3.あの人の絵が好き

 泣き止んで歩みを進めても、いたるところに中島幸のポスターが張り出されている。まるでポスターに追い立てられているようで、逃げ場がなかった。

 とうとう私は廊下に貼り出されているポスターの前で屈んで、泣いた。他人の刺すような視線が痛い。時々蹴られて、罵声を浴びせられる。男の声や女の声に混じって、男か女か分からない声も聞こえた。一般公開日だから、子供の声や老人の声もした。皆が私を責めている。こんなところで屈んで泣いていれば、通行の妨げになることは、百も承知だ。それなのに、ある男性が、私につまずいて謝ってきた。私のせいで転びそうになって、他人から笑われていたのに、男性は私を気遣った。


「ごめん、えと、気分が悪い? だったら、ごめん」


私は男性の優しさに、戸惑っていた。遠くにいる男性の知人らしき声が、男性を下の名前で呼んだ。


「おい、こう。何やってんだよ? ナンパか?」

「違うよ。悪い、先行ってて」


私の脳裏に、小さな文字の羅列が浮かんだ。「中島幸」という文字だ。同名なんて、男女問わずにいるだろう。それなのに私は、この男性がポスターの作者だと直感的に思った。そしてその直感は、当たっていた。


中島なかじま、幸さん?」


泣きはらした私がそう言って幸の顔を見上げると、幸は渋い顔をして、ポスターを見た。そしておもむろに、廊下に貼ってあったポスターを破り始めた。紙がザザザという悲鳴をあげて、中央部分がなくなった。大部分を失ったポスターは、もう破れた紙屑でしかなかった。幸は口を開けて佇む私を気にも留めず、破った紙を乱雑に丸めて、燃えるごみのゴミ箱に捨ててしまった。そして悪戯が成功した悪ガキみたいに、屈託のない笑顔で私を見た。


「こっちの方が、芸術的で面白いね」


確かに斬新な芸術作品にも見えなくはないが、これはポスターである。四つの角を残して消えたポスターは、その役割を破棄してしまったかのように見えた。


「怒られますよ?」


本気で私は心配していたのに、本人は全く意に介さず、白い歯を見せて笑った。


「あっちこっちに貼り過ぎだから、一枚くらい許してくれるよ。大体、学校側も悪趣味だ。人の気分を害する絵なんて選んでさ。嫌がらせかよって思わない?」

「気分を害する? 私には才能の塊にしか見えませんけど?」

「そうかな? 俺はあの人の絵が好きだったな。誰だっけ? 俺、絵はイメージで覚えられるけど、人名覚えるの苦手なんだ。ほら、この辺りの伝統芸能みたいな名前の人、いたじゃん?」


幸の言葉に、私の胸はトクンと跳ねて、淡い期待が首をもたげる。私の名前は黒森映。そしてこの辺りの有名な伝統芸能と言えば、一つしかない。


「黒森歌舞伎?」

「ああ、そう、それ! よく分かったね」

「私の苗字、だったもので」


私が俯いて、赤くなった顔を隠すように言うと、幸は大げさなくらい目を丸くした。


「俺のポスターで、気分悪くした?」


猫のような目が、笑いながら私に問いかける。幸の瞳はカラーコンタクトをしていないのに、普通の人より色が薄かった。元から色素が薄いのか、髪の色も赤茶色で、猫が人間になったようだった。私は慌てて目を擦って、正直に泣いていた理由を話した。


「中島さんとの力の差を感じ過ぎて、現実に打ちのめされました」

「幸でいいよ。ねえ、もしかして、学食行くところだった?」


私が屈んでいた廊下の先には、大きなカフェテリアがあり、学生からは「学食」と呼ばれていた。私は特に学食に行く予定はなかったのだが、頷いていた。この才能の塊と一緒にいたら、きっと私も感化されて、なかったはずの才能が刺激されるのではないかと言う打算と、憧れの人ともっと話してみたいというミーハーな感情が混在していた。


「じゃあ、一緒に行かない? 話ししてみたいし」

「はい」


雲の上だと思っていた存在に、話してみたいと言われて、私は浮足立っていた。しかしこういう才能で溢れた人で、誰にでも人懐っこくできる人は、この大学にはきっと沢山いるのだろう。そんな人たちにとって私は、大勢いる中の知人の一人でしかないことを、寂しく思った。それなのに心のどこかでは、幸にとって私が特別な存在でありたいという願望もあった。席を確保することになり、挨拶程度のノリで連絡先を交換し、一緒に軽食を食べた。二人とも、学食で一番安いカレーを食べた。食事を終えて、私は初めて幸が絵具だらけのつなぎを着ていることに気付いた。青いジーンズ生地のつなぎは、何度も洗っているのか、色が抜けていた。何かの作業中だったのかもしれない。洋風の油絵の具ではないが、日本の伝統的な絵具とも違っていた。


「ああ、これ? 汚くてごめんね。リキテックスって、布に着くと落ちないんだよね」


私はその絵具の名前を知っていた。リキテックス。良い響きだ。高校の美術の授業で、油かリキテックスを選択することになり、私は一人、リキテックスを選んだ。他の人は皆油だったから、自分は他の人と違うとアピールしたかったのかもしれない。リクテックスは乾きが早く、乾いた後はビニールのような質感になる。厚みを出すために、グロスポリマーメジウムという、白くてドロドロした物を混ぜて使う。パレットに乗せた瞬間から乾き始めるため、霧吹きでパレットに水を吹きかけながら作業をする。その面倒だが楽しい作業を、私は懐かしく思った。そして、やはり幸が私と同じ素材を選んでいることに、喜びを感じていた。


「あの、幸さんは、どうして私の絵が好きだったんですか?」


不安になりながらも、自分の才能を認めてくれたのだと期待する。しかし幸はそんな私の期待をあっけなく吹き飛ばしてしまう。


「うーん。ぎらぎらしているところかな」


キラキラだったら嬉しかったのだが、ぎらぎらとは、何となく嫌な響きだった。脂ぎっていて、良くないことに使う印象が強い。


「欲にまみれてて、先生やテーマに媚びていて、それが透けて見えるから、面白かった」


これは褒められているのではなく、確実にけなされている。しかし不思議と怒りや不快さは感じられなかった。それは私が小学生の頃に体験したクラスの空気感が、幸の言葉から感じられなかったからかもしれない。


「何ていうか、人間の生々しさがあって、良かった」

「ありがとう。そう言ってもらえれば嬉しいけど、やっぱり才能があるのは、幸さんみたいな人だと思う。光栄だわ」


私は幸に対して尊崇の念さえ抱いていた。嫉妬なんて入り込む余地はやはり無く、この人について行きたいとまで思えた。


「幸って、呼び捨てにしていいよ。俺も映って呼んでいい?」

「もちろん」

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