32.病院へ

「罹り付けはどこですか? 旦那さんの血液型は?」


 映は咄嗟に清川が勤務する病院の名と俺の血液型を挙げたが、隊員たちは顔を見合わせて首を振る。そこには映に対する憐憫も含まれていた。夫がこのような状態になった妻が、精神的に病んでいることに対するものだ。本来なら、「他の病院は?」ときくべきだったろうが、隊員たちはそれをしなかった。映も一緒に乗り込んでいたので、「言葉をかけ続けて下さい」と言われた。映は泣きながら、血だらけのタオルを握りしめ、俺の名前を必死に呼んだ。隊員が電話をかけ、受け入れ先の病院が決まると、再びサイレンを鳴らして走る。結局、アパートから一番近い病院に運ばれることが決まった。信号を無視し、車に道を譲るように呼びかける。あまりに映が取り乱していたので、映が答えた俺の血液型に信憑性がなく、隊員たちは映が持っていた鞄から俺の入れっぱなしになっていたお薬手帳を取出し、その末尾に記載された俺の血液型を確認する。そして、救急車の中で輸血されながら病院へ向かう。映はずっと泣きじゃくっていた。俺のことしか目に入らず、自分の手についた血や、服に着いた血など、全く気付いていなかった。


 俺が運び込まれたのは、公立病院だった。映が渡したバッグの中から隊員は免許証を見つけ、生年月日と名前を確認する。それを病院側に伝え、病院のスタッフと隊員がストレチャーから病院のベッドに俺の体を移すと、救急隊員たちは、救急車に乗り込み、あっという間に去って行った。息の合ったその連係プレーを、映は祈るような格好で見つめていた。


 その映の姿に気付いた看護師が、俺から映を引きはがすようにして廊下に連れ出す。震えながら泣く映を、看護師が毛布で包んで、擦って、落ち着かせようとしている。俺はそのまま手術室に運ばれて行った。映はひどく混乱していた。


「どうして、どうしてこんなことに?」


 そう、映は繰り返した。俺が清川と連絡すると言っていたこと。自分を優しくベッドに寝せてくれたこと。映はそのまま俺の描いた絵を見ながら眠りについたこと。そして、自分の名前を呼ばれて起き上がると、俺が血を流して隣で倒れていたこと。何故そうなったのか、映には全く理解できなかった。


 窓には全て鍵がかかっていたはずだ。ドアにもチェーンがかかっていたことは、救急隊員が証言するだろう。つまり、外から部屋の中に侵入するのは不可能だったのだ。外部犯なら、密室トリックでも使わない限り、犯行は無理だ。さらに言うなら、部屋には俺と映しかいなかったし、凶器は台所にあった包丁だった。包丁は壁際の収納扉の包丁立てにあった。初めてアパートに踏み込んだ人間には、探さなければ見つけられない場所に、凶器があったことになる。


 そして、映はまた悪夢を見ていたのだ。ただし「悪夢病」とは違った悪夢だった。映は夢の中で、凶器を持った強盗に対抗するために、包丁を持っていた。映は夢の中で、俺を守ろうとしていたのだ。そんな夢の途中で、俺に起こされ、俺が血の海にいることに気が付いた。そして映の手も血まみれで、今はもう、血が乾ききって剥がれ落ち、カピカピになっていた。返り血を浴びたように映の服も血まみれだった。服に着いた血も、乾いて鮮やかさはもうなかった。一見、ワンピースに元からあった黒い模様のように見えた。状況から言ってしまえば、この殺人未遂事件の犯人は、映だった。しかし映には俺を刺してという記憶がなかった。記憶どころか、動機もないだだから、この状況を一番理解できなかったのは、映本人なのかもしれない。


「わ、私が、幸を……? そんなこと、嘘よ」


 映は自分の真っ赤な両手を見ながら、涙を流していた。体も心も震わせて、映がぎゅっと目を強く瞑る。自分の見たものを打ち消すように、否定の言葉を繰り返す。


「だって、あれは、夢で……。私が包丁を握ったのは、夢、だったのに」

「しっかりして下さい。今、旦那さんも頑張っているんですよ?」


付き添いの看護師は、いまだに俺と映の関係性を誤解したまま、映を励まし続けた。


「先生に、連絡を。清川先生なら、きっと……」


映は真っ赤な両手を握りしめて、清川の姿を思い出していた。


「きよかわ先生?」

「――病院の、清川先生です」

「――病院? あの精神科の? あなた、そこの患者さんなの?」


 ぎこちなく、油の切れた機械のように映はうなずく。看護師の顔色が一変する。何か、異物を見つけたかのような表情だった。同じ病院であっても、精神科の病棟を持つ病院はあまり聞こえが良くないらしい。そして悪いことが重なった。映を励ましていた看護師は、精神疾患にあまり理解がない人物だった。


「ちょっと待っていて下さい」


 そう言うと、看護師は別の看護師の元に駆け寄って、何か話していた。そして、何か伝言を受け取ったかのような看護師は、目を見開いて、一瞬、映の方を見て、薄暗い病院の廊下を走っていった。戻ってきた看護師の前で、映は繰り返し俺の名を呼んでいた。


 そして映はうずくまって、頭を抱えた。映は俺のことを、本当に大切に想ってくれていた。片時も離れたくない、人生のパートナーとして見てくれていたのだ。映はただ、俺の命が助かることだけを祈っていた。その一方で、映は状況的に自分が俺を殺そうとしたかもしれないと、思っているようだ。先ほど走り去った看護師が、再び慌てふためいた様子で駆けてきた。ここに来て公立病院の看護士たちは、映がいわゆる「悪夢病」の患者だということを知った。看護師は、ことの重大さに気づいて、すぐに清川に連絡を取ってくれたのだ。連絡を受けた清川は、すぐに映を再入院させることを決め、これから映を迎えに行くと告げて、電話を切った。看護師たちが困惑の表情で、映のことを見つめていた。夫を刺された痛々しい妻という認識から、夫を刺した精神病の女という認識に変わったのだ。そこには確かに、差別的な偏見がふんだんに盛り込まれていた。動機などなくても、頭の狂った女は何をするのか分からないという、敵意に満ちた偏見だった。映に最初から付き添っていた看護師ですら、映から一定の距離を保って近づいてこなかった。まだ映たちが罹った病気は、世間的にはあまり知られていなかった。そのため、理解の無い看護師たちは、映をただの殺人者として見ていたのだ。それでも映は、俺と同じ病院内にいる事で、何とか自分を保っていた。




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