3.あの人の絵が好き

 雲の上だと思っていた存在に、話してみたいと言われて、私は浮足立っていた。しかしこういう才能で溢れた人で、誰にでも人懐っこくできる人は、この大学にはきっと沢山いるのだろう。そんな人たちにとって私は、大勢いる中の知人の一人でしかないことを、寂しく思った。それなのに心のどこかでは、幸にとって私が特別な存在でありたいという願望もあった。席を確保することになり、挨拶程度のノリで連絡先を交換し、一緒に軽食を食べた。二人とも、学食で一番安いカレーを食べた。食事を終えて、私は初めて幸が絵具だらけのつなぎを着ていることに気付いた。青いジーンズ生地のつなぎは、何度も洗っているのか、色が抜けていた。何かの作業中だったのかもしれない。洋風の油絵の具ではないが、日本の伝統的な絵具とも違っていた。


「ああ、これ? 汚くてごめんね。リキテックスって、布に着くと落ちないんだよね」


 私はその絵具の名前を知っていた。リキテックス。良い響きだ。高校の美術の授業で、油かリキテックスを選択することになり、私は一人、リキテックスを選んだ。他の人は皆油だったから、自分は他の人と違うとアピールしたかったのかもしれない。リクテックスは乾きが早く、乾いた後はビニールのような質感になる。厚みを出すために、グロスポリマーメジウムという、白くてドロドロした物を混ぜて使う。パレットに乗せた瞬間から乾き始めるため、霧吹きでパレットに水を吹きかけながら作業をする。その面倒だが楽しい作業を、私は懐かしく思った。そして、やはり幸が私と同じ素材を選んでいることに、喜びを感じていた。


「あの、幸さんは、どうして私の絵が好きだったんですか?」


 不安になりながらも、自分の才能を認めてくれたのだと期待する。しかし幸はそんな私の期待をあっけなく吹き飛ばしてしまう。


「うーん。ぎらぎらしているところかな」


キラキラだったら嬉しかったのだが、ぎらぎらとは、何となく嫌な響きだった。脂ぎっていているものや、貪欲な物に使うような、とにかく良くないことに使う印象が強い。


「欲にまみれてて、先生やテーマに媚びていて、それが透けて見えるから、面白かった」


 これは褒められているのではなく、確実にけなされている。しかし不思議と怒りや不快さは感じられなかった。それは私が小学生の頃に体験したクラスの空気感が、幸の言葉から感じられなかったからかもしれない。幸にとって、欲にまみれていることや媚びることは、とても人間的で面白いことであり、批判の対象ではないのだ。


「何ていうか、人間の生々しさがあって、良かった」

「ありがとう。そう言ってもらえれば嬉しいけど、やっぱり才能があるのは、幸さんみたいな人だと思う。光栄だわ」


私は幸に対して尊崇の念さえ抱いていた。嫉妬なんて入り込む余地はやはり無く、この人について行きたいとまで思えた。


「幸って、呼び捨てにしていいよ。俺も映って呼んでいい?」

「もちろん」


人間性でも、私は幸より劣っているような気がした。私は初対面の人とこんなふうに仲良くなれるほど、コミュニケーション力が高くないという自覚はあった。


 美大のイメージとして、単に絵を描いている部分しか持っていない人も多い。私も入学するまではそうだった。しかし日本画なら日本画の、西洋画だったら西洋の歴史も学ばなければならない。時には大学を飛び出して、市のイベントの中心メンバーとして参加することもあり、目が本当に回るくらいの忙しさだった。昼食をそっちのけで課題をこなしていることも多い。幸と私は西洋美術コースだから、一緒に授業を受け、一緒に課題をこなし、一緒に絵を描いて、共に時間を過ごした。出会った時から勘付いてはいたが、幸は推薦入試で入学しており、私とはスタート位置が違っていた。それでも幸は私見放したり、下に見たりしなかった。常に私を助けてくれる幸を、私は友達以上に大切に思うようになっていた。


 その一方で、幸が何かの賞を取るたびに、それに比例して私の小さな夢は削がれていった。就職活動を始める頃には、イラストレーターのイの字も口に出すことはなくなった。私の夢は、幸を応援することに変わっていたのだ。幸は先生や先輩からの誘いもあり、大学院に進学することを決めていた。ただそれだけのことが、私にとっても誇らしかったし、嬉しかった。


 一方で、私の就職活動は難航していた。送ったエントリーシートの数は百社を越えていた。会社説明会や就職セミナーにも、何度も足を運んだ。しかしどれも一次面接が関の山だった。面接まで行けた方が珍しく、ほとんど書類の段階で落ちていた。他の同期が、美術館や博物館を中心に、次々と内定をもらっていく中、私は明らかに取り残されていた。私は顔つきがあまり穏やかとは言えず、その割に極端な人見知りだった。人前では極度に緊張し、何も話せない。その性格的な不器用さもあるにもかかわらず、手先も不器用だった。内定が貰えないということは、私が社会にとって必要とされていないという思いにとらわれていた。そんな私を支えてくれたのは、やはり幸だった。内定が得られず、泣いている私に、そっと温かい飲み物を出してくれたり、私が面接の時は家事を全てやってくれたりした。そして「頑張り過ぎだよ。もう少し力を抜いてみたら?」とか、「映の真面目さや一生懸命さは、きっと伝わるよ」とか、いつも私を励ましてくれた。売り手優位言われる今どきの就職活動にあっても、優秀な人は早く内定をもらい、何社から内定が貰えたか分からないくらいに内定を得る中、いまだに内定を一社からももらえていない私は、ついに卒業制作と就職活動を並行しなければならなくなった。皆、四年の前半で内定をもらっていて、一社にも受からないのは私だけだった。


 私は自分に何の価値も見いだせなくなった頃、アパートのポストに一通の手紙を見つけた。以前に面接まで行ったことのある文房具店のマークがついていた。私は期待と不安を感じながら、その封を切った。短い文章の中に、しっかりと「内定」の文字があった。いつも目にして落ち込んでいた「残念ながら」とか、「見送り」とかという言葉は、なかった。私はポストの前で叫びそうになるのをこらえ、小さく拳を握りしめた。それは待ちに待った、内定通知書だった。私は走ってアパートの部屋に向かい、ドアをノックもせずに開けた。幸は鍵もチェーンもかけていなかった。


「幸っ! 幸、やったよ! 内定貰ったよ!」


 私は幸と半同棲生活となっていた部屋に、飛び込んでいた。


「おめでとう! 映」



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