21.一つの可能性

「学校で教育を受けさせ、迷信をなくす。医師を派遣したり、教師を派遣したりして、先進的な知識が村に広まれば、自分たちのやっていることが殺人、死体損壊だと気付ける」

「迷信は間違い、か。迷信は、その地域の文化に複雑に絡み合っている。お前が言うのは、西欧及び自文化中心的で、その土地の文化を否定するものに他ならない。それに、そもそもその地域は、子供が学校に行く時間的な余裕や金銭的余裕もない。百歩譲って学校に行けても、家に帰ればその土地の文化で生活する。そして現代日本であっても、迷信は一度としてなくなったことはない。これをどう説明する? どうやって救う?」

「それは……」


目を泳がせた俺に、則田の顔が少しだけ緩んだ気がした。


「まずはその土地の理論を理解することだ。人類学はその論理を理解するのに役立つ。日本の論理を理解できれば、常識だって変えられる。俺たちが見ている世界が変わる。俺の目標だ」


則田は一瞬言いよどんだ俺に、淡々と語った。まるで、出来の悪い生徒に優しく諭す教師のようだった。


「もう一つ、面白い事を教えてやろう。反転という考え方だ」

「反対ではなく?」

「そうだ。幼児が汚物ネタで大笑いするのは何故だと思う?」

「そんなのは、普段禁止されていることをするから、とか? 文脈から突飛な単語が出てきたり、母親がオムツを換える時に、笑っていた記憶がどこかにあったりするからじゃないか?」

「汚物は、食べ物の反転だからだよ。食べ物の反転したものが汚物だ。人間はこの反転した事象を面白がる傾向にあるんだ。特に口に何でも入れたがる時期の幼児が、汚物ネタで笑うのはそう言うことだからだ。記録ではなく記憶された口頭伝承に、食べ物の起源と汚物が同時に出てくるのは、このためだと言われている」

「へえ。そんなことがあるのか」


すっかり感心した俺に、則田は笑って本を片づけると、ノートをしまって、図書館から出て行ってしまった。

 その後、何度か則田を見かけたが、声をかけられなかった。常識を変える。そう語った時の真っ直ぐな瞳と、真剣な表情が忘れられない。この狭いキャンパスで、たった一人で世界の常識に勝負を挑む則田に、気後れしてしまったのだ。

 しかし精神科医になった俺は、思わぬ形で則田と再会することになる。いつものように診察していると、カルテの束が、棚に置かれた。そのカルテの中から番号付きの札が飛び出していて、患者を番号で呼ぶことになっている。最近は本名をそのままアナウンスされるのを嫌がる患者が増えた。もしかしたら、この病院が精神科専門病院だからと言う理由もあるかもしれない。そのカルテの上から順に患者を呼び出し、診察していく。多くの患者を受け持っているので、一人の患者にかけられる時間はそう多くはない。一人平均十分程度だろう。そんな中に、見覚えのある名前を見つけた。則田透。俺と同じ歳。そして性別は女。この名前で女と言えば、あいつしか思い浮かばなかった。だが、則田は東京の大学院に進んだと聞いている。まさかそんな奴が、俺の勤める病院に来るとは思わなかった。しかも原因不明の悪夢を見るという、俺が気にしていた病状で。

 俺はマイクのスイッチを押して、番号を読み上げた。ややあって、ノックして入室したのは化粧っ気もなく、全身男物で固めた、あの則田透だった。そのいでたちも、大学の頃から変わっていない。名前と性別のギャップもそのままだ。出会ったのが互いに十八歳で、現在は共に三十四歳。その年月を感じさせないほど、則田は若々しく、大学生の時のまま時間が止まっているかのような錯覚を感じた。


「おまっ、何で……?」


情けないことに、あまりの驚愕に声が詰まった。


「俺だって、好きで来たわけじゃねぇよ。病気なんだから、仕方ないだろ。今は実家に戻ってるんだ。ぼんぼんは変わらないな」


思わず言葉を失った俺に、則田は笑いながら急かす。


「さっさと仕事しろ」

「あ、ああ。紹介状には毎日悪夢を見るとありますが、どんな時に見ますか?」

「眠る時だな」

「眠ってすぐ?」

「それが、現実だか幻だか夢だか分からないから、いつ夢なのか分からないんだ」

「区別がつかない?」


則田はこくりとうなずいた。近くで同じ目線になると、不眠状態が長く続いているせいか、目が充血し、頬はこけ、顔は青白かった。


「病名は?」


俺を試すように、則田は言う。俺はそれを無視して質問を重ねる。


「起きている時も、幻覚はありますか?」

「ちょっとある。虫とか、救急車のサイレンとか」

「入院していただきたいのですが……」

「入院? そんなにひどいのか?」

「いえ。他の患者さんに比べれば、落ち着いている方です。ただ、似た症状の患者さんがいて、経過観察中なので」

「ああ、そういうこと。じゃあ、俺も入院して、治療に専念するよ」

「そうですか。では、係りの者に案内させますので、待合室でお待ちください」

「可能性としては、統合失調症の入眠時幻覚か?」


則田は悪戯に笑って、椅子から立ち上がる。


「一つの可能性としては」

「じゃあ、ぼんぼんの世話になる」


そう言って則田は診察室を出て行き、その日のうちに入院した。

 すでに、田沼清吉と白河廉の二人が、則田と同じような症状で入院している。今までは男性がストレスに弱く、そのために発症していると考えていた。しかし則田という三十代の女性まで発症したとなると、原因究明は振り出しに戻るかもしれない。そして、則田が入院した次の日には、深見雫が同じ病状で入院した。つまり、男性だけが罹る病気という説は、もはや成り立たなくなったのだ。深見雫の入院によって、「則田は例外」という逃げ道もなくなった。俺は頭を抱えるしかなかった。

病棟からの報告では、則田は同じ病気の三人とよく一緒にいて、相手の話を聞いて、何かをメモしているらしい。それは俺の役割だから止めろ、と言いたいのだが、人類学者の職業病だと考え直し、放っておくことにした。則田が専攻している文化人類学は、フィールド・ワークと呼ばれる実地調査を行うことが多いらしい。その土地の人々と友好な関係を築き、情報提供者となってもらい、その情報をもとに分析、考察を加えるのだという。情報提供者をインフォーマントと呼ぶらしいが、則田はあまりその単語を使いたがらない。対等な関係を現地の人々と築くので、一方的な呼称の押し付けはしたくないのだという。初めは言葉も通じない人々と対等な関係を築けるような則田が、ストレスに弱いとは考えられなかったが、文系には文系の苦労もあるのだろう。四人とも、入院してからの経過は良好だった。特に白河廉と深見雫の幼い子供二名は、ストレスを受けていたと考えられる場所から引き離されたことで、恐怖や不安が軽減されたと考えられた。田沼は相変わらずいつも深刻な顔をしていて、治療を焦っている。その「焦り」が一番よくないと言っても、聞き入れてもらえなかった。

 その内、則田は「夢を最近見なくなった」と言って、平然とするようになったため、一般病棟で経過を見た後、通院に切り替えた。この時点では、この「悪夢病」とも言える病は、ストレスが原因であり、則田と同じように、時が経てば治癒が期待できると考えていた。そんな中、黒森映が入院してきたのだ。黒森映の病状は、他の患者よりもひどかった。進行性の病なら、明らかに他の四人よりも進行していたと言える。

 しかし、黒森映の彼氏だという男の絵によって、「悪夢病」は次々と消えていった。また不可解な要因が増え、俺の推察はまた振出しに戻ってしまったのだ。絵によってストレスを軽減させるという手法は、あるにはあるが、こんなにも病に対して、即効性がある絵など聞いたことがない。しかも黒森映が俺に見せてくれた絵は、見ていても特に癒されるという感覚の物ではなかった。どちらかと言うと、グロテスクな絵だった。絵を描いた本人にもいろいろきいてみたが、特に変わった材料などは使っていないと言っていた。「病」が出た時に、医師が「原因」を突きとめて患者に有効な「薬」を処方する義務と使命を帯びている。それなのに、ただの絵一枚をもって、苦労も熟慮もしなかったであろう若造が、「治療」を行ってしまったというわけだ。そして、俺は自分の目で見てしまった。あの青年の絵で、深見雫のストレスが軽減される瞬間を。屈辱的ともいえる、完敗だった。

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