16.ありがとうございます。

「中島さん」

「はい?」


 急に名字を「さん」付けで呼ばれて、俺は緊張した。また暴言を吐かれるのかと思った。しかし意外にも、清川は静かに、つぶやくように言った。


「すみませんでした。そして、ありがとうございます」


 清川は俺の顔は一切見ず、雫が出て行ったドアを見つめ続けていた。今の清川は、感情がすっぽりと抜け落ちてしまったかのようだった。それでいて、今にも自殺しそうなくらい危うい表情だった。


「絵を見た雫ちゃんは、明らかにリラックス状態になりました。まさか、あんな絵一枚で、本当に人があんなに容易くストレス状態から離脱できるとは、信じられませんでした」


 おそらく清川は、医師として柔軟な考えの持ち主なのだ。そして何より、患者のことを第一に考えている。だから映の話も半信半疑ながら、俺と会い、患者に絵を見せることにした。しかし雫とのやり取りで、理屈は不明だが、絵によって悪夢の原因であるストレスが軽減される瞬間を見てしまった。ここで清川は、自分が今までやってきた論理、手法ではない物が、患者にとって一番の結果を示すと思い知ったのだ。


「黒森さん」


 清川が呆然としたまま、つぶやくように言った。映が「はい」と応じて清川を見ると、清川は立ち上がってドアに手をかけた。


「田沼さんと白河君の病室は変わっていません。覚えていますか?」

「はい。覚えています」

「では、二人をよろしくお願いします。俺はやることがあるんで」


 清川は俺の方を少しだけ振り返り、首をちょこんと折って面談室を出て行った。その背中からは、哀愁が漂っていた。だが、清川の足音は、途中から駆け足になった。


「清川先生、ちょっとかわいそうだったな」


 何週間も、もしくは何か月もかけて取り除いてきた患者のストレスが、一瞬で消えるのを見る。きっとこのことで清川は、自分の非力さを思い知った事だろう。もしくは、自分が学んできた医学や経験の限界。そんな中でもなお、次にやらなければならないことを見出して、駆けて行った。それは、自分には治せなかった患者が何故絵をきっかけとして治るのか、という難題をクリアすることだ。この難題さえ解ければ、次に映と同じ患者が出た時に、治療することが可能になるからだ。


「幸、田沼さんと白河君にも会って、描くんでしょ? 行きましょ」


 映が立ち上がったのを見て、俺も立ち上がる。映は入り組んだ廊下を迷うことなく進み、同じドアが並ぶ場所でも、迷うことなくノックする。


「誰だ?」


 老齢な男性の声がした。声を聴く限り、かくしゃくとしている。


「映です。清川先生からお話しがあったと思うんですけど……」

「入りなさい」


 映と俺がその部屋に入ると、ベッドには痩せた老人がいた。客の前では強がっているというような印象を受けた。筋肉が弱った手足は、骨と皮ばかりに見える。おそらくほとんど寝たきりなのだろう。しかし歩行補助の器具はあっても、点滴や車椅子は見当たらない。筋肉は痩せ衰えても、まだ自力で歩行していたいという想いが伝わってくる。それに、点滴も入らないということは、食事も自分の分をきっちり食べているということだろう。自制しているというよりは、何かの使命感に基づいて生活している様子がうかがえた。クーラーが完備されているが、他の部屋よりも設定温度が高かった。自分で暑さに気付いていないのではなく、わざと外との気温差をなくしているのだ。カーテン越しの自然光は、ぎらぎらしていた外とは比べ物にならず、穏やかだった。


「医者でもない若造が、こんなところで何をするんだ? いちゃつくなら、外でやれ」


 体からは考えられないような、張りのある声だった。ベッドの脇の棚に、写真立てが伏せられたままになっているが、埃をかぶっていないことから、ついさっきまで田沼が写真を見ていたことが分かる。


「それは、何のお写真ですか?」

「お前には、関係ない」

「清吉さんの奥さんでしょ?」


 映が歌うように笑って口を挟む。


「映、全くお前というやつは」


 田沼は怒りを通り越して、あきれた様子だった。清吉が田沼の名前で、その妻にあたる女性の写真ということだ。


「おい。お前。本当にお前の絵で、この悪夢から逃れられるんだろうな?」


 田沼は怒鳴るように、俺に問う。しかし答えたのは、映だった。


「私は治ったのよ。ほら、この通り」


 わざとらしく映が欠伸をすると、田沼は忌々しげに小さく舌打ちをした。


「何を話せば、絵が描ける? 金ならやるから、早く描いてくれ!」

「お金は頂戴しておりません。映と雫ちゃんの絵は、一日か二日で描けました。あくまで、お話を伺ってからのことですが」


 田沼が補聴器をつけていることに気付いた俺は、なるべくゆっくりと説明した。補聴器は雷のようないきなり大きな音がすると、耳鳴りのようになると聞いたことがあったからだ。隣では映が、どこか誇らしげに頷いている。


「一日か、二日? そんなに早く書けるのか?」

「約束できるか、と言われればできません。でも、会話をした後に、イメージはつかめる様でした」


 俺の頭の中には、もう既にイメージが浮かんでいた。まだぼやけていて、配色も分からないが、筆を持てば描ける自信はあった。田沼は俺を訝しげに睨んでいたが、俺も遊び半分でやっているわけではないということを、真剣な眼差しで伝える。すると、田沼は諦めたように目を閉じてうなずいた。それを見た映は、食堂の椅子を二つ持って来て、俺と自分が座れるようにしてくれた。


「わしは、田沼清吉という」

「中島幸です」

「この病の中では、最高齢らしい」

「最年少は雫ちゃんだったの。清吉さんは偏屈で無口だけど、皆のことを考えてくれているから、この病棟では慕われているのよ」


 映が補足説明をすると、田沼は苦虫を噛み潰したかのような顔になった。しかし強面ながら口調が穏やかな田沼を見ていると、映が言うことに間違いはないのだろう。


「この写真は、妻と一人息子だよ」


 田沼は写真立てを手に取って、俺に手渡した。昔の写真だった。海辺で撮られた家族写真だ。若い頃の田沼の横で、ややふくよかな女性が田沼に寄り添うようにして、微笑んでいる。その二人の間には、中学生か小学校高学年くらいの男の子が、ピースサインをしながら、やんちゃそうな笑みを浮かべている。


「今、家には誰もおらん」


 俺が写真を返すと、田沼はその写真を両手で包み込むようにして持ち、視線を落とした。


「息子は東京に出て行ったきり、帰ってこないし、妻は末期癌で入院中だ。だが、最近息子に嫁が出来たらしい。もうすぐ、孫が生まれるそうだ」


 田沼は続けて言葉を紡ごうと、口を開きかけ、やめた。その代り苦しそうに顔を歪めた。


「わしは、こんなところで、こんな事をしている場合ではないんだ。それなのに、あんな化け物に負けるとは、我ながら情けない!」


 田沼は布団を殴りつけた。そして、感極まったように目を充血させていた。


「誰が妻を支えるんだ? 誰が妻に孫を見せてやるんだ? くそ、化け物さえ見なくなれば、こんな所にいる義理はないと言うのに!」


 田沼はなおも悔しそうに、布団を殴り続けた。映がその拳をそっと受け止める。田沼の今の状態は、入院前の映の状態に似ていた。感情がコントロールできずに、怒りや焦りを表に出して、泣いてしまう。映には田沼の苦しみがよく分かったのだろう。だから半信半疑でも、理由や根拠がなくても、俺に絵を描いてほしいと依頼してきたのだ。


「幸、もうこれ以上は……」


 田沼は肩で息をしていた。


「うん。もう大丈夫だ。描けると思う」


 田沼が目を見開いて、俺の顔を覗き込む。その目は俺にすがっているように見えた。


「本当か?」

「これからお渡しする絵には、何の医学的根拠もありません。でも、出来るだけ早く、そして、出来るだけの想いを込めて、描かせていただきます。お話を聞かせていただいて、本当にありがとうございました」

「頼む」


 田沼は絞り出したかのような声でそう言い、頭を下げた。俺と映も一礼して、田沼の部屋を後にした。それぞれ椅子を持って、白河という少年の部屋に向かう。清川が「白川君」と呼んでいたので、まだ幼いのだろう。




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