16.ありがとうございます。

面談室には、職員と共に雫が待っていた。清川の顔を見た職員は、雫に何かを言ってから俺たちに一礼し、その場を去った。


「あー、やっと来た! もう、待ちくたびれちゃったよ~」

「ごめん、ごめん。雫ちゃん」


清川は声のトーンを上げて、屈んで雫と目の高さを合わせると、雫の頭を優しく撫でた。清川のその豹変ぶりに、俺は鳥肌がっ立った。隣では映が苦笑している。映は声を潜めて俺にささやく。


「自分の患者さんには、優しいのよ」

「映にも?」

「もちろん」


医者が患者に対して優しいのは理解できるが、俺への対応は人としてどうなのか、と思う。これはもしかして、究極のツンデレというやつなのだろうか。そう思っていると、清川の手が俺の方に伸びてきた。


「ほら。お兄ちゃんが雫ちゃんのために、絵を描いてきてくれたんだって」

「え? 本当?」


黒く大きな瞳を輝かせる雫を前に、俺は何も言えなくなっていた。ここはおとなしく清川に絵を渡した方が良さそうだ。手柄を横取りされたようで、少し癪だったが仕方ない。清川は雫に絵を見せながら、いくつかの質問をした。


「ほら。この絵だよ。上手な絵だね。何が描いてあるか分かる?」

「うーん、分かんないけど、綺麗!」


俺と映は顔を見合わせ、雫に視線を戻す。その絵を見た人は、十中八九、花の絵だと答えるだろう。そして一人か二人くらいは、地球と月の絵だと言うかもしれない。「分からない」という答えは、全くの予想外の答えだった。清川は絵を雫に渡し、さらに質問を重ねる。


「じゃあ、この絵を見た感想は? どんな気持ちになる?」


雫は首を傾げ、清川の顔を凝視する。


「柔らかくて、温かい気持ち」

「〇と△と□があったら、どれかな?」

「まるいの」

「明るいのと、暗いのだったら、どっち?」

「分からないけど、お昼でも夜でもないよ」

「夕方?」

「違う」

「そっか。ありがとう。良かったね、雫ちゃん。今日はその絵と一緒に眠るといいよ」

「はーい。そうします」

「もう、お部屋に戻っていいよ。先生たちは少しお話があるから」

「うん。ありがとう、お兄ちゃん」


雫は大事そうに絵を抱え、走って面談室を後にした。

 清川が立ち上がると、やはり長身が目に付いた。清川は寝癖だらけの髪に手を突っ込んで、頭を掻きながら、大きな溜息を吐いた。そして、「よっこらしょ」と言いながら椅子に深く腰掛けた。清川の目は、雫が出て行ったドアを見ていた。何かに絶望したような顔だった。もしくは、大切な物を賭けた戦いに敗れたような、疲れ切った顔だ。


「中島さん」

「はい?」


急に名字を「さん」付けで呼ばれて、俺は緊張した。また暴言を吐かれるのかと思った。しかし意外にも、清川は静かに、つぶやくように言った。


「すみませんでした。そして、ありがとうございます」


清川は俺の顔は一切見ず、雫が出て行ったドアを見つめ続けていた。今の清川は、感情がすっぽりと抜け落ちてしまったかのようだった。それでいて、今にも自殺しそうなくらい危うい表情だった。


「絵を見た雫ちゃんは、明らかにリラックス状態になりました。まさか、あんな絵一枚で、本当に人があんなに容易くストレス状態から離脱できるとは、信じられませんでした」


おそらく清川は、医師として柔軟な考えの持ち主なのだ。そして何より、患者のことを第一に考えている。だから映の話も半信半疑ながら、俺と会い、患者に絵を見せることにした。しかし雫とのやり取りで、理屈は不明だが、絵によって悪夢の原因であるストレスが軽減される瞬間を見てしまった。ここで清川は、自分が今までやってきた論理、手法ではない物が、患者にとって一番の結果を示すと思い知ったのだ。


「黒森さん」


清川が呆然としたまま、つぶやくように言った。映が「はい」と応じて清川を見ると、清川は立ち上がってドアに手をかけた。


田沼たぬまさんと白河しらかわ君の病室は変わっていません。覚えていますか?」

「はい。覚えています」

「では、二人をよろしくお願いします。俺はやることがあるんで」


清川は俺の方を少しだけ振り返り、首をちょこんと折って面談室を出て行った。その背中からは、哀愁が漂っていた。だが、清川の足音は、途中から駆け足になった。


「清川先生、ちょっとかわいそうだったな」


何週間も、もしくは何か月もかけて取り除いてきた患者のストレスが、一瞬で消えるのを見る。きっとこのことで清川は、自分の非力さを思い知った事だろう。もしくは、自分が学んできた医学や経験の限界。そんな中でもなお、次にやらなければならないことを見出して、駆けて行った。それは、自分には治せなかった患者が何故絵をきっかけとして治るのか、という難題をクリアすることだ。この難題さえ解ければ、次に映と同じ患者が出た時に、治療することが可能になるからだ。


「幸、田沼さんと白河君にも会って、描くんでしょ? 行きましょ」


映が立ち上がったのを見て、俺も立ち上がる。映は入り組んだ廊下を迷うことなく進み、同じドアが並ぶ場所でも、迷うことなくノックする。


「誰だ?」

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