23.その代償

「悠創館。文化施設か。確かにここなら誰もが利用する」

「悠創館の中には、県立図書館が入っている」


 俺はスマホから則田に顔を向ける。インターネットやスマホなど、情報過多な現代だが、デマや拡張された、裏付けのないもので溢れかえっている。だから今でも図書館の利用がなくならないのだ。人は何かを本気で調べたい時、本を探して、調べる。つまりこの四人は、この県立図書館で、同じ本を見た可能性があるのだ。しかしどの本を見て獏について、いや、悪夢について調べ、獏に出会ってしまったのか。確か県立図書館の蔵書数は、三十万冊で、蔵書検索で「夢」をキーワードに入れて検索してみても、それほど絞れない。しかも絞れた本が、本当に四人とも開いてみた本なのかは、確証は得られない。


「そこで、ぼんぼん。取引しないか?」


 則田が飲み干したジョッキをテーブルに、ドンと置く。そこには意地悪そうな笑みが浮かんでいた。


「取引? 一体何の?」


 俺は急に現実味を帯びてきた不穏な響きに、戸惑っていた。すると則田は当然のように言った。


「情報交換に決まっているだろ?」

「だから、何の?」


 俺は腐っても医者だ。俺の持っている情報で他人が得たい情報と言えば、患者の個人情報しか思い当たらなかった。カルテにはあらゆる患者の情報が載っている。病歴だけではなく、薬の処方や家族関係など、闇業者にとっては垂涎の情報だろう。則田が闇業者だと思っているわけではないが、則田からどのように漏れてしまうかも分からない世の中なのだ。


「俺は県立図書館の司書と仲がいい。裏で情報をやり取りできる。図書館利用者の利用履歴も、しかり」

「つまり、借りた本の履歴が、データとして残っている?」


 なるほど、と俺は唸る。四人が通っているとみられる県立図書館の、貸出履歴が分かれば、それらを見比べることで、四人が共通して借りた本が絞り込めるだろう。そして、借りてまで読みたい本ならば、おそらくその本を四人とも開いている可能性が高い。


「そう言うことだ」

「じゃあ、その代償は?」


 恐る恐る、俺は質問してしまっていた。もう、則田が俺には得体のしれない化け物に見えてきていた。目の前の男のような女は、則田の皮を被った化け物ではないのか。その化け物は、俺を強請って、食い殺すつもりではないのか。つまり、則田は本当はもう、死んでいるのではないのか。そして今度は俺の皮を被って、また別の獲物を探すのではないのか。そんな幻想を抱いた。人間の皮を次々に変えながら、人を喰う化け物。俺の目の前で薄く笑う則田は、本物なのかどうか怪しくなっている。


「現代の獏。つまり青年が書いたという絵だよ」


 俺は生唾を飲み込んだ。則田がやろうとしているのは、個人情報の抜き取りだ。この情報社会にあって、プライバシーの侵害は間違いなく黒だ。そしてこちらの絵の方も、拡散しないようにと、釘を刺されている。これも著作権の面から言えば、限りなく黒に近いグレーだろう。しかし則田も患者の一人だ。現代版の獏を知れば、入手したい気持ちもよく分かる。そんな俺の迷いを察するかのように、則田は言った。


「次にこの病気が発生した場合、お前はどうしたいんだ?」


 そう言われると、心が揺れた。まるで甘美な悪魔のささやきだった。そしてあの青年への敗北感を思い出す。自分にはどんなに努力しても完治できなかった患者を、すぐに病から救い出した青年。次もあんなへらへらした奴に頼るしかないのか? すぐそこに大きな手掛かりがあるのに、見ないふりができるのか? 人間として、医師として、他人の病を放っておくことなど、できない。しかし、これは法に関わる問題だ。俺一人の裁量で、決めてもいいのだろうか。せめて、あの優男にコピーの許可を得てからにした方が良いのではないか。きっと黒森映なら、何の疑いもなく俺にあの青年の電話番号を教えてくれるだろう。しかしそれではやはり、患者の信頼を利用していることになる。そんなことをして許されるわけがない。しかし、強く「拡散させないでほしい」と言っていたという青年のことだ。則田のために絵のコピーを取ることを、許してくれないのではないか。そうなれば、もう四人の本の貸し出し情報は得られない。


「目の前に死にそうな患者がいて、お前はどうするのが最善だと思ってるんだ?」


 最終的に則田のこの言葉が、俺の背中を強く推した。俺は目を閉じて項垂れ、溜息と共に言葉を吐きだしていた。


「拡散しないことを条件に、その取引に乗るよ」

「ぼんぼんなら、きっとそう言ってくれると思ったよ。分かってる。絵は薬と同じだからな。自分に効くからと言って、他人に素人が勧めるのは良くない」


 そう言いながら、則田はUSBメモリーを俺に渡した。その則田の笑顔は女性じみていて、馴染みのないものだった。


「まさか、もう?」


 受け取りながら、俺は驚いていた。


「話の展開は読めてたんでな。こっちも拡散しないでくれよ」


 則田には、今日の話の展開が初めから分かり切っていた。その事実に、愕然とする。では、俺のホルモンの話も、獏の話も、俺が辿り着く「図書館」という解答も、ずっと則田に操られていたというわけか。初めから則田は、話の主導権を握ったまま放さなかったのだ。俺は自分が対等に相手と話していたつもりだったが、やはり化け物の手の上で、踊らされていた道化だったのだ。しかも、最後の最後で、則田の手の内に落ちたのだ。情報提供者から、有益な情報を聞き出す能力に長けている則田には、最初から分があったということなのだろう。そこまで俺は考えていなかった。ただ単に話がしたいと、油断していた。もはやお手上げの状態だった。


「もちろんだ。ありがとう」


 俺はバッグの中から、クリアファイルに挟んだ絵のコピーを取り出した。


「これは青年が黒森さんのために描いた絵だ。絵を描くにあったって、対象者と面談して、その人のためだけに描かれた絵なんだ。だからこれはコピーだし、お前のためだけに描かれた物でもないから、お前にとって薬になるかは分からない。それでもいいのか?」

「もちろん。コピーする前に見せてくれ」

「ああ。うん」


 俺がファイルに入れたまま絵を則田に渡すと、則田は目を擦った。おそらく手前の翼だけにピントが合っていて、背景がぼやけるように描いてあるから、自分の目がおかしいと勘違いしたのだろう。この店の照明のせいもあるかもしれない。そのことを説明すると、則田は納得したような顔になる。そして小さく頷きながらつぶやく。


「まるで、錯視だな」

「錯視……」


 その言葉に、俺は瞠目する。目から得られる情報は、必ずしも正確ではない。これまでの経験や常識に照らし合わせて判断しているのだ。それがある種の先入観となって、視覚情報に間違った解釈を与えることがある。本当は見えていないのに、脳が勝手に「見えている」と判断してしまうことを、「錯視」と呼ぶのだ。もしも、夢の中で見ていた獏を、錯視していたとしたら、「幻覚か夢か現実か分からない」という症状にも説明がつく。俺の鼓動は早鐘を打ち始めた。興奮している証拠だ。


「悪い。コピー取ってすぐ戻る」

「え?」


 呆けている則田を残し、俺は近くのコンビニに駆け込んだ。

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