12.五人に一人

「眠るのが怖い、ですか?」


穏やかに微笑みながら、老齢な医師は語りかけた。私は、消え入りそうな声で返答し、うなずいた。


「はい」

「大きなストレスがありましたか? 嫌なこととか……」


きっと、私と似た症例を多く見てきたのだろう。どこか確信めいた質問だった。窓の外では葉桜が風になびき、ざわざわと音を立てていて、それが不思議と心地良かった。私はうなだれながら、ぽつりぽつりと言葉を重ねた。


「仕事が、上手くいきませんでした。何をやってもダメで、退職しました」


他人のせいにはしたくなかったのに、自分の口から語られたのは、他人から受けたことばかりだった。先輩が厳しかったこと。なかなか就職が決まらなかったから、辞められずにいたこと。社長が新しくアルバイトを雇ったこと。自己管理のなさを、会社に責められたこと。まるで自分には問題がなかったような言い方だったのに、老医師はずっと頷いてくれていた。溜まっていたことを吐き出して、私は胸が軽くなった気がした。


「それは大変でしたね。夢は、どんなものを見ますか?」


心療内科だからだろうか。私が吐き出したものをすくい上げるように、慈しみにも似た声でそう言われると、何でも話してしまいたくなる。私はどうして今まで、差別的な目でこの科を見ていたのだろう。この科に罹る人は心の弱い人だと、邪見にしてきたのに、どうしてこの医師はこんなに私の話を真摯に聞いてくれるのだろう。


「化け物に食べられます。眠ると、割とすぐに……だと思います」


私は、絞り出すように悪夢の全容を語っていた。眠ると化け物に食われ、その恐怖と激痛に目が覚めるという繰り返しだった。だから私にとって悪夢はいつ見るか、と言うよりも、常に眠りとワンセットだった。


「幻覚、なんでしょうか?」

「幻覚?」


老医師は私からその単語が出てきたことに、とても驚いているようだった。だから、思わず告げ口をするように、先ほどの医師との会話の内容を話した。


「さっきの脳神経内科の先生が、幻覚だって……」


医師は少し考えるような顔をしてから、すぐに穏やかな顔になる。


「確かに、入眠時幻覚と言う、似た幻覚はありますが、黒森さんはストレスと不眠から来る症状が強いと思います。それに、とても疲れているようですね。食事はとれていますか?」


私は子供が嫌だと駄々をこねるように、首を振った。食事のことまで気にしてくれたのは、幸以外では、この医師が初めてだった。


「いいえ。食欲がないんです」

「なるほど。現在、日本人の五人に一人くらいの割合で、睡眠障害を持っていると言われています。黒森さんの場合は、鬱が原因だと思います」


鬱と言う言葉は、私が最も聞きたくない単語の一つだった。しかし自分と同じ悩みを持つ人が、日本人の五人に一人もいると聞くと、どこか安心できた。自分一人が悩んでいるわけではないのだ。


「鬱の症状が改善すれば、自然に眠りも安定してくるでしょう。そうすれば、食欲もわいてくると思います」


医師の言葉に、ふと、幸の言葉が頭に浮かんだ。


「眠らないと、人って死ぬんですか?」

「そう考えられています。だから、安眠するためにゆっくり、治していきましょう」

「どうやったら、治るんですか?」

「近道はありません。薬を出しておきますから、様子を見ましょう」


薬があるということは、私にとって唯一明るい響きを持っていた。薬が出るということは、医学的で有効な対処法があるということだ。つまり風邪と同じで、治る見込みがあるのだ。これでやっと、ゴールとその道筋が見えた気がした。今までの五里霧中の状態とは違う。少なくても、暗中模索のレベルになった。何をやっても効果が期待外れと言う、絶望的な毎日ではなくなるのだ。


「規則正しい生活を心がけて下さい。何かあったら、すぐに病院へ来るように」

「はい。ありがとうございました」


私は一礼して、診察室を出た。すぐに幸が寄ってきて、「どうだった?」と耳打ちする。


「ただの鬱みたい。薬も出るって」


病名が明らかになっただけで、私は安心しきっていた。私が薬局でもらった薬は、安定剤と眠剤だけだった。私はこれで本当に一歩前進したのだと思った。

 しかし、処方された通りに薬を飲んで眠ったにもかかわらず、私はその夜も悪夢で目が覚めた。また、同じ夢だった。何日か眠らなかったから、眠気は溜まっていたはずだったし、薬も飲んでいたから、深い眠りになっていたはずだ。それなのに、どうして? と、私は自問した。私の様子に気づいた幸が、起き上がる。


「映? 大丈夫?」

「大丈夫じゃないわよ! 何なの、あのやぶ医者! 何が鬱よ!」


私は泣きながら枕を叩いていた。悔しかった。疲れていた。おそらく、心療内科で希望を見せられた分、絶望も大きかったのだ。期待しただけに、その感情的な反動は大きかった。


「もうこんな思いはしたくないのに、どうして? もうやだよ! 眠らずに死ぬなら、その方がいい!」

「映!」


幸の鋭い声も、聞こえなかった。私は黒髪を振り乱して、発狂していた。そして、電話口の母の言葉が思い出された。私はもう、人間として終わっているとさえ思った。何が鬱だ。何が五人に一人だ。これは鬱などではなかったに違いない。私は一人しかいないのに、簡単なパーセンテージで騙された。そんな自分が嫌だった。


「幸、もう別れて。私といたら、不幸になってしまうわ。私はこれ以上幸に迷惑をかけたくない!」


私は心にもない言葉を発していた。幸は私に見えないように、拳を握りしめていた。そして私の肩を乱暴につかんだ。


「じゃあ、最後に俺に付き合ってくれない?」


幸のあまりにも真剣で、切羽詰まったような言葉に、私の体の力が抜けた。「最後」という言葉の響きが寂しくて、一筋の涙が私の頬を伝った。


「いいよ。最後ね」


自分が口にした言葉に、胸が痛んだが、そうするのが幸のためだと思った。幸は今まで、私に尽くしてくれた。だから恨んだり、憎んだりする気持ちはこれっぽっちもなかった。ただ、寂しさと感謝だけがあった。二人で夜の街をドライブする。これが最後の夜だと思うと、幸に泣きつきそうになる。それを我慢する。この先幸に新しい恋人が出来たら、嫉妬しながらも応援すると決めた。

 二人で車に乗り込んで、私の知らない道を行く。幸には行きたい場所があって、下調べをしていたようだ。ナビも使わず、静かなドライブだった。もしかしたら、幸はとっくに私に愛想をつかしていて、私の口から「最後」という言葉が出るのを待っていたのではないだろうか。だから、迷いなく知らない道を運転できる。きっと、二人で「最後」となるにふさわしい場所を準備してあったのだ。それも仕方ない、と私は諦めて助手席に黙って座っていた。

 幸が私を連れてきたのは、大きな病院だった。しかし総合病院ではないようだ。車のハイビームが照らした一瞬で専門科名を読み取った私は、戦慄した。そこには、「精神科」の文字があったからだ。そこは私が最も忌避していた、精神科の専門病院だった。建物が大きいのは、隔離病棟を含む入院病棟が、病院と繋がっていたためだ。


「幸? 嘘でしょ?」


ぎくしゃくとしたまま、私は不安げな声をあげた。まるで甘える子供のような声だった。


「映がどうしても、という場合には、ここに来ようと決めていたんだ」

「嫌よ」


私は必死に首を振って抵抗したが、幸に無理矢理車から引きずり落とされた。着ていた服が破れそうになるが、構ってはいられない。逃げようと、私は必死だった。しかし幸は私よりも必死だった。文字通り、心を鬼にしているのだ。嫌がる私の腕をつかんだ幸は、力ずくで私を病院内に引きずりこんだ。大声をあげて抵抗する私を、病院のスタッフが取り囲んだ。夜の外来には、人がいなかった。


「嫌! 放して!」


私は叫び続けたが、幸は冷静に病院の看護師に説明した。


「北河病院からFAXで紹介状が来ているはずです。黒森映といいます。お願いします。彼女を助けてやってください!」


そう言って、幸は私の腕を放した。私の悲痛なまでの叫び声と、ほぼ同時だった。私は三人の男性に連れられて、外側から鍵がかかる病棟に連れて行かれた。私は病院の閉鎖病棟に入院することになったのだ。承諾書類に、仕方なくサインする。ボールペンを握った手に、ぽとり、と小さな音を立てて雫が落ちた。


「ひどいよ、幸……」


私はドアにガラス窓がある独房のような一人部屋に入れられた。ひも状の物やピンなども、全て取り上げられた。自殺や自傷、他人を傷つける行為を防ぐためだった。そんな時、ドアがノックされた。

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