8.化け物は実在している。

「そんなの、幸にも、幸の御家族にも悪いわ」


まだ私たちは互いの実家に挨拶に出向いたことはない。お互いに同棲中の彼氏、彼女がいるということは、それぞれの家に話してあったが、まだ私は義理の娘として幸の両親に甘えられる立場ではない。しかも何の偶然か、幸が言うお古の寝具も、緑を基調としていた。


「俺の親は娘が欲しかったから、映のことをもう自分たちの娘だと思っているよ。俺より映の方を心配していたくらいだ。甘えられるところには、甘えてもいいと思うよ」

「幸の家って、男の子だけなの?」

「あれ? 話してなかったっけ? 俺を筆頭に三人兄弟」

「聞いてないよ。弟さんたちは?」

「二男は来年から銀行勤め。一番下が大学三年生。二人とも東京」

「立派な御家族なのね」


嫌味ではなく、素直な感想だった。両親が公務員で、長男の幸は才能あふれる美大生。次男も大手の銀行で働いているという。一番下の弟はなんと医学部生だった。一般家庭からは想像もできない、恵まれた家庭だった。


「親が寂しがるのも分かるだろ? 母親なんか、俺をヒモ呼ばわりして、映を苦しめているのは俺だって決めつけてる。父親も女性を守れない男は、男の恥じだとか言って怒鳴るし、大変だったよ。弟たちは堅物すぎて女の影すらないから、余計映が大事なんだよ」


私はふっと笑ってしまった。幸の愚痴なんて、初めて聞いた。どんなにエリートの家

族でも、身内に対しては遠慮がないのだと思うと、おかしかった。すると幸は立ち上がって喜んだ。


「あ、笑った! それだよ、それ。映には笑顔が一番似合うよ」


私は新品同様のベッドに腰掛けた。硬すぎず、柔らかすぎず、ちょうどの硬さだっ

た。それよりも枕に目がいって、大きな枕を撫でてみる。手触りがよく、柔らかいのに沈み込み過ぎない。メーカーのロゴであるイルカが、枕の端から覗いているのを見ると、少しだけ罪悪感があった。


「お礼の電話だけでも、した方がいい?」

「俺が言っておくよ」

「でも」

「映は真面目すぎるんだよ。大丈夫、大丈夫」


緑のレースカーテンから、柔らかな光が差し込んでいた。緑にはリラックス効果があると、聞いたことがある。幸もそう聞いたことがあって、これだけ緑にこだわってくれたのだろう。


「今日は早く眠って、明日は医者に行こう。とりあえず近くの内科だな。田嶋医院たじまいいんになるけど、嫌なら他を探すよ。どうする?」

「ううん。そこに行くわ」


その田嶋医院は、市内の名医として有名な内科の病院だ。家族経営で世襲しているのに、悪評が立たないのは珍しい。そんなことを考えながら、私は幸と一緒に眠った。スマホからヒーリングミュージックが流れ、あらかじめ焚いていたアロマの香がした。これ以上ない眠りの空間で、今度こそ大丈夫だと、私は自分に言い聞かせて、瞼を閉じた。

 しかしその晩見た悪夢は、今までにないくらい恐ろしいものだった。毛むくじゃらの怪物に、生きたまま捕食されるという夢だった。逃げても、逃げても、化け物が追いかけてきて、最後には私をバリバリと骨ごと食べ、ずるずると生き血をすすりながら肉や内臓を貪る。全身を激痛が襲い、痛みに目が覚めた。思わず、自分の両足があるのか確認する。すると、足の指先に、毛がついていた。私は思わず叫び声をあげた。その叫び声に、隣の幸が目を覚まし、震える私を抱き寄せる。


「映。映! しっかりして。どうしたの?」

「幸! コレ! あいつの毛よ! あの化け物は実在しているのよ! 逃げないと!」


私は夢と現実の境目が分からなくなっていた。


「待って、落ち着いて」


幸が走り出しそうな私を、必死に抱き留める。


「それは、布団か何かの糸屑だよ!」

「え?」


私は幸の言葉に我に返り、握っていた物をよく見てみた。それは確かに、布団と同じ色をした緑色の糸屑だった。夢で見た化け物の体毛の色は、思い出せなかった。私は頭を抱えて、布団の上に伏した。そして、泣いていた。怖い、怖い、怖い。でも、それ以上に、自分が情けなかった。恐怖の正体が、あの化け物だと分かっただけでも、進歩なのだろうか。それとも、後退したのだろうか。分からない。自分のことなのに、何一つ分からなかった。幸は私が泣き止むまで、私を抱きしめ続けた。そうしている内に朝になり、私が落ち着くと、幸は田嶋医院に電話を入れた。私の状態を説明すると、田嶋医院から時間外でも連れてきてもいいと、快諾してもらえた。


「ごめん、ごめんね。幸」

「謝らなくていいよ。さ、行こう」


私は幸が運転する車の助手席に乗って、田嶋医院に向かった。駐車場に車を止めて、小さな病院の中に入る。待合室には、もう高齢の方が待っていた。いかにも地域密着型の病院と言う印象を受ける。無料のウォーターサーバーと紙コップで、お茶を飲みながら待合室で談笑している高齢者がいる中、私だけは充血した目を隠すように、伏し目がちに黙って長椅子の端に座っていた。隣には幸がいて、恋人つなぎをして私の緊張をほぐそうとしている。

 やがて私の名前が呼ばれて、幸は私に付き添う形で診察室に入った。来院する前に幸が話をしてくれていたおかげで、付き添いも認められたようだ。診察室の中にいたのは、長身だが童顔で、眼鏡をかけている医師だった。


「初診ですね。どうされました?」


田嶋医師がそう問うと言うことは、幸からの電話に出たのは看護師だったのだろう。私は何からどう話すべきか戸惑って幸の顔を見たが、幸が「大丈夫」とうなずくのを見て、恥ずかしいと思いながら「眠れない」と話した。


「とても怖い夢を見るんです。それも、現実なのか、夢なのか、幻覚なのか、区別がつかない有様で……」


私は医師を直視できず、頭を抱えていた。


「悪夢、ですか」

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