9.怠け者の言い訳


 私は少し、残念に思った。母はヒステリーをよく起こし、差別的な発言を平気でする人だった。私が精神科にかかるのを嫌がったのも、この母の存在が大きかったと言える。きっと母ならば、今でも精神を病んでいる人に向かって、平気で罵詈雑言を浴びせるだろう。私は今までのことをなるべく平たく、丁寧に説明した。病気のために会社を辞めることも、しばらくは病院通いになることも、全部だ。しかしやはり母は、私の話を理解するつもりはないらしい。


「映、それは単なる我がままよ。ふらふらして、やっと就職したと思ったら辞めるだなんて、みっともない。どうしてもっと、しっかりできないの? 優柔不断で、誰に似たのかしら? きっと、会社を辞めたことを後悔するわよ。大体、その退職理由は何? 眠れないから? 子供じゃあるまいし。それに、世間の目も考えてちょうだい。精神的なモノだなんて、怠け者の言い訳なんだから」

「分かってる」


 そう口では言いながら、本当は全く分かりたくもなかった。母の言いそうなことは、おおよそ予測は出来ていたのに、傷つく自分がいた。体裁第一主義の母は、離れて暮らして何年もたつのに、全く変わっていなかった。だから、面倒になって、分かったふりをしたのだ。


「でも、もう限界なのよ。保険証は、町のを使うから」


 母は訥々と小言を言い始めた。予想していたよりも、ひどい偏見に満ちた言葉の羅列だった。「ニート」や「引きこもり」、「迷惑」などと言った単語が多用された言葉の数々に、私は打ちのめされそうになる。聞くに堪えない母の言葉が終わらない内に、私はスマホの通話を切っていた。すぐに母の番号から電話が来たが、電話に出ることすら億劫で、私はスマホの電源を落とし、ベッドに倒れ込んだ。イルカのロゴマークを見て、幸の家族と、自分の家族を比べてしまう。それがいけないことで、無意味なことだとは分かっていたが、そうせざるを得なかった。全部、育ちの違いのせいにできたなら楽なのに、と私は思った。


 私は翌日、会社を退社して、その帰りに本を返した。ここから通院生活が始まるのだと思うと、足元がおぼつかない感覚に襲われた。会社を辞めたことで、社会的に自分の立場がどこなのか分からなくなったための、幻覚だった。北河県立病院、脳の検査、心療内科、という言葉が、私の脳裏に浮かんでは消える。脳の病気だったら、怖いけれど手術で治るのではないか。しかし精神的なものだったら、長くかかるし、偏見を持たれそうで嫌だった。母の言葉が思い出される。それは私自身も、どこかに精神疾患に対して、差別的な考えがあったからだと思う。そこまで考えて、私は自己嫌悪に陥り、眠るのが急に怖くなった。今までも眠ることが億劫だったが、今は恐怖が私を支配していた。肌に、まだ化け物の感覚が残っていた。起きているにもかかわらず、化け物に食われる自分がよみがえる。骨が砕け、肉を裂かれ、臓物を引きずり出され、血が滴る。夢の中だけで終わればいいものの、起きてからも激痛や疼痛、何より触覚があった。化け物の爪や牙が皮膚を破る感覚。化け物が口を開く時に感じる息を吹きかけられる感覚。思い出しただけでも、怖気が走った。


 アパートに帰った私は、ブラックコーヒーを何杯も飲んでいた。眠りたくない。怖い。もう悪夢を見たくない。まるで地獄。早く誰か治して。もう耐えられない。私の眠りを返して。そんな辛い思いをしながら、私は幸の帰りを待っていた。今日の夕食は私が作った。幸は大学に通って、TAのようなことをやって、お金を稼いできてくれている。もちろん、休学中なので、正規のTAではなく、教授のポケットマネーから給料が出ている。そんな幸のことを思うと、やはり大学の先生からも見込まれる才能が、幸にはあるのだと実感する。


「ただいま。映、明日、北河病院に行こう」


 荷物を椅子に置きながら、幸は言った。私も素直にうなずく。


「うん。善は急げっていうものね」

「そういうこと」


 私は少しだけ後ろめたかった。私は今晩、眠らないつもりでいたからだ。徹夜が体に良くないことぐらい、私にも分かる。ただ、眠るという、他人にとって当たり前の行為が、怖くて仕方なかった。だから、治るまでの辛抱だと、自分を鼓舞する。そして治ったら思い切り眠ろうと思った。明日に病院で診てもらえば、病名が出て、薬だって出るだろう。そうでなければ、悪い部分を取ってしまえばいい。それでこの恐怖と対峙せずに済むのなら、ちょっとぐらい眠らなくてもいい。そんな安易な考えから、私は幸がお風呂に入っている時も、こっそりブラックコーヒーをまた飲んでいた。しかも、マグカップの半分がインスタントコーヒーという濃いコーヒーだった。念には念を入れて、その後には、エナジードリンクを一本飲んだ。


 その晩、私は一睡もすることなく、翌日の朝を迎えた。もう学生時代のような無理はきかないのか、頭が割れるように痛んだ。しかし鎮痛剤は眠くなる成分を含んでいるから、飲まずに北河病院へと向かった。病院は混雑していて、脳神経内科は、座るのがやっとだった。九時には病院に着いていたにもかかわらず、診察室に呼ばれたのは、もう昼近くになってからだ。北河病院の医師は田嶋医師より老けこんで見えたが、白衣の下のシャツなどを見ると、見た目より若そうだった。


「悪夢ですか。紹介状を見る限り、ストレスに起因していると考えられますが、脳の状態を要確認ですもんね。今日は脳波だけ取って、MRIは予約になりますが、それでよろしいですか?」

「はい」

「悪夢を見ても、睡眠はちゃんととっていますか?」


 私はその質問に肝を冷やしたが、反射的に「はい」と答えていた。老け顔の医師は、確認するように私の顔をじろりと見た。まるで私の嘘を見透かすような目だった。そして、奇妙な質問をした。


「その悪夢に脈絡はありますか? それとも断片的?」

「断片的、だと思います」

「感情を伴った夢? それとも印象に残りにくい?」

「とても怖くて、激痛がします。でも、それは自分の感覚であって、夢に出てきたものは、詳しく印象に残ってはいません」


 老け顔の医師は、ペンの先で自分のこめかみ辺りを、こつこつと叩いてつぶやいた。


「幻覚に近いな」

「どうして幻覚なんですか?」


 先ほどの質問にどんな意味があったのか、気になった。夢ではなく幻覚だとしたら、私はやはり精神を病んでしまっているのだろうか。


「レム睡眠とノンレム睡眠は、聞いたことがあるよね?」

「はい、何となく」


 医師はふむ、とうなずいた。


「REMはrapid eye movementの略で、眼球運動のある眠りの状態です。ノンレムは、それがない状態ということです。今の黒森さんの夢だと思っている物は、この二つの眠りの特徴が混在しています」


 これを聞いていた幸は、私の後ろから医師に質問をぶつける。


「先生、夢はノンレムの深い眠りの時には、脳も休むので見ないのでは?」


 おそらく幸は、私が借りてきた本の中にあった情報を記憶していたのだ。私はあの本をよく読まなかったことを、今になって後悔していた。医師は私とのやり取りに横やりを入れられる形となって、わずかに不快そうな顔をした。癖なのか再び、こめかみの辺りをペンでこつこつと叩く。しかし椅子に深く腰掛け直すと、幸の方に向き直って説明を加えた。


「ノンレム睡眠で夢は見ない、という説は修正されています。ただ見る夢が違う。レム睡眠で見る夢は鮮明な映像や、感触があってドラマ的です。つまり、テレビドラマの主人公になったかのような夢です。それに加え、激しい感情も伴っている。気分の変化が外から分かるほど強くなった状態を、心理学では『情動』と呼ぶそうです。一方、ノンレム睡眠の夢は断片的で不鮮明。感情も伴わず、日常的で平凡な内容のため、印象に残らないことが多いと言うだけです。つまり人間は、夢を見ている状態である睡眠と、夢を見ていない状態である覚醒を繰り返している動物なんです。だから、睡眠は大事なんです」


 ここまで説明されて、やっと先ほどの質問の意味が分かってきた。




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