9.怠け者の言い訳

 田嶋医師は冷静な声とは裏腹に、顔を歪めた。何か心当たりがあるのかと思ったが、次に出されたのは、ありきたりな質問ばかりだった。


「最近大きなストレスや、生活の変化、習慣の変化はありませんでしたか?」

「この春から仕事を始めて、上手くいかなくて……。生活面では彼がサポートしてくれていますから、問題はないと思います」

「この時期は、精神面から眠りにくくなる方が多くいます。日中日光を浴びて、運動をして、夜は暗くすること。ブルーライトは夜に見ない方がいいですね。それでも治らない場合は、専門の病院を受診することをお勧めします」

「専門? 精神科ってことですか?」


差別しているわけではないが、自分が精神科に通うことについて、わずかに躊躇いがあった。


「頭痛などの症状があれば、脳外科や神経内科で検査を受けることもお勧めしますが、どうですか?」

「そうですね。そうします」

「分かりました。MRIの機械は、北河きたがわ県立病院が新しいのを入れたみたいです。あそこは心療内科もありますから、そこにしましょうか? ただ、交通の便があまり……」

「あ、送迎は俺がします」


話しに割って入った幸に、ちらりと視線を送った田嶋医師は、嫌な顔一つせずに軽くうなずいた。


「そうですか。では北河県立に紹介状を出します。いいですか?」

「はい」

「では、待合室でお待ちください」


食いつくように送迎を申し出た幸に苦笑しながらも、田嶋医師はそう言った。そして、私が立ち上がって一礼し、診察室を出ようとした時だった。


「黒森さん」


田嶋医師が、何か思い出したように、もしくは思い切ったように、私の名前を呼んだ。私と幸は二人同時に振り返る。


「はい?」

「ペットを飼われているわけではないですよね?」


私は一瞬、虚を突かれたような顔になったが、田嶋医師は「一応の確認です」と言うので、「いいえ」と答えた。今は間取りが良い割に安いアパートだから、ペットの飼育は禁止されている。それに、私の実家でもペットを飼っていた記憶はない。幸の家とは違って、私の家にはペットを飼うだけの余裕はなかった。


「そうですか。なら、いいんです。ありがとうございます」

「いえ」


そう言って、私と幸は待合室に戻り、再び寄り添うようにして座っていた。私も幸も、田嶋医師に対して好感を持っていた。よく話を聞いてくれるし、セカンド・オピニオンを当然としている。無理に薬を出さずに、紹介状もすぐに書いてくれるというのは、ありがたい。


「それにしても、最後の質問は何だったんだ? ストレスとペットが関係しているのか?」

「アニマルセラピーってあるくらいだから、ストレス軽減になるのかも」

「今度、アニマルカフェにでも行ってみようか?」

「幸。私はまだ、正式な退職届を出していないわ」


正社員であるにもかかわらず、平日の昼間から遊んでいるというのには抵抗があった。それが見栄であるとは分かっている。しかし、私は昔から正当な理由もなく休む人を、怠け者として見てきた。自分が忌避してきたその怠け者になることだけは、絶対に避けたかった。


「まだあの店で働きたい?」


幸はそんな私のことを知ってか、穏やかに語りかける。まるで、休むことを肯定して

いるようだった。しかし私にはやはり休むことに、拒絶反応を示していた。


「うーん。難しい質問だけど、もうこれ以上、店に迷惑はかけられないわ」


これは幸の問いへの返答になっていない。幸は積極的な意味で、聞いてくれたのだ。つまり、私が能動的にあの文具店で働き続けたいのかどうか、という意味だ。だから私の答えはイエスかノーであるべきだった。しかし私が出した答えは、回り道をした消極的な理由だった。自分が働きたいわけではないが、働かなければならないという、強迫観念だ。


「どんな理由であれ、休むことを選択できるようになっただけでも、良かったよ」


受付の女性が私の名前を呼んで、私は立ち上がり、一歩足を踏み出す。これが最初の一歩だと思う。また眠れるようになるための、第一歩なのだ。私は初診料と診察代に加えて、紹介状の代金も支払った。ふくよかな女性が、丁寧に封筒を渡してくれる。

「こちら、北河病院の受付に提出して下さい」と言うのを聞いて、やけに紹介状が早いな、という印象を受けたが、私は礼を言って受け取った。こうして、私と幸は、田嶋医院を後にした。

 その帰り道、私はコンビニによって、いかにも事務的な便箋と封筒を買って、アパートに帰宅した。やはりコンビニで買うと、文具も高い。その上、書いて試すこともできない。これではインクの出方が分からないではないか。そもそも、手入れをせずに陳列されている文房具は、インクが出にくくなる傾向がある。私はコンビニに並べられた文房具を不憫に思った。固まりやすいインクだって、気付いた時に振ってあげていれば、購入後にすぐ使えるのだ。もう、自分には関係ないと知りながら、私は仕事のことを考えていた。

 ボールペンを試し書きしてから、私は退職届を書いた。これさえ提出すれば、私はハローワークに通いながら、治療を受けることができる。幸が言っていた通り、「じっくり、ゆっくり」治していくのだ。

 だが私には、避けては通れない所があった。私の家、つまりは私の家族である。私は夕食を食べてから、実家の固定電話に電話をかけた。私の家は変わり者が多いが、頑固者の集まりだ。スマホはまだ持たず、ガラケーのままで、不携帯が多かった。だから固定電話にかけるのが一番手っ取り早くて、確実に家族と繋がる手段だった。


「はい、黒森です」


出たのは、母だった。私は少し、残念に思った。母はヒステリーをよく起こし、差別的な発言を平気でする人だった。私が精神科にかかるのを嫌がったのも、この母の存在が大きかったと言える。きっと母ならば、今でも精神を病んでいる人に向かって、平気で罵詈雑言を浴びせるだろう。私は今までのことをなるべく平たく、丁寧に説明した。病気のために会社を辞めることも、しばらくは病院通いになることも、全部だ。しかしやはり母は、私の話を理解するつもりはないらしい。


「映、それは単なる我がままよ。ふらふらして、やっと就職したと思ったら辞めるだなんて、みっともない。どうしてもっと、しっかりできないの? 優柔不断で、誰に似たのかしら? きっと、会社を辞めたことを後悔するわよ。大体、その退職理由は何? 眠れないから? 子供じゃあるまいし。それに、世間の目も考えてちょうだい。精神的なモノだなんて、怠け者の言い訳なんだから」

「分かってる」


そう言いながら、本当は分かりたくもなかった。体裁第一主義の母は、離れて暮らして何年もたつのに、全く変わっていなかった。だから、面倒になって、分かったふりをしたのだ。


「でも、もう限界なのよ。保険証は、町のを使うから」


母は訥々と小言を言い始めた。予想していたよりも、ひどい偏見に満ちた言葉の羅列だった。「ニート」や「引きこもり」、「迷惑」などと言った単語が多用された言葉の数々に、私は打ちのめされそうになる。聞くに堪えない母の言葉が終わらない内に、私はスマホの通話を切っていた。すぐに母の番号から電話が来たが、電話に出ることすら億劫で、私はスマホの電源を落とし、ベッドに倒れ込んだ。イルカのロゴマークを見て、幸の家族と、自分の家族を比べてしまう。それがいけないことで、無意味なことだとは分かっていたが、そうせざるを得なかった。全部、育ちの違いのせいにできたなら楽なのに、と私は思った。

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