8.化け物は実在している。


 その田嶋医院は、市内の名医として有名な内科の病院だ。家族経営で世襲しているのに、悪評が立たないのは珍しい。そんなことを考えながら、私は幸と一緒に眠った。スマホからヒーリングミュージックが流れ、あらかじめ焚いていたアロマの香がした。これ以上ない眠りの空間で、今度こそ大丈夫だと、私は自分に言い聞かせて、瞼を閉じた。


 しかしその晩見た悪夢は、今までにないくらい恐ろしいものだった。毛むくじゃらの怪物に、生きたまま捕食されるという夢だった。逃げても、逃げても、化け物が追いかけてきて、最後には私をバリバリと骨ごと食べ、ずるずると生き血をすすりながら肉や内臓を貪る。全身を激痛が襲い、痛みに目が覚めた。思わず、自分の両足があるのか確認する。すると、足の指先に、毛がついていた。私は思わず叫び声をあげた。あの生臭いような獣の吐息。あの生温かい気配の正体は、この怪物のものだったのだ。そして怪物は夢だけではなく、現実を浸食している。その証拠がこの苔むしたような長い毛だ。間違いない。怪物は今まで同じ布団の中にいたのだ。

私の叫び声に、隣の幸が目を覚まし、震える私を抱き寄せる。


「映。映! しっかりして。どうしたの?」

「幸! コレ! あいつの毛よ! あの化け物は実在しているのよ! 逃げないと!」


 私は夢と現実の境目が分からなくなっていた。パニックで正気を失った私を、幸がしっかりと抱きしめ続けていた。


「待って、落ち着いて」


幸が今にも走り出しそうな私を、必死に抱き留める。


「それは、布団か何かの糸屑だよ!」

「え?」


 私は幸の言葉に我に返り、握っていた物をよく見てみた。それは確かに、布団と同じ色をした緑色の糸屑だった。夢で見た化け物の体毛の色は、もう思い出せなかった。私は頭を抱えて、布団の上に伏した。そして、泣いていた。怖い、怖い、怖い。でも、それ以上に、自分が情けなかった。恐怖の正体が、あの化け物だと分かっただけでも、進歩なのだろうか。それとも、後退したのだろうか。分からない。自分のことなのに、何一つ分からなかった。幸は私が泣き止むまで、私を抱きしめ続けた。そうしている内に朝になり、私が落ち着くと、幸は田嶋医院に電話を入れた。私の状態を説明すると、田嶋医院から時間外でも連れてきてもいいと、快諾してもらえた。


「ごめん、ごめんね。幸」


 私はいつも何かに甘えている。甘えられる対象だと分かった瞬間、すぐに甘えてしまう。そして結局駄目になる。自分も相手も駄目にしてしまう。私が支えると張り切っていたのに、逆に幸に甘えている。このままでは、幸を不幸にしてしまいそうで怖かった。私が白い目で見られるならまだいい。しかしこのままでは幸まで変な目で見られかねない。それが一番嫌だった。


「謝らなくていいよ。さ、行こう」


 私は幸が運転する車の助手席に乗って、田嶋医院に向かった。駐車場に車を止めて、小さな病院の中に入る。待合室には、もう高齢の方が待っていた。いかにも地域密着型の病院と言う印象を受ける。無料のウォーターサーバーと紙コップで、お茶を飲みながら待合室で談笑している高齢者がいる中、私だけは充血した目を隠すように、伏し目がちに黙って長椅子の端に座っていた。隣には幸がいて、恋人つなぎをして私の緊張をほぐそうとしている。


 やがて私の名前が呼ばれて、幸は私に付き添う形で診察室に入った。来院する前に幸が話をしてくれていたおかげで、付き添いも認められたようだ。診察室の中にいたのは、長身だが童顔で、眼鏡をかけている医師だった。


「初診ですね。どうされました?」


 田嶋医師がそう問うと言うことは、幸からの電話に出たのは看護師だったのだろう。私は何からどう話すべきか戸惑って幸の顔を見たが、幸が「大丈夫」とうなずくのを見て、恥ずかしいと思いながら「眠れない」と話した。


「とても怖い夢を見るんです。それも、現実なのか、夢なのか、幻覚なのか、区別がつかない有様で……」


 私は医師を直視できず、頭を抱えていた。


「悪夢、ですか」


 田嶋医師は冷静な声とは裏腹に、顔を歪めた。何か心当たりがあるのかと思ったが、次に出されたのは、ありきたりな質問ばかりだった。


「最近大きなストレスや、生活の変化、習慣の変化はありませんでしたか?」

「この春から仕事を始めて、上手くいかなくて……。生活面では彼がサポートしてくれていますから、問題はないと思います」

「この時期は、精神面から眠りにくくなる方が多くいます。日中日光を浴びて、運動をして、夜は暗くすること。ブルーライトは夜に見ない方がいいですね。それでも治らない場合は、専門の病院を受診することをお勧めします」

「専門? 精神科ってことですか?」


 差別しているわけではないが、自分が精神科に通うことについて、わずかに躊躇いがあった。


「頭痛などの症状があれば、脳外科や神経内科で検査を受けることもお勧めしますが、どうですか?」

「そうですね。そうします」

「分かりました。MRIの機械は、北河(きたがわ)県立病院が新しいのを入れたみたいです。あそこは心療内科もありますから、そこにしましょうか? ただ、交通の便があまり……」

「あ、送迎は俺がします」


 話しに割って入った幸に、ちらりと視線を送った田嶋医師は、嫌な顔一つせずに軽くうなずいた。


「そうですか。では北河県立に紹介状を出します。いいですか?」

「はい」

「では、待合室でお待ちください。


 食いつくように送迎を申し出た幸に苦笑しながらも、田嶋医師はそう言った。そして、私が立ち上がって一礼し、診察室を出ようとした時だった。


「黒森さん」


 田嶋医師が、何か思い出したように、もしくは思い切ったように、私の名前を呼んだ。私と幸は二人同時に振り返る。


「はい?」

「ペットを飼われているわけではないですよね?」


 私は一瞬、虚を突かれたような顔になったが、田嶋医師は「一応の確認です」と言うので、「いいえ」と答えた。今は間取りが良い割に安いアパートだから、ペットの飼育は禁止されている。それに、私の実家でもペットを飼っていた記憶はない。幸の家とは違って、私の家にはペットを飼うだけの余裕はなかった。


「そうですか。なら、いいんです。ありがとうございます」

「いえ」


 そう言って、私と幸は待合室に戻り、再び寄り添うようにして座っていた。私も幸も、田嶋医師に対して好感を持っていた。よく話を聞いてくれるし、セカンド・オピニオンを当然としている。無理に薬を出さずに、紹介状もすぐに書いてくれるというのは、ありがたい。


「それにしても、最後の質問は何だったんだ? ストレスとペットが関係しているのか?」

「アニマルテラピーってあるくらいだから、ストレス軽減になるのかも」

「今度、アニマルカフェにでも行ってみようか?」

「幸。私はまだ、正式な退職届を出していないわ」


 正社員であるにもかかわらず、平日の昼間から遊んでいるというのには抵抗があった。それが見栄であるとは分かっている。しかし、私は昔から正当な理由もなく休む人を、怠け者として見てきた。自分が忌避してきたその怠け者になることだけは、絶対に避けたかった。


「まだあの店で働きたい?」


 幸はそんな私のことを知ってか、穏やかに語りかける。まるで、休むことを肯定しているようだった。しかし私にはやはり休むことに、拒絶反応を示していた。


「うーん。難しい質問だけど、もうこれ以上、店に迷惑はかけられないわ」


 これは幸の問いへの返答になっていない。幸は積極的な意味で、聞いてくれたのだ。つまり、私が能動的にあの文具店で働き続けたいのかどうか、という意味だ。だから私の答えはイエスかノーであるべきだった。しかし私が出した答えは、回り道をした消極的な理由だった。自分が働きたいわけではないが、働かなければならないという、強迫観念だ。


「どんな理由であれ、休むことを選択できるようになっただけでも、良かったよ」


 受付の女性が私の名前を呼んで、私は立ち上がり、一歩足を踏み出す。これが最初の一歩だと思う。また眠れるようになるための、第一歩なのだ。私は初診料と診察代に加えて、紹介状の代金も支払った。ふくよかな女性が、丁寧に封筒を渡してくれる。「こちら、北河病院の受付に提出して下さい」と言うのを聞いて、やけに紹介状が早いな、という印象を受けたが、私は礼を言って受け取った。こうして、私と幸は、田嶋医院を後にした。


 その帰り道、私はコンビニによって、いかにも事務的な便箋と封筒を買って、アパートに帰宅した。やはりコンビニで買うと、文具も高い。その上、書いて試すこともできない。これではインクの出方が分からないではないか。そもそも、手入れをせずに陳列されている文房具は、インクが出にくくなる傾向がある。私はコンビニに並べられた文房具を不憫に思った。固まりやすいインクだって、気付いた時に振ってあげていれば、購入後にすぐ使えるのだ。もう、自分には関係ないと知りながら、私は仕事のことを考えていた。


 ボールペンを試し書きしてから、私は退職届を書いた。これさえ提出すれば、私はハローワークに通いながら、治療を受けることができる。幸が言っていた通り、「じっくり、ゆっくり」治していくのだ。


 だが私には、避けては通れない所があった。私の家、つまりは私の家族である。私は夕食を食べてから、実家の固定電話に電話をかけた。私の家は変わり者が多く、頑固者の集まりだ。スマホは持っているが、部屋の隅に放置していることが多く、不携帯が常だった。だから今でも固定電話にかけるのが一番手っ取り早くて、確実に家族と繋がる手段だった。


「はい、黒森です」


出たのは、母だった。




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