17.はじめまして。


 映がノックしたドアは、田沼の部屋からそれほど離れてはいなかった。ベッドの上にいたのは、やはり中学生くらいの少年だった。黒髪と白い肌、その佇まいから、真面目で賢そうな子だな、という印象を受ける。やはりクーラーは田沼の部屋よりも設定温度が低く、俺と映にはこれくらいがちょうどよかった。そして驚いたのは、机に勉強道具が整然と並べてあったことだ。田沼や映のように、自分が自分でコントロールできないほどに追い詰められているにもかかわらず、白河は勉強をしていたのだ。英語の辞書は開いたままで、単語帳があった。ノートやテキストは、英語と国語の辞書をブックエンド代わりにして、少ないスペースを有効活用していた。


「白河廉です。初めまして」


 少年は真っ直ぐに俺を見つめて、頭を下げた。第一印象通りの真面目さだ。声まで生真面目な印象を受ける。初対面の人が苦手なのか、少し表情も声も固い。しかし俺と映の目が机に向かっているのに気が付いた廉は、自嘲気味に笑って言った。


「普通、お菓子とか、生活必需品が置いてありますよね」

「うん。まあ。勉強好き、なの?」


 この俺からの問いにも、廉は苦笑いだった。黒髪がさらさらと揺れ、華奢な白い首筋からは、青く血管が浮き出て見える。見た目から言えば、もう少し外で運動をして、体を作った方が良さそうな弱々しさだ。


「これが僕への、家族からの差し入れなんですよ」


 廉が自分の机の上を見つめている。俺は衝撃を受けながら、廉の家族は入院している子供のことを本当に考えているのかと、心配になった。しかしここには、廉の家族を批判しに来たわけではない。


「初めまして、中島幸です」


 話題を無理矢理変えるように、俺は改めて名乗った。


「あの、質問してもいいですか?」

「何でもきいて下さい。俺に答えられることなら」

「その絵で僕の病が治ったとして、それは良いことだと思いますか? もしも、僕が帰る場所が生き地獄だったとしても?」

「生き地獄?」


 その物々しい言葉に、思わず俺は鸚鵡返ししていた。白河はこくりとうなずいた。


「僕は今、受験生なんです。皆僕を東光高校に入れたがっています。そして、東光高校から、東大や京大に行くことを望んでいます。でも本当は、勉強をもうしたくないんです。疲れたんです。誰も本当の僕の相手をしてくれません。十年も歳が離れているのに、恥ずかしい話ですが、僕は雫ちゃんの気持ちがよく分かります。僕もできる事なら、治りたくない。まだ化け物に食われた方がましです」


 俺と映は顔を見合わせる。映は悲しげに眉をひそめた。映は会社を辞めることができたが、義務教育である中学校は、簡単にやめることができない。東光高校と言えば、県で一番の進学校として知られている。俺の頭では、逆立ちしても入ることはできないだろう。


「じゃあ、絵は描いてほしくない?」


 廉は黙り込み、沈黙が流れた。きっと、聡明な廉自身が一番よく分かっている。このままずっと入院生活を送ることが、現実的に無理だということ。この入院はしばしの休養の場であって、いつかは現実と向き合わなければならないこと。シーツを握りしめた廉は、震えた声で言った。


「雫ちゃんは、もう絵を受け取ったんですか?」


 俺は頷いて、「うん、受け取ってくれたよ」と答える。


「清川先生から渡してもらったんだけど、喜んでくれていたと思う。何の絵かは分からないって、言われちゃったけど」


 俺が肩をすくめると、隣の映が苦笑していた。


「抽象画なんですか?」

「絵に、興味があるの?」


 映の意外そうな声に、廉は答える代わりに、顔を真っ赤にして俯いた。


「内緒ですよ。絵、下手だし」

「俺たちみたいに美大っていう手もあるよ。それに、今は専門学校もある。今は中学生でも、未来は無数に枝分かれしているよ」

「お二人とも、美大出身だったんですか? 凄い」


 廉の目が一瞬だけ輝いたのを、見た気がした。


「じゃあ、こうするのはどう?」


 俺はバッグからクリアファイルと封筒を取り出した。


「いつも絵はクリアファイルに入れて渡してるんだけど、廉君には封筒に入れて渡す。そうすれば、見たい時だけ、封筒を開ければいい」

「はい。そうしていただけると、助かります」

「絵は描くだけ書いてみるから」

「すみません。ありがとうございます」


 廉は深く頭を下げた。


 俺と映は廉の病室を出て、椅子を片づけた。一般病棟に映を送る途中、映は気になることを言った。


「この病気って、これで終わりなのかな?」

「どうして急に?」

「前に幸が言っていたことが気になるのよ。この病気は本当は偶然じゃないんじゃないかって。だって、範囲が狭すぎるのよ」

「範囲?」

「この病院に来る前は別々の病院から来てるけど、その前の病院は、皆同じだったの。まあ、最初に治った人がどうだったかは、分からないけど」

「つまり、皆田嶋医院を受診して、この病院に来たってこと?」


 映は神妙な表情でうなずき、さらに気になることを言った。




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