15.ただの水道水

 そして俺は映のために絵を描いた時のように、水張りを行った。雫の名字は深見ふかみと言い、残り二名はいずれも男性だと、後で映からの電話で聞いた。まだ清川から二人への面談許可はおりていない。深見雫は、病棟で他の患者から「カナリア」と呼ばれることもあったという。それは雫が子供向け教育番組で流れる曲が大好きで、よく皆の前で歌っていたからだという。そんな明るい一面を持つ一方で、幼稚園では苛められていた。雫は「ずっと入院していたい」と両親に駄々をこねるそうだ。雫にとってその苛めは、悪夢よりも恐ろしいモノなのだ。俺はそんな雫に思いをはせながら、セピア色をカンバスにのせていく。手前の一輪の花にピントを合わせ、背景はわざとぼかす。手前の花を覗き込んだように見えるようにするためだ。花の中央に、朝露が溜まっているようなイメージだ。そしてその朝露に映り込んでいるのは、地球と月だ。俺はこの絵を仕上げて、映からの連絡を待った。その間に、二枚の紙を水張りしておくことにした。こうして下準備しておけば、イメージが薄れない内に絵を描くことができるだろう。

 映から連絡があったのは、映の快眠という吉報があってから、一週間後のことだった。どうやら部外者の俺と患者を接触させるにあたって、映と清川の間で、かなり激しいやり取りがあったらしい。映は頑固なところがあるから、心配はしていたが、清川が接触の際に同行するということで折り合いがついたようだ。「絵が病気を治した」と言い張る映に、清川は面白くない思いをしただろう。俺だって自分の絵で病を治せるなどという、傲慢な事は考えていない。きっと清川の必死の治療のおかげで、映は眠れるようになったのだ。俺の絵はたまたま、映が回復するタイミングに渡されたというだけだろう。

 俺は雫へ贈る絵を持って、車を走らせた。雫は気丈に振る舞えるが、まだ五歳。そんな女の子が、幼稚園よりも病院を選ぶほど、激しい苛めにあっていた。映もそうだったが、相当なストレスをため込んでいただろう。ストレス発散には眠ることが一番だと言っていた友人を思い出す。しかしストレスによって眠りが妨げられるのであれば、もはやストレスの吐き出し口はなくなってしまう。もしもこの絵が、ストレスの受け皿になっていたら、俺も描いたかいがあるというところだ。

 病院に着いて、一般病棟から待合室に出てきていた映と合流するが、医師らしき人は見当たらない。辺りに視線を走らせた俺に、映は察したように告げた。


「清川先生は忙しいから、遅れてくるんだって」

「まあ、地方の医者って誰でも忙しそうだもんな」

「特にここはね」


映は嫌味っぽく言った。俺が映を強制入院させたことを、まだ根に持っているようだ。ここは県の中では有名な精神科の専門病院だ。ストレス社会と言われる現代日本では、必要な病院だと思う。映も実際、この病院で治っているのだから、俺の判断は間違っていなかったという自信がある。俺と映が話していると、白衣の男が近づいてきた。こけた頬。伸びっぱなしの髪には寝癖。髭も剃っていない。長身ではあるが、中肉中背。肌は白く、彫りが深い。


「清川先生、紹介します。彼が私の……」

「彼氏で恩人で画家の卵の幸君、だろ? もう聞き飽きたよ、黒森さん。初めまして、清川です。黒森さんから絵を見せてもらったよ。何ていうか、中学生でも描けそうな絵だったね」


清川は映の言葉を遮り、鼻で笑ってそう言った。そして、俺についてはあからさまに見下した表情をしていた。俺は清川のネームプレートを確認する。「清川傑きよかわすぐる」とあった。名前まで偉そうだ。確かに俺の絵にしては、おとなしい一般向けの大衆受けしそうなモチーフの絵だった。しかし腐っても美大生の絵を、「中学生レベル」と評するのは、挨拶としては敵愾心を煽り過ぎなのではないだろうか。


「初めまして、映がお世話に……」

「いいよ、そんな社交辞令。それで、今日は雫ちゃんに絵を描いて来たって聞いてるけど、今持ってたら、見せて欲しいな。黒森さんいわく、奇跡の絵、ってやつをね」


今度はも鼻で笑いながら、俺の言葉も遮る。清川は俺のことをどうも嫌っているようだ。そして何より、俺の絵を認めてはいない。普段は他人をあまり厳しく見ていない俺でも、清川の第一印象は最悪だった。社交辞令であっても、人の言葉は最後まで聞いてほしい。清川が差し出した手に、絵をファイルごと乗せる。清川はクリアファイル越しに俺の絵を観察した。近づけたり、遠くから眺めたり、臭いをかいだり、絵の裏を見たり。


「絵具は特別な物?」

「いいえ。どこにでもある水彩絵の具ですよ」

「触ってもいい?」

「どうぞ。手に取って見て下さい」


清川はそっとファイルから絵を取り出す。丁寧と言うよりも、恐る恐るといった様子だった。自分の患者を治す可能性のある絵を、粗雑には扱えないようだ。


「紙も、普通?」

「はい。ただの画用紙です」

「何か特殊な工程がある?」

「水張り、くらいかな?」

「みずばり? それって、どんな水使うの?」

「ただの水道水です」


俺が簡単に水張りについて教えると、清川は急に興味を失ったように、「ふうん」と鼻を鳴らして、絵をファイルの中に戻した。


「どうも」


清川はそう言って、俺にファイルごと絵を返した。まるで時間の無駄だったとでも言いたげな表情だった。清川はじゃらじゃらと言わせた鍵の束から一本を選び、閉鎖病棟の鍵を開けた。

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