14.原因不明の完治


「五人? 五人とも同じ夢を見て、この病院に入院しているのか? しかも、地域は限られている?」

「そうよ」


 映は明るい声で応じたが、俺は黙り込んでしまった。そんな俺を無視するように、映は続けた。


「それでね、五人のうち一人は私が入院する前に治って、退院したの。朗報だと思わない? この病気、治るのよ」

「治る?」


 それは確かに吉報だった。精神科の病気には統合失調症のように、現在の精神医療では治らない病気もあると、どこかで呼んだ本に書いてあった。その場合、症状を抑える薬を一生飲み続けなければならないという。俺は映の主治医の話を聞いたからなのか、すぐに手放しで喜ぶことができなかった。


「その人はどうして治ったんだ? 原因が分かったのか?」

「それが、清川先生にも分からなかったんだって」

「原因不明のまま完治?」


 映は周りを見渡して、俺の耳に唇を寄せてこそこそと話した。


「その人、先生の知人だったらしいわ。あいつ、って呼んでたもの」


 確かに、親しい人を呼ぶときには、人はくだけた言い方をする。知人の中でも親しい人を呼ぶとなると、「あいつ」となるだろう。清川医師の人間関係がどういったものなのかは知らないから推測になるが、「あの女」と言わないなら、「あいつ」は医師と同性、つまり男性で、年も近いと考えられる。これ以上の情報が欲しいところだったが、映の治療に差支えがあるといけないし、推測に推測を重ねるのは良くない。


「どうしたの? 怖い顔して」


 映が小首をかしげている。入院してまだ間もないが、髪の毛が伸びたせいか、落ち着いた女性らしさがあった。


「いや、何でもない。今日はもう帰るよ。絵、受け取ってくれてありがとう。また来るよ」


 こうして、俺は誰もいないアパートに、一人で帰った。


 しかしその日から三日後、映の様態は激変することになった。


 俺は早朝、スマホの音楽で起こされた。設定してあるアラーム音ではなく、着信音だった。ディスプレイを見ると、「映」と表示されていた。それに気が付いた俺は飛び起きた。映に何か良くないことがあったのではないかと思ったからだ。しかし通話状態にしたとたん、映の明るい声が、俺の耳の中で弾けた。


『幸、おはよう。私、眠れるようになったの! 怖い夢も見ないのよ! 幸の絵を見てからずっと眠れてるの!』


 映の笑顔とはしゃいでいる様子が、目に見えるようだった。今まで映の苦しみを直に見てきた俺は、涙が出るくらい安堵していた。


「本当なんだな? もう、ぐっすり眠れるんだな?」

『うん、そうなの! 本当は一日目に電話したかったんだけど、偶然だったらお互いに肩透かしするでしょ? だから、三日も電話するのを我慢してたの! そうしたら、三日間ともよく眠れて、先生にも話したの。清川先生も、この状態が続くのであれば、って言って、明日には一般病棟に移るのよ』


 映の純粋な喜びと興奮が、電話の声で伝わってくる。俺も、興奮していた。映の弾んだ声を聞くのは、本当に久しぶりだ。


『ねえ、幸。お願いがあるの。雫ちゃんや他の人にも、絵を描いてくれない? 私に描いてくれたみたいな絵』

「それは構わないけど、本当に絵が薬になることはないと思うよ」

『私たちにとってはそうなのかもしれないわ。だって私が眠るときに変わったことと言えば、幸の絵を飾ったくらいだもの!』

「映と同じ夢を見ている患者さんは、全員担当医は清川先生?」

『そうよ』

「じゃあ、清川先生に許可を取る必要があるんじゃないか?」


 俺の絵が、薬の役割を果たしたということは、俺自身が一番信じられなかった。もしかしたら、絵の具や紙の匂いが、映にとって良かっただけかもしれない。それに、病は気からとも言う。映の思い込みが、治癒に結びついたというだけという考えも成り立つ。だから、他の三人が同じ作用を得られるという保証はどこにもなく、逆に症状を悪化させる可能性もある。映も冷静さを取り戻したように「そうね」と答える。


『分かったわ。清川先生に私から話してみる。幸はその間に絵を描いてくれない?』


 映にそう言われたが、全くアイディアが浮かんでこなかった。映に贈るために描いていた時はすぐに筆が動いたのに、今回は白紙しか頭の中に浮かばない。単に、その絵を贈る対象者のことを知らないのだと気付く。例えば見ず知らずの人から「貴方のために絵を描いた」と言われれば、腹立たしく、不気味な絵としか思えないだろう。絵を贈るにあたっては、やはりその対象の人物と出会ってみなければならない。そして、その人から得られるインスピレーションで、筆を走らせるのが一番だ。そうして描かれた絵ならば、相手も絵を受け入れやすいだろう。自分のことをよく知り、理解してくれている相手から、「貴方のために絵を描きました」と言われれば、嬉しく思ってくれるかもしれない。その絵が気に入らなくても、相手が本当に自分のことを想って描いてくれた絵ならば、少なくても受け取るくらいはするのではないだろうか。


「映。出来ればその人達に会ってから、絵を描きたいんだけど」


 俺の申し出に、映も同じ感覚を持ったようで、すぐに答えが返ってくる。


『それもそうね。この件も清川先生に相談してみる』

「あ、雫ちゃんとはもう会ってるから、他の二人に会うだけでいいよ」


 会ったことがある雫へ贈りたい絵のイメージは、ぼんやりと頭の中に浮かんでいた。名前から連想した絵だったので、やや安直過ぎると思ったが、俺はカンバスに向かえば描くことができると思ったし、おそらく気に入ってもらえるだろうという自信もあった。


『分かったけど、あんまりこんつめないでね』

「映の方こそ、無理は禁物だぞ」

『分かってる。じゃあ、またね』


 俺と映は互いに名残惜しく、電話を切った。


 そして俺は映のために絵を描いた時のように、水張りを行った。雫の名字は深見と言い、残り二名はいずれも男性だと、後で映からの電話で聞いた。まだ清川から二人への面談許可はおりていない。深見雫は、病棟で他の患者から「カナリア」と呼ばれることもあったという。それは雫が子供向け教育番組で流れる曲が大好きで、よく皆の前で歌っていたかららしい。そんな明るい一面を持つ一方で、幼稚園では苛められていた。雫は「ずっと入院していたい」と両親に駄々をこねるそうだ。雫にとってその苛めは、悪夢よりも恐ろしいモノなのだ。俺はそんな雫に思いをはせながら、セピア色をカンバスにのせていく。手前の一輪の花にピントを合わせ、背景はわざとぼかす。手前の花を覗き込んだように見えるようにするためだ。花の中央に、朝露が溜まっているようなイメージだ。そしてその朝露に映り込んでいるのは、地球と月だ。手前の小さい花では見えなかったものが、奥の方の花にはしっかりと映りこんでいる。それは世界そのものだ。雫はまだ幼いけれど、きっと今よりも大きな世界に出会うことができる。朝露のように透明で繊細な心を忘れなければ、必ず今まで見えていなかったものが見えてくる。それはおそらく、希望と名付けることができる。そう願いを込めて描いた。俺はこの絵を仕上げて、映からの連絡を待った。その間に、二枚の紙を水張りしておくことにした。こうして下準備しておけば、イメージが薄れない内に絵を描くことができるだろう。


 映から連絡があったのは、映の快眠という吉報があってから、一週間後のことだった。どうやら部外者の俺と患者を接触させるにあたって、映と清川の間で、かなり激しいやり取りがあったらしい。映は頑固なところがあるから、心配はしていたが、清川が接触の際に同行するということで折り合いがついたようだ。「絵が病気を治した」と言い張る映に、清川は面白くない思いをしただろう。俺だって自分の絵で病を治せるなどという、傲慢な事は考えていない。きっと清川の必死の治療のおかげで、映は眠れるようになったのだ。俺の絵はたまたま、映が回復するタイミングに渡されたというだけだろう。


 俺は雫へ贈る絵を持って、車を走らせた。雫は気丈に振る舞えるが、まだ五歳。そんな女の子が、幼稚園よりも病院を選ぶほど、激しい苛めにあっていた。映もそうだったが、相当なストレスをため込んでいただろう。ストレス発散には眠ることが一番だと言っていた友人を思い出す。しかしストレスによって眠りが妨げられるのであれば、もはやストレスの吐き出し口はなくなってしまう。もしもこの絵が、ストレスの受け皿になっていたら、俺も描いたかいがあるというところだ。


 病院に着いて、一般病棟から待合室に出てきていた映と合流するが、医師らしき人は見当たらない。辺りに視線を走らせた俺に、映は察したように告げた。


「清川先生は忙しいから、遅れてくるんだって」

「まあ、地方の医者って誰でも忙しそうだもんな」


 地方の精神科医ならば、さらに多忙だろう。最近は色々な心の病に名前がついて、社会的に認知もされ始めた。今ではよく使う「鬱」という病名も、一昔前ではストレスに弱い人がなる病気のイメージが強かった。しかし現在では誰にでも罹る危険性があり、適切な対処方法をとれば社会復帰も出来るという印象に変わってきている。その分、精神科医は慎重かつ適切な診断を下し、薬を処方することが求められるようになった。この辺りではまだ精神疾患に対する偏見は強いが、社会の風潮は変わりつつある。この病院は精神疾患の専門病院なので、この辺りの風当たりは強いが、それでも多くの患者が連日診察やカウンセリングに訪れている。地方の医師不足は年々深刻化しているにもかかわらず、患者だけが増える一方の分野だと言える。映の担当医には頭が上がらない。


「特にここはね」


 映は嫌味っぽく言った。俺が映を強制入院させたことを、まだ根に持っているようだ。ここは県の中では有名な精神科の専門病院だ。ストレス社会と言われる現代日本では、必要な病院だと思う。映も実際、この病院で治っているのだから、俺の判断は間違っていなかったという自信がある。俺と映が話していると、白衣の男が近づいてきた。こけた頬。伸びっぱなしの髪には寝癖。髭も剃っていない。長身ではあるが、中肉中背。肌は白く、彫りが深い。


「清川先生、紹介します。彼が私の……」

「彼氏で恩人で画家の卵の幸君、だろ? もう聞き飽きたよ、黒森さん。初めまして、清川です。黒森さんから絵を見せてもらったよ。何ていうか、中学生でも描けそうな絵だったね」




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