17.はじめまして。

老齢な男性の声がした。声を聴く限り、かくしゃくとしている。


「映です。清川先生からお話しがあったと思うんですけど……」

「入りなさい」


映と俺がその部屋に入ると、ベッドには痩せた老人がいた。客の前では強がっているというような印象を受けた。筋肉が弱った手足は、骨と皮ばかりに見える。おそらくほとんど寝たきりなのだろう。しかし歩行補助の器具はあっても、点滴や車椅子は見当たらない。筋肉は痩せ衰えても、まだ自力で歩行していたいという想いが伝わってくる。それに、点滴も入らないということは、食事も自分の分をきっちり食べているということだろう。自制しているというよりは、何かの使命感に基づいて生活している様子がうかがえた。クーラーが完備されているが、他の部屋よりも設定温度が高かった。自分で暑さに気付いていないのではなく、わざと外との気温差をなくしているのだ。カーテン越しの自然光は、ぎらぎらしていた外とは比べ物にならず、穏やかだった。


「医者でもない若造が、こんなところで何をするんだ? いちゃつくなら、外でやれ」


体からは考えられないような、張りのある声だった。ベッドの脇の棚に、写真立てが伏せられたままになっているが、埃をかぶっていないことから、ついさっきまで田沼が写真を見ていたことが分かる。


「それは、何のお写真ですか?」

「お前には、関係ない」

清吉きよきちさんの奥さんでしょ?」


映が歌うように笑って口を挟む。


「映、全くお前というやつは」


田沼は怒りを通り越して、あきれた様子だった。清吉が田沼の名前で、その妻にあたる女性の写真ということだ。


「おい。お前。本当にお前の絵で、この悪夢から逃れられるんだろうな?」


田沼は怒鳴るように、俺に問う。しかし答えたのは、映だった。


「私は治ったのよ。ほら、この通り」


わざとらしく映が欠伸をすると、田沼は忌々しげに小さく舌打ちをした。


「何を話せば、絵が描ける? 金ならやるから、早く描いてくれ!」

「お金は頂戴しておりません。映と雫ちゃんの絵は、一日か二日で描けました。あくまで、お話を伺ってからのことですが」


田沼が補聴器をつけていることに気付いた俺は、なるべくゆっくりと説明した。隣では映が、どこか誇らしげに頷いている。


「一日か、二日? そんなに早く書けるのか?」

「約束できるか、と言われればできません。でも、会話をした後に、イメージはつかめる様でした」


俺の頭の中には、もう既にイメージが浮かんでいた。まだぼやけていて、配色も分からないが、筆を持てば描ける自信はあった。田沼は俺を訝しげに睨んでいたが、俺も遊び半分でやっているわけではないということを、真剣な眼差しで伝える。すると、田沼は諦めたように目を閉じてうなずいた。それを見た映は、食堂の椅子を二つ持って来て、俺と自分が座れるようにしてくれた。


「わしは、田沼清吉という」

「中島幸です」

「この病の中では、最高齢らしい」

「最年少は雫ちゃんだったの。清吉さんは偏屈で無口だけど、皆のことを考えてくれているから、この病棟では慕われているのよ」


映が補足説明をすると、田沼は苦虫を噛み潰したかのような顔になった。しかし強面ながら口調が穏やかな田沼を見ていると、映が言うことに間違いはないのだろう。


「この写真は、妻と一人息子だよ」


田沼は写真立てを手に取って、俺に手渡した。昔の写真だった。海辺で撮られた家族写真だ。若い頃の田沼の横で、ややふくよかな女性が田沼に寄り添うようにして、微笑んでいる。その二人の間には、中学生か小学校高学年くらいの男の子が、ピースサインをしながら、やんちゃそうな笑みを浮かべている。


「今、家には誰もおらん」


俺が写真を返すと、田沼はその写真を両手で包み込むようにして持ち、視線を落とした。


「息子は東京に出て行ったきり、帰ってこないし、妻は末期癌で入院中だ。だが、最近息子に嫁が出来たらしい。もうすぐ、孫が生まれるそうだ」


田沼は続けて言葉を紡ごうと、口を開きかけ、やめた。その代り苦しそうに顔を歪めた。


「わしは、こんなところで、こんな事をしている場合ではないんだ。それなのに、あんな化け物に負けるとは、我ながら情けない!」


田沼は布団を殴りつけた。そして、感極まったように目を充血させていた。


「誰が妻を支えるんだ? 誰が妻に孫を見せてやるんだ? くそ、化け物さえ見なくなれば、こんな所にいる義理はないと言うのに!」


田沼はなおも悔しそうに、布団を殴り続けた。映がその拳をそっと受け止める。田沼の今の状態は、入院前の映の状態に似ていた。感情がコントロールできずに、怒りや焦りを表に出して、泣いてしまう。映には田沼の苦しみがよく分かったのだろう。だから半信半疑でも、理由や根拠がなくても、俺に絵を描いてほしいと依頼してきたのだ。


「幸、もうこれ以上は……」


田沼は肩で息をしていた。


「うん。もう大丈夫だ。描けると思う」


田沼が目を見開いて、俺の顔を覗き込む。その目は俺にすがっているように見えた。


「本当か?」

「これからお渡しする絵には、何の医学的根拠もありません。でも、出来るだけ早く、そして、出来るだけの想いを込めて、描かせていただきます。お話を聞かせていただいて、本当にありがとうございました」

「頼む」


田沼は絞り出したかのような声でそう言い、頭を下げた。俺と映も一礼して、田沼の部屋を後にした。それぞれ椅子を持って、白河という少年の部屋に向かう。清川が「白河君」と呼んでいたので、まだ幼いのだろう。

 映がノックしたドアは、田沼の部屋からそれほど離れてはいなかった。ベッドの上にいたのは、やはり中学生くらいの少年だった。黒髪と白い肌、その佇まいから、真面目で賢そうな子だな、という印象を受ける。やはりクーラーは田沼の部屋よりも設定温度が低く、俺と映にはこれくらいがちょうどよかった。そして驚いたのは、机に勉強道具が整然と並べてあったことだ。田沼や映のように、自分が自分でコントロールできないほどに追い詰められているにもかかわらず、廉は勉強をしていたのだ。英語の辞書は開いたままで、単語帳があった。ノートやテキストは、英語と国語の辞書をブックエンド代わりにして、少ないスペースを有効活用していた。


白河廉しらかわれんです。初めまして」


少年は真っ直ぐに俺を見つめて、頭を下げた。そして俺と映の目が机に向かっているのに気が付いた廉は、自嘲気味に笑って言った。


「普通、お菓子とか、生活必需品が置いてありますよね」

「うん。まあ。勉強好き、なの?」


この俺からの問いにも、廉は苦笑いだった。


「これが僕への、家族からの差し入れなんですよ」


廉が自分の机の上を見つめている。俺は衝撃を受けながら、廉の家族は入院している子供のことを本当に考えているのかと、心配になった。しかしここには、廉の家族を批判しに来たわけではない。


「初めまして、中島幸です」


話題を無理矢理変えるように、俺は改めて名乗った。


「あの、質問してもいいですか?」

「何でもきいて下さい。俺に答えられることなら」

「その絵で僕の病が治ったとして、それは良いことだと思いますか? もしも、僕が帰る場所が生き地獄だったとしても?」

「生き地獄?」


その物々しい言葉に、思わず俺は鸚鵡返ししていた。廉はこくりとうなずいた。

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