15.ただの水道水
清川は映の言葉を遮り、鼻で笑ってそう言った。そして、俺についてはあからさまに見下した表情をしていた。俺は清川のネームプレートを確認する。「清川傑」とあった。名前まで偉そうだ。確かに俺の絵にしては、おとなしい一般向けの大衆受けしそうなモチーフの絵だった。しかし腐っても美大生の絵を、「中学生レベル」と評するのは、挨拶としては敵愾心を煽り過ぎなのではないだろうか。
「初めまして、映がお世話に……」
「いいよ、そんな社交辞令。それで、今日は雫ちゃんに絵を描いて来たって聞いてるけど、今持ってたら、見せて欲しいな。黒森さんいわく、奇跡の絵、ってやつをね」
今度も鼻で笑いながら、俺の言葉も遮る。清川は俺のことをどうも嫌っているようだ。そして何より、俺の絵を認めてはいない。普段は他人をあまり厳しく見ていない俺でも、清川の第一印象は最悪だった。社交辞令であっても、人の言葉は最後まで聞いてほしい。清川が差し出した手に、絵をファイルごと乗せる。清川はクリアファイル越しに俺の絵を観察した。近づけたり、遠くから眺めたり、臭いをかいだり、絵の裏を見たり。
「絵具は特別な物?」
「いいえ。どこにでもある水彩絵の具ですよ」
「触ってもいい?」
「どうぞ。手に取って見て下さい」
清川はそっとファイルから絵を取り出す。丁寧と言うよりも、恐る恐るといった様子だった。自分の患者を治す可能性のある絵を、粗雑には扱えないようだ。
「紙も、普通?」
「はい。ただの画用紙です」
「何か特殊な工程がある?」
「水張り、くらいかな?」
「みずばり? それって、どんな水使うの?」
「ただの水道水です」
俺が簡単に水張りについて教えると、清川は急に興味を失ったように、「ふうん」と鼻を鳴らして、絵をファイルの中に戻した。
「どうも」
清川はそう言って、俺にファイルごと絵を返した。まるで時間の無駄だったとでも言いたげな表情だった。清川はじゃらじゃらと言わせた鍵の束から一本を選び、閉鎖病棟の鍵を開けた。
面談室には、職員と共に雫が待っていた。清川の顔を見た職員は、雫に何かを言ってから俺たちに一礼し、その場を去った。
「あー、やっと来た! もう、待ちくたびれちゃったよ~」
「ごめん、ごめん。雫ちゃん」
清川は声のトーンを上げて、屈んで雫と目の高さを合わせると、雫の頭を優しく撫でた。清川のその豹変ぶりに、俺は鳥肌がっ立った。隣では映が苦笑している。映は声を潜めて俺にささやく。
「自分の患者さんには、優しいのよ」
「映にも?」
「もちろん」
医者が患者に対して優しいのは理解できるが、俺への対応は人としてどうなのか、と思う。これはもしかして、究極のツンデレというやつなのだろうか。そう思っていると、清川の手が俺の方に伸びてきた。
「ほら。お兄ちゃんが雫ちゃんのために、絵を描いてきてくれたんだって」
「え? 本当?」
黒く大きな瞳を輝かせる雫を前に、俺は何も言えなくなっていた。ここはおとなしく清川に絵を渡した方が良さそうだ。手柄を横取りされたようで、少し癪だったが仕方ない。清川は雫に絵を見せながら、いくつかの質問をした。
「ほら。この絵だよ。上手な絵だね。何が描いてあるか分かる?」
「うーん、分かんないけど、綺麗!」
俺と映は顔を見合わせ、雫に視線を戻す。その絵を見た人は、十中八九、花の絵だと答えるだろう。そして一人か二人くらいは、地球と月の絵だと言うかもしれない。「分からない」という答えは、全くの予想外の答えだった。どうやら雫には、独特な感性があり、それは他人には理解しがたいものだったようだ。もしかしたら、これが雫への苛めに繋がっているのかもしれない。清川は絵を雫に渡し、さらに質問を重ねる。
「じゃあ、この絵を見た感想は? どんな気持ちになる?」
雫は首を傾げ、清川の顔を凝視する。
「柔らかくて、温かい気持ち」
「〇と△と□があったら、どれかな?」
「まるいの」
「明るいのと、暗いのだったら、どっち?」
「分からないけど、お昼でも夜でもないよ」
「夕方?」
「違う」
「そっか。ありがとう。良かったね、雫ちゃん。今日はその絵と一緒に眠るといいよ」
「はーい。そうします」
「もう、お部屋に戻っていいよ。先生たちは少しお話があるから」
「うん。ありがとう、お兄ちゃん」
雫は大事そうに絵を抱え、走って面談室を後にした。
清川が立ち上がると、やはり長身が目に付いた。清川は寝癖だらけの髪に手を突っ込んで、頭を掻きながら、大きな溜息を吐いた。そして、「よっこらしょ」と言いながら椅子に深く腰掛けた。清川の目は、雫が出て行ったドアを見ていた。何かに絶望したような顔だった。もしくは、大切な物を賭けた戦いに敗れたような、疲れ切った顔だ。
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