12.五人に一人
「さっきの脳神経内科の先生が、幻覚だって……」
医師は少し考えるような顔をしてから、すぐに穏やかな顔になる。
「確かに、入眠時幻覚と言う、似た幻覚はありますが、黒森さんはストレスと不眠から来る症状が強いと思います。それに、とても疲れているようですね。食事はとれていますか?」
私は子供が嫌だと駄々をこねるように、首を振った。食事のことまで気にしてくれたのは、幸以外では、この医師が初めてだった。
「いいえ。食欲がないんです」
「なるほど。現在、日本人の五人に一人くらいの割合で、睡眠障害を持っていると言われています。黒森さんの場合は、鬱が原因だと思います」
鬱と言う言葉は、私が最も聞きたくない単語の一つだった。しかし自分と同じ悩みを持つ人が、日本人の五人に一人もいると聞くと、どこか安心できた。自分一人が悩んでいるわけではないのだ。
「鬱の症状が改善すれば、自然に眠りも安定してくるでしょう。そうすれば、食欲もわいてくると思います」
医師の言葉に、ふと、幸の言葉が頭に浮かんだ。
「眠らないと、人って死ぬんですか?」
「そう考えられています。だから、安眠するためにゆっくり、治していきましょう」
「どうやったら、治るんですか?」
「近道はありません。薬を出しておきますから、様子を見ましょう」
薬があるということは、私にとって唯一明るい響きを持っていた。薬が出るということは、医学的で有効な対処法があるということだ。つまり風邪と同じで、治る見込みがあるのだ。これでやっと、ゴールとその道筋が見えた気がした。今までの暗中模索の状態とは違う。何をやっても効果が期待外れと言う、絶望的な毎日ではなくなるのだ。
「規則正しい生活を心がけて下さい。何かあったら、すぐに病院へ来るように」
「はい。ありがとうございました」
私は一礼して、診察室を出た。すぐに幸が寄ってきて、「どうだった?」と耳打ちする。
「ただの鬱みたい。薬も出るって」
病名が明らかになっただけで、私は安心しきっていた。私が薬局でもらった薬は、安定剤と眠剤だけだった。私はこれで本当に一歩前進したのだと思った。
しかし、処方された通りに薬を飲んで眠ったにもかかわらず、私はその夜も悪夢で目が覚めた。また、同じ夢だった。何日か眠らなかったから、眠気は溜まっていたはずだったし、薬も飲んでいたから、深い眠りになっていたはずだ。それなのに、どうして? と、私は自問した。私の様子に気づいた幸が、起き上がる。
「映? 大丈夫?」
「大丈夫じゃないわよ! 何なの、あのやぶ医者! 何が鬱よ!」
私は泣きながら枕を叩いていた。悔しかった。疲れていた。おそらく、心療内科で希望を見せられた分、絶望も大きかったのだ。期待しただけに、その感情的な反動は大きかった。
「もうこんな思いはしたくないのに、どうして? もう嫌よ! 眠らずに死ぬなら、その方がいい!」
「映!」
幸の鋭い声も、聞こえなかった。私は黒髪を振り乱して、発狂していた。そして、電話口の母の言葉が思い出された。私はもう、人間として終わっているとさえ思った。何が鬱だ。何が五人に一人だ。これは鬱などではなかったに違いない。私は一人しかいないのに、簡単なパーセンテージで騙された。そんな自分が嫌だった。
「幸、もう別れて。私といたら、不幸になってしまうわ。私はこれ以上幸に迷惑をかけたくない!」
私は心にもない言葉を発していた。幸は私に見えないように、拳を握りしめていた。そして私の肩を乱暴につかんだ。
「じゃあ、最後に俺に付き合ってくれない?」
幸のあまりにも真剣で、切羽詰まったような言葉に、私の体の力が抜けた。「最後」という言葉の響きが寂しくて、一筋の涙が私の頬を伝った。
「いいよ。最後ね」
自分が口にした言葉に、胸が痛んだが、そうするのが幸のためだと思った。幸は今まで、私に尽くしてくれた。だから恨んだり、憎んだりする気持ちはこれっぽっちもなかった。ただ、寂しさと感謝だけがあった。二人で夜の街をドライブする。これが最後の夜だと思うと、幸に泣きつきそうになる。それを我慢する。この先幸に新しい恋人が出来たら、嫉妬しながらも応援すると決めた。
二人で車に乗り込んで、私の知らない道を行く。幸には行きたい場所があって、下調べをしていたようだ。ナビも使わず、静かなドライブだった。もしかしたら、幸はとっくに私に愛想をつかしていて、私の口から「最後」という言葉が出るのを待っていたのではないだろうか。だから、迷いなく知らない道を運転できる。きっと、二人で「最後」となるにふさわしい場所を準備してあったのだ。それも仕方ない、と私は諦めて助手席に黙って座っていた。
幸が私を連れてきたのは、大きな病院だった。しかし総合病院ではないようだ。車のハイビームが照らした一瞬で専門科名を読み取った私は、戦慄した。そこには、「精神科」の文字があったからだ。そこは私が最も忌避していた、精神科の専門病院だった。建物が大きいのは、隔離病棟を含む入院病棟が、病院と繋がっていたためだ。
「幸? 嘘でしょ?」
ぎくしゃくとしたまま、私は不安げな声をあげた。まるで甘える子供のような声だった。
「映がどうしても、という場合には、ここに来ようと決めていたんだ」
「嫌よ」
私は必死に首を振って抵抗したが、幸に無理矢理車から引きずり落とされた。着ていた服が破れそうになるが、構ってはいられない。逃げようと、私は必死だった。しかし幸は私よりも必死だった。文字通り、心を鬼にしているのだ。嫌がる私の腕をつかんだ幸は、力ずくで私を病院内に引きずりこんだ。大声をあげて抵抗する私を、病院のスタッフが取り囲んだ。夜の外来には、人がいなかった。
「嫌! 放して!」
私は叫び続けたが、幸は冷静に病院の看護師に説明した。
「北河病院からFAXで紹介状が来ているはずです。黒森映といいます。お願いします。彼女を助けてやってください!」
そう言って、幸は私の腕を放した。幸の悲痛なまでの叫び声と、ほぼ同時だった。私は三人の男性に連れられて、鍵が外側からかかる病棟に連れて行かれた。私は病院の閉鎖病棟に入院することになったのだ。承諾書類に、仕方なくサインする。ボールペンを握った手に、ぽとり、と小さな音を立てて雫が落ちた。
「ひどいよ、幸……」
私はドアにガラス窓がある独房のような一人部屋に入れられた。ひも状の物やピンなども、全て取り上げられた。部屋の鍵は、内側からはかけられない。自殺や自傷、他人を傷つける行為を防ぐためだった。
昼食は大広間で食べるようになっていたが、幸から裏切られたような気になっていた私は、部屋に閉じこもった。病棟のスタッフや看護師が、頻繁に私の部屋のドアの窓を覗いて、私の様子を看守のように見ていることが嫌だった。散歩が推奨されていたのに、私は部屋から一歩も出ず、カウンセリングも診察も、生返事だけを繰り返していた。それでも下着は洗わなくてはならず、風呂にも入らなければならない。私は仕方なく自分の身の回りのことをやり始めた。それに伴って、部屋から出るようにもなった。まるで、生まれ直すみたいだ。私はそんな風に思った。ここで一度失敗をリセットして、退院後にはもう一度やり直す。それが出来たら、何ていいことだろう。
そんなことを思い始めた時、ドアがノックされた。
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