彼氏だという男の絵によって、「悪夢病」は次々と消えていった。また不可解な要因が増え、俺の推察はまた振出しに戻ってしまったのだ。絵によってストレスを軽減させるという手法は、あるにはあるが、こんなにも病に対して、即効性がある絵など、聞いたことがない。しかも黒森映が俺に見せてくれた絵は、見ていても特に癒されるという感覚の物ではなかった。どちらかと言うと、グロテスクな絵だった。全体的にセピア色の優しい風合いの絵だったが、描いてあるものは鳥からもぎ取られたばかりの翼だった。翼の骨の部分には、これがまさに今鳥からもぎ取ったと言わんばかりの肉片がこびり付いていた。こんな趣味の悪い絵で病が治るとは、にわかに信じられなかった。
絵を描いた本人にもいろいろきいてみたが、特に変わった材料などは使っていないと言っていた。「病」が出た時に、医師が「原因」を突きとめて患者に有効な「薬」を処方する義務と使命を帯びている。それなのに、ただの絵一枚をもって、苦労も熟慮もしなかったであろう若造が、「治療」を行ってしまったというわけだ。そして、俺は自分の目で見てしまった。あの青年の絵で、深見雫のストレスが軽減される瞬間を。屈辱的ともいえる、完敗だった。
五人の患者の内、則田をのぞく四人が、市内の同じ内科に罹患したことはすぐに分かった。だから則田は別として、他の四人には何かの共通点が存在し、それが原因で「悪夢病」を発症した可能性が高い。そこにストレスが重なり、重症化したのではないか。いや、逆かもしれない。ストレス過多の人間が、市内のある物をきっかけに重症化したと言った方が、正しいように思われる。何を見たのか。何を聞いたのか。それとも嗅いだのか。触ったのか。ほぼ同じ時期に、年齢も性別も関係なく体験できるものとは、一体何だろうか。おそらくそれが分かれば、何故夢の中で同じ化け物を見たのかが、分かるだろう。今俺の手の中にある一枚のコピー用紙が、「薬」になった理由も。
「あいつに頼りたくはなかったんだけどな」
俺はスマホで則田に話しがしたいと率直に申し出た。則田が指定してきたのは、駅前の居酒屋だった。声を隠すなら雑音の中がいいと、あっけらかんと則田は言った。確かに紙とインクの匂いと埃っぽい中にいて、カルテやネットを見ながら言い争うより、酒でも飲みながら会話を楽しみたい気分だった。自分でも、自分自身を追い込んでいるという自覚があった。そして何より、あの絵によって、焦っている自分にも気づく。このままの生活を続ければ、俺が鬱になりかねない。ここで俺が倒れえるわけにはいかない。俺には待っている患者がいるのだから。則田の提案は、渡りに船だった。
翌日、俺は勤務を終えると、車を走らせて駅の立体駐車場に車を停めた。駅から徒歩一分で、則田が指定した居酒屋につく。俺が店に入るなり、則田がつい立から顔をのぞかせ、俺に向かって手を振った。店には大学生の集団や、俺のように仕事終わりのサラリーマンなどで混んでいた。掘りごたつ式のテーブルには、大人二人が座ってちょうどの空間だった。他の客との間に、障子のようなつい立があるのも心地良かった。早めに着た則田が、この席を確保してくれていたらしい。照明は間接照明で、隣の席の人々の顔がぼんやりするほど仄暗い。店内はざわめいていて、そのざわめきは、人間一人一人が発しているというよりも、店の壁からにじみ出ているように感じられた。確かに、この中でどんな話しをしていようとも、他人に聞耳を立てられることはなさそうだ。
「いい店だな」
「ぼんぼんには、こういう場所は珍しいだろう?」
則田がくっくっと、喉を鳴らす。バカにされていることに気付いた俺は、「居酒屋くらい知っている」と強がった。俺は生ビールと枝豆を頼み、則田も同じものを注文した。注文した物が届くと、ちびりちびりとビールを飲みながら、「夢」について話した。こうしていると、男二人がただ酒を飲んでいるようにしか、見えないだろう。
「で、俺をわざわざ呼び出して、夢についてききたいとは珍しいな。自分の専門一筋だったお前がさ」
則田は枝豆をかじりながら言った。
「お前以外の患者が、多大なストレスを感じていたのは確かだ。ストレスによってメラトニン、つまり眠気をもたらすホルモンが減少する。そのメラトニンの材料であるセロトニンは、聞いたことがあるだろう?」
「確か、幸せホルモン、だっけ?」
自分が不眠症になった時にでも調べたのか、則田は専門外であるはずのホルモンの俗称を、すぐに言い当てて見せた。話が早くてこちらとしてはありがたいが、少し寒気を感じる。則田は、一体どこまで知っているのだろう。まさか、病棟での「フィール・ドワーク」において、病気の原因をすでに突き止めているのではないか。そんな疑念が湧いた。
「そうだ。セロトニンが不足すると、苛々や鬱の原因になる。そしてメラトニンが減って眠れないから、負のスパイラルに陥る」
「でも、お前の見立てでは鬱じゃない、ってことだな?」
則田はにやにやしながら俺の顔を指さした。そしてジョッキに入ったビールを豪快にあおった。酒の飲み方まで男のようだ。俺は真剣な表情のままうなずいた。
「ああ。ストレスがかかると、コルチゾールっていうストレスホルモンが出る。このホルモンは、さっきのメラトニンと反比例の関係にあって、血圧や血糖値を下げて、ストレスに強くしてくれる」
「何だ。そのコルチゾールが出てれば、ストレス耐性がついて負のスパイラルから抜け出せるじゃん」
良い考えが浮かんだといった表情で、則田はパチンと指を鳴らした。しかし俺は苦虫を噛み潰したかのように首を振った。
「いや。コルチゾールは、胃潰瘍や海馬の委縮を引き起こすんだ」
「海馬って、短期記憶に関係する脳の一部だよな?」
やはり話しが早くて助かる、と思う一方で、臓器移植に文系でメスを入れていると、他の医学知識も必要なのかという疑問も浮かび、さらに寒気が増した。
「そう。記憶から夢は生まれると言えるから、このコルチゾールによる海馬の委縮が関係しているんだと思ってた。でも、検査結果を見る限り、お前を含め五人とも、海馬の委縮は見られなかった」
他の病院から紹介状と共に送られてきたMRI画像を、何度も見返した。まるで犯人の足跡をさらう鑑識のように、画像を見た。比較、検討を繰り返したが、やはり全員に海馬の委縮は見られなかった。俺はビールを飲み干し、溜息をついた。ビールと枝豆をもう一度注文する。則田もそれに倣う。
「俺たちは夢の化け物が怖くて起きる、ということを繰り返していた。夢の中では五感を伴っていた。しかも、リアルに。なあ、ぼんぼん。人は何で怖いって思うんだ?」
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