29.一定の需要


 出版された冊数が分かれば、本の広がる限度が見えてくるだろう。俺は少ない冊数であることを切に願った。しかし、俺のその願いは、軽い口調の佐川にあっけなく蹴り飛ばされたのだった。


「五百部ですが、人気次第で重版も可能ですよ。ベストセラーも夢ではありません」


 五百部と言う数字に、軽く眩暈を感じた。これが電話でなくて良かったと思う。この残念そうで引きつった顔で佐川と対面していたら、間違いなく不審に思われただろう。少なくても五百の獏が、この世に放たれたことになる。つまり、患者は最低でも五百人以上存在する。あの本が借りられたり、売買を繰り返したりすれば、その数も増えるだろう。俺が質問をするたびに、佐川は熱を帯びた口調になって、正直辟易したが、相手がもうひと押しとばかりに、情報を出してくるのを待った。


「森崎さんのように、一定の需要があれば、平積みだって夢ではありませんよ」

「一定の需要?」


 もはや投げやりになりそうな俺は、それを我慢しながらまた鸚鵡返しをした。


「森崎さんの場合は、寝具メーカーや不眠の人、特に女性なら占い系で需要が高いと言えます。中島さんなら、絵画教室や美術の題材など、様々な人にメリットがあります」


 俺は何とか吹き出しそうになるのをこらえる。メリットのない商品など、本に限らず、この世に存在しないだろう。それにやっと出版社の口から、寝具メーカーという単語を口にした。つまり森崎はどこかで寝具メーカーと繋がっていて、何らかの援助を受けて、寝具メーカーにメリットのある作品に仕上げたのだ。このメリットが、「悪夢病」でなくて、何だというのだ。間違いなく森崎は、意図的に本を広め、その効果も知っている。しかし出版したのは三年前。何故今になって、森崎は動き出したのだろう。そして何故、最初は五人だけだったのだろう。電話の向こう側では、佐川が熱弁を振るっている。しかし、もう俺はこれ以上佐川と話すことは何もなかった。時間の無駄だと思った俺は、その熱を遮るように言った。


「分かりました。資料を見たら、また連絡します」


 本当は、送付されてきた資料を開封する気も、また佐川に電話する予定もなかった。しかし相手も俺だけを相手にしているわけではないだろうし、すぐに見切りをつけるだろう。そのためか、最後の佐川の声はひときわ声のトーンが高く、いっそすがすがしいほどだった。


「はい。では是非前向きにご検討ください」


 俺は「失礼しました」とあえて過去形で言って、電話を切った。


 映の様子を見に行くと、規則正しい寝息が聞こえてきた。その表情から察するに、どうやら悪夢は見ていないらしい。それだけで、俺は安堵の息をもらした。すると手の中にあったスマホが、いきなり鳴った。俺は慌ててベッドから離れ、ディスプレイを見た。非通知だったので躊躇ったが、清川からかもしれないと思い、電話に出る。


「はい、中島です」


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